タタリは存在するから恐れる人達 | 天然記録

 

 

↑より抜粋

 

慶応4年(1868)7月

江戸を東京と改称する詔(みことのり)が発令されたが

8月に入っても、明治天皇はまだ正式に即位していなかった。

先代の孝明天皇が亡くなって

ただちに明治天皇が即位したと思っている人は多く

歴史の専門家ですら間違えている人がいるが

慶応2年12月25日(和暦)に孝明天皇が崩御された後

皇太子であった睦仁(むつひと)親王(祐宮:さちのみや)は

践祚(せんそ)はしたが即位はしていない。

ちなみに践祚とは、内々に天皇の位を引き継ぐことで

そのことを内外に明らかにすることを即位という。

 

明治天皇は先代が亡くなって2年近くたつのに

即位はしていなかったのだ。

当然、即位に伴う改元も無かった。

本当なら約2年前に新天皇は即位し

元号を慶応から明治に改めるべきだったのだが

なぜこの時点でそれらがまだ行われていなかったのか?

 

崇徳(すとく)天皇の怨霊のタタリを恐れていたのである。

崇徳天皇(上皇)とは、どういう人物であったか

一言で言うなら「日本一の大魔王」として恐れられた天皇である。

保元(ほうげん)の乱(1156年)で

覇権をかけて後白河天皇(のち上皇)と戦ったが敗れ

遠く讃岐国(香川県)の地に流された。

しかし、己の行動を後悔し

都へ自ら写経した五部大乗経を送ったところ

(仏語。天台宗でいう、大乗の教法を説いたものとして選ばれた五部の経典

すなわち、華厳経、大集経、大品般若経(摩訶般若波羅蜜経)

法華経、涅槃経の五部。五部の大乗)

朝廷に突き返され、怒りのあまり

「皇(おう)を取って民とし、民を皇となさん」という

「天皇家を没落させる」という呪いの言葉を残して憤死した人物である。

そして、その「呪い」は実現した。

 

長寛(ちょうかん)2年(1164)8月26日に

配流(はいる)先の讃岐で崇徳上皇は無念の死を遂げたが

それから数年もたたないうちに卑しい身分であった武士出身の

平清盛が天下を牛耳るようになり

その平家が滅ぶと今度は源氏の世の中になった。

そしてその体制に反旗をひるがえした後鳥羽上皇は

何と武士たちの手によって島流しにされた。

まさに「天皇家は没落した」のである。

 

もちろん、多くの現代人は

「それは非科学的だ」と言うかもしれない。

しかし、問題はこの国の指導者あるいは知識階級で

朝廷側に立つ人々はこれを固く信じていたということなのだ。

今、キリスト教が多くの国々で信仰されていることは

紛れもない事実だが、キリスト教を信じるということは

科学的に考えたらあり得ない「奇蹟」を

神のみわざとして信じることである。

「そんなことはあり得ない」といくら科学で証明しても

信仰は揺るがないし

とくに過去においてはそうした信仰が歴史を動かして来たのだ。

日本も同じである。

 

怨霊信仰は朝廷(天皇や公家)側の信仰であって

幕府(将軍や武士)のものではない。

そこは注意が必要だが

だからこそ朝廷は、政権を失ったことを自らの責任だとは思わず

崇徳上皇の怨霊のせいだ、と考えたのである。

これがいかに固い信仰であったか

たとえば国民文学とも言える「太平記」には

世を乱す怨霊会議の主座として崇徳上皇が登場するし

江戸期を代表する文学「雨月(うげつ)物語」には

大怨霊崇徳上皇と西行(さいぎょう)法師の問答が語られている。

崇徳上皇(崇徳院)が

天皇家から政権を失わせた張本人だということは

「日本人の常識」だったのである。

しかし、幕末という時代は

幕府に奪われた政権がようやく朝廷に返って来た時期でもある。

そこで、朝廷は幕府が崩壊をし始めたころから

政権が確実に恒久的に(後醍醐天皇のような一時的なものではなく)

戻って来るように一大「霊的プロジェクト」を進めていた。

 

それは崇徳院の霊に詫びを入れ

その神霊に京都に帰還していただく

というものである。念のために言うが

これは朝廷の公式計画として立案・実行されたことで

そのことは宮内庁発行の公式記録である

「明治天皇紀」にも載せられている歴史的事実である。

この計画は既に孝明天皇の時代から進められていた。

崇徳院没後700年にあたる元治元年(1864)は

「禁門(蛤御門:はまぐりごもん)の変」が起きた年であった。

この時、長州はなぜ朝敵とされたか?

