天然記録 -101ページ目

 

 

↑より抜粋

 

皇族に与えられたのが「源」「平」など一字姓であるのに対し

臣下(しんか:君主に仕える者)に与えられた姓が二字姓であるのは

やはり昔は何らかの区別があったのかもしれない。

とにかく「豊かな」「臣下」という意味なのか

「豊臣」という姓が考案され(誰が考えたのかはわからない)

これが天皇から下賜(かし)されるという形で、秀吉に与えられた。

しかし、秀吉は「天皇の臣下たる関白」に甘んじる気持ちは毛頭なかった。

 

そういえば、秀吉をからかった歌も今に残されている。

 

末世とは他にはあらじ木の下の

猿関白を見るにつけても

 

あえて訳すまでもないと思うが、秀吉の旧姓いや前の苗字が

「木下」であることに引っかけて

「木の下の猿」という句を作ったのがこの作者の手腕である。

「世も末とは今のことだ、元サルと呼ばれた

木下藤吉郎だった足軽が今は関白なのだから」という意味だが

秀吉の天下取りを分析するには、その視点が欠かせない。

我々は、身分の平等を絶対とする社会に

その前提をまったく疑わず生きているので

このことがどうしても分かりにくくなる。

 

 

秀吉の侵略を韓国側では

「壬辰倭乱」(じんしんわらん)と呼んでいるわけだが(壬辰は年号)

「倭」という言葉は「小さくて醜い」という蔑称であり

「乱」という言葉は「家臣などが主人に向かって謀反(むほん)を起こすこと」である。

つまりこれは「醜い日本民族が主人である朝鮮民族に反抗した」という意味になる。

この言葉を使う以上、使った人間は自分の方が「上位」だと思い込んでいるということだ。

これより300年も前の元寇(げんこう)では

古代に日本を「倭」と呼んだ中国さえ

「日本征伐」(せいばつ)と言っていたのにである。

あの元のフビライですら日本のことを「倭」とは呼ばなかった。

 

理由はもちろん中華思想である。

 

李氏朝鮮は後に「小中華の国」と呼ばれる。

つまり、あくまで「親分」は中国だが、日本よりは「上位」だという意味だ。

 

壬辰倭乱(1592~1598)の29年後の1626年

韓国で「丁卯胡乱」(ていぼうこらん)と呼んでいる戦いが起こった。

「胡」とはやはり「異民族で野蛮人」という意味だ。

それは後金(こうきん:17世紀前半に満洲に興った満洲人の国家で、清の前身)

の侵略であった。

破れた高麗はこの「野蛮人」を「兄」として立て

自分は「弟」として仕えるという形で講和を結んだ。

 

明治以降、日本がアジアの強国となって清の影響力を弱めたため

朝鮮はようやく清から独立することができた。

そこで迎恩門(げいおんもん)を叩きこわして独立門を建てたのである。

ところが、今、韓国人の多くはそこにかつての迎恩門があったことを知らないという。

それどころか、この「独立」を「清からの独立」ではなく

「日本からの独立」と思い込んでいる人すらいるという。

 

清の侵略に屈した李氏朝鮮が、極めて屈辱的な講和を強いられ

「属国」状態に貶められたこと、これは歴史的事実なのである。

 

あなたは現代の韓国人が自身の口で、あるいは著書で

次のように語るのに接したことはないか?

 

「わが民族は有史以来、千回外国勢力の侵略を受けても

すべてはねかえして独立を保ってきた」

 

お国自慢はどの民族にもあるが、聞き捨てならないのは、これに続く次のような言葉だ。

 

「その独立を初めて奪ったのが日本、すなわち大日本帝国である。

だからこそ日帝36年は許し難い」

 

清に降伏した後の朝鮮は独立国と言えるのか?

 

清国軍十万の侵略をうけて降伏した朝鮮は、以下の三点を盟約させられている。

 

一、朝鮮は公文書に清の年号を用いること

二、王位継承において、冊封(さくほう)を受けること

三、一年四貢の朝貢(ちょうこう)を行い、礼物を受領すること

 

このような事実を韓国の教科書はまったく書いていない。

 

この他に毎年「金銀」と「女」を献上するという条件まである。

私だって、自分の祖国の歴史にこんな屈辱的な一コマがあったら

これから目をそらしたいと素朴な感情にどうしたって襲われるだろう。

 

韓国は清の属国だったのである。

日本は「文禄の役(ぶんろく:日本年号)」と言うのになぜ

「壬辰倭乱」とか「丙子胡乱」(へいしこらん)と言うかといえば

それは年号すら中国(明あるいは清)のものしか使えなかったから

自国の事件は干支であらわすしかなかったということなのである。

 

では、誰の目からみても、朝鮮半島の国家が近代的独立国家となったのはいつか?