御所に向かって発砲したからである。

本来「御所への発砲」など起こってはいけない事態だ。

おわかりだろう。朝廷ではこういうことも含めて

「崇徳院のタタリ」と捉えていたのである。

 

怨霊は鎮魂されなければならない。

実は、こうした事態をすでに予測していた人物がいた。

国学者、中瑞雲斎(なかずいうんさい)である。

彼の名はあまり有名ではないが

実は朝廷に相当な影響力を持っていた学者だった。

明治になって国粋主義者による

横井小楠(よこいしょうなん)暗殺事件が起こったが

実はその黒幕として処刑された人物でもある。

 

中は崇徳院の怨霊鎮魂計画を

「まどのひとりごと」という書にまとめ

これを当時孝明帝の側近だった中川宮を通じて献上した。

一読した天皇は、ただちに計画の遂行を命じたが

間もなく「病死」してしまった。

ひょっとしたらこのことも

当時の朝廷関係者は「タタリ」と捉えたかもしれないが

そのためだろうと孝明帝の跡を継いだ

睦仁親王は践祚はしたが即位はせず、改元もしなかった。

ところが、大政奉還が行なわれ

どうやら天皇家の復権が確実になりつつあったこともあり

天皇はとうとう慶応4年8月に

大納言源道富(みちとみ)を勅使として讃岐へ派遣し

26日に御陵の前で宣命:せんみょう

(天皇のメッセージ)が読み上げられたのである。

 

この宣命の読み上げられた日付にご注目願いたい。

8月26日、そうそれは崇徳院の命日なのである。

つまり勅使一行は初めからこの日に

宣命を読み上げることを予定していたのだ。

そして、天皇はその翌日の27日正式に即位したのである。

もちろん、この頃は電話もメールも無いが

このような段取りがあらかじめ決められていたのだろう。

そして、この続きもある。

 

勅使は崇徳院の神霊を「輿」に乗せた。

いわゆる神輿だ。

これが海路を経て京に入ったのは、9月6日のことである。

ただちに神霊は京都の今出川に今もある白峯神宮に祀られた。

実はこの神宮はサッカーの守護神として業界では有名だ。

と言っても、崇徳院とサッカーが関係あるわけではない。

実はこの地は元来は

公家の飛鳥井家の守護神毬(まり)大明神を祀る地であった。

中級以下の公家には、家伝の仕事があって

飛鳥井家は蹴鞠(けまり)だったので

その守護神を祀っていた。

 

一方、朝廷は崇徳院の神霊をお迎えする場所を探していたが

洛中では程よい場所には神社仏閣が建っている。

どこかの神様に譲ってもらうしかない。

そこで選ばれたのが飛鳥井家(あすかいけ)だったのだ。

崇徳院の神霊が祀られる場所を提供し

毬大明神は摂社(付属の神社)という形で退いた。

そこでサッカー関係者が白峯神宮にお参りするという形が定着したのだ。

この間も白峯神宮に参拝してきたが

ちょうど高校のサッカー部の関係者が参拝していた。

それはいいのだが、彼らは本殿に参拝したものの

肝心の毬大明神には目もくれずに神社から出て行った。

毬大明神がお怒りにならなければいいのだが(笑)

 

話を戻そう。

では、正式に即位した明治天皇が

元号を明治と改めたのはいつなのか?

実は、この崇徳院が白峯神宮に遷座(せんざ)して

2日後の9月8日に新帝は元号を明治と改元しているのだ。

この間に何があったか、もうおわかりだろう。

新帝は実に700年ぶりに戻って来た

崇徳院の神霊を白峯神宮において参拝したのだ。

それを済ませてから、初めて元号を明治と改めたのである。

この甲斐あって、結果的に戊辰戦争は新政府つまり朝廷の勝利に終わる。

鎮魂は成功したのである。

 

謝罪と京への遷座

それをもって崇徳院は朝廷を呪う怨霊から

朝廷を守護する御霊(ごりょう)に変身した。

そして、それはこの国が生まれて以来

常に為政者(政治を行なう者)が心掛けていたことだった。

ちなみに崇徳院没後800年にあたる1964年

(昭和39年)は前回のオリンピックが開かれた年だ。

この年、昭和天皇は勅使をこの式年祭に派遣している。

その甲斐あってかオリンピックは無事開催された。

次回900年の式年祭は2064年である。

また東京と改称された江戸の守護神は神田明神で

この御祭神は平将門であった。

 

実は明治7年(1874)

住居を東京に移していた明治天皇は

ここを参拝しているが、神社側が反逆者(朝敵)の

将門を天皇に参拝して頂くのは畏れ多いと

将門を摂社に移して、主殿には代わりに皇室系の

スクナビコナノミコトが祀られた。

(現在は将門も主祭神に復帰)とされているが

そもそも明治天皇はなぜ神田明神へ参拝したのか?

東京の神社で天皇が参拝したのは

靖国神社の前身の東京招魂社(しょうこんしゃ)

と神田明神だけである。

 

思うに、東京を首都にするにあたって

将門の霊に挨拶し首都の長久を祈ったのではあるまいか。

そして、後の靖国に同時期に参拝したのは

これまでに怨霊信仰から一歩踏み出した新しい

「護国神道」とも言うべきものの構築が頭にあったのだろう。

明治、そして近代はここから始まったのである。

 

この巻おわり