それは1895年(明治28)の下関条約においてである。

その年、日清戦争に勝った日本が、日本の下関で結ばれた講和条約において

清側に「朝鮮は完全な独立国である」ということを認めさせたからだ。

ところが、今の韓国の歴史の「基本コンセプト」は

「日本がすべて悪い」

「近代史における日本の朝鮮半島への貢献など一切ない」

というものだからこうした日本の「貢献」は何としても消さなければいけなくなる。

そこで、「日帝36年で初めて国の独立が失われた」という「嘘」をつく必要があったのだ。

韓国は実に頻繁に日本のことを「歴史歪曲」と非難するが

本当に歴史歪曲を犯しているのは韓国の方なのである。

 

 

李朝では、権力がすべてだった。

権力の座に座った者が、暴虐の限りを尽くした。

法は権力者によって、好き勝手に用いられた。

権力の奪い合いは、凄惨(せいさん)をきわめた。

民衆はただ搾取の対象となった。

権力者は美辞麗句を弄んだ(もてあそんだ)が

人命も、道徳も、顧みることがなかった。

民衆は過酷な社会の中で生き延びるために

偽ることが日常の習性となった。

李朝では役人の目や耳を欺くために、商人の間で反語が用いられた。

買う持に「売る」と言い、売る時に「買う」と

まったく逆のことを言った。

今日の韓国でも、いまだに反語的な発想がはびこっている。

 

なぜ、豊臣秀吉を語るのに、韓国の近現代史を語らねばならないか

少しは理解して頂けただろうか?

 

以上のような「社会」へ攻め込んだのが秀吉である。

しかし「悪いのは日本人で、李朝はすべて正しい」のであれば

秀吉に対する正確な評価が韓国の中で書かれることがあるだろうか

ということなのである。

少なくとも韓国側の秀吉に対する学問的な評価は

公平ではない危険性が高いとは言えるだろう。

 

 

秀吉の「唐入り」の原因は明が勘合貿易(かんごう)の復活を認めなかったからだ。

という説が昔からある。

それは確かにそうなのだが、基本的に中国は

他の国との対等な関係を認めない国であるということへの認識が甘い気がする。

逆に言えば、明の側から見ても

秀吉と対等になるなどということは決して許さないということだ。

東アジアの中華体制というのは、大きな虚構と言ってもいい。

日本が中国の属国ならば、それは決して虚構とは言えないのだが

実際には属国でないにもかかわらず、相手が「日本国王」と名乗ってくれば

それを「朝貢」と認めて「領納」するというのが、虚構の虚構たるゆえんだ。

しかし、それから一歩踏み出そうとしたら、一体どういうことになるか?

この虚構の中心地を討ち、それを破壊するしか方法はあるまい。

秀吉の「唐入り」とは、それだったと私は考えている。

では、その「とばっちり」を食う形になった朝鮮では秀吉をどう見ていたか。

朝鮮の使者が秀吉を見た時の記録がある。

 

「醜くて小さく顔は真っ黒に日焼けしている。ただ眼光は鋭い」

 

ということだが、儒教の世界では日に焼けているだけで

労働者階級だから、下層民だという意識がある。

しかし、そういう「差別意識」とは別に、秀吉は「明に攻め入るから協力せよ」

という国書を突きつけてきたのだから、当然それについて対策を練らねばならない。

 

「明へ討ち入るから朝鮮はその先駆けとなれ」という

思いがけない秀吉の意図を知った朝鮮通信使たちは

1591年(天正19)正月に首都漢城(現ソウル)へと帰った。

ところが、ここで、他の国なら有り得ないことが起こった。

正使と副使が正反対の報告をしたのである。

 

正使は「秀吉は攻めてくるつもりでしょう」と国王に報告した。

 

一方副使は「そのようなことはありません」と復命した。

 

そして、さらに驚くべきことは、左議政(首相とも言える)

柳成竜(りゅうせいりゅう)は副使の報告を正しいものと認め

「秀吉の侵攻は無い」と決めてしまったのである。

 

今の韓国では「日本は悪」ということを強調したいために

李朝という体制が、少なくとも政治体制としては

いかに下らないものであったかを隠そうとしている。

だから一般の韓国人も李朝というと、好意を抱いている人が少なくないという。

だが、それは私に言わせれば、とんでもない誤りだ。

李朝が、その国民にとっても、いかに「悪」であったかということは

この「唐入り」において次々と明らかになるだろう。

 

秀吉はいきなり奇襲上陸作戦を展開したわけではない。

まず何度も朝鮮側に予告し、しかも基地(名護屋城)まで建設している。

「侵攻の危険性あり」と見て、情報収集につとめていたら

それほど努力しなくても攻撃のタイミングを摑み、そして自国の水軍に

迎撃命令を出すことは可能だったはずだが、そういう動きはまったく無く

結局やすやすと上陸を許してしまった。

 

そして、この時代朝鮮はまったく平和な時代だったので

軍備は形骸化しており、倭寇(わこう)取締まりのために

実戦も経験した水軍はともかく、陸軍はまるでカカシも同然だった。

実際、軍隊の司令官クラスでさえ敵前逃亡した者があり

それぐらいだから一般兵の逃亡は止めようがなかった。

まともに戦おうとした軍人たちも、ほとんど戦いらしい戦いもできず

小西行長の第一軍、加藤清正の第二軍の侵攻を許した。

漢城における攻防戦は相当激烈だったのか?

実はそういうものはまったくなかった。

朝鮮の宣祖王は、これではとても抗戦できないと、王宮を捨てて逃げてしまったからである。

ところで、ここで重大な誤解を正しておきたい。

日本の観光ガイド、韓国側の歴史解説書の類の中にも

この時、日本軍が朝鮮の王宮に放火し焼き払ったと思い込ませるような記述がある。

「日本軍が漢城に入り王宮が焼けた」という書き方をすれば

誰もが「秀吉軍が焼いた」と思うだろう。

実はそうではない。

それは朝鮮側の公式記録である「李朝実録」で明らかなことである。

 

暴徒化した朝鮮民衆によって王宮は略奪、放火された。

それは、李朝の圧政に多くの民衆が苦しんでいたからである。

特に問題なのは、人民を「良民」と「奴婢(ぬひ)」に厳しく分別し

差別を基本とした政治を行っていたからだ。

その「差別戸籍」を管理していたのが

「掌隷院と刑曹」(しょうれいいんとけいそう)なのである。

だからこそ、人々は「暴君」が逃げ出した後、歓呼の声をあげて王宮に乱入し

身分差別の元凶に放火したというわけだ。

 

韓国人は今でも多くの人々が両班(やんばん:上流階級)出身だという。

日本でも家系を自慢する人はいないではないが韓国はそれが多すぎる。

しかし、歴史的に考えればそんなに大勢の「上流階級」がいたはずはないのである。

この時「差別戸籍」が焼かれたこともその原因かもしれない。

 

当然ながら、朝鮮は宗主国である明に助けを求めた。

明は「親分」として「子分」を守る義務がある。

 

 

秀吉の要求は明白だ。

「明(中国)と対等の付き合いをしたい」ということだ。

この「唐入り」に際して、最も研究すべき対象は小西行長という武将であろう。

小西は「和平派」である。

当初は、最も「主戦派」「強硬派」の加藤清正と先を争って

朝鮮に侵入し多大の功を挙げたが、明・朝鮮側の反撃にあい

逆に最も大きな被害を受けた。

損耗率65%という恐るべき数字である。

しかも、問題は戦闘によって死亡した人数より

飢餓や病気によって死亡した人数の方が多いと考えられることだ。

おそらく、この惨憺(さんたん)たる状態の中で

小西は「和平しかない」と決意したのだろう。

だが、問題はその方法である。

何度も言って恐縮だが、明(中国)は他の国との対等な関係を認めない。

明にそれを認めされるためには

近代において欧米列強がやったように中国を軍事的に屈服させる以外にない。

しかし、この時点ではそれは不可能である。

そうすると、この事態を収拾するには

秀吉の方から謝罪し、明の臣下になることを誓うしかない。

明側は、これ以上「属国」のために血を流したくない。

早く矛を収めたいという気分もあった。

「嘘で塗り固めた平和」というのは

長い目で見て恒久平和の障害となることすらあるのだ。

明は「対等外交」を頑として認めない国ではあるが、それでも「交渉」はする。

だから「軍人」とは別の専任者が必要なのだが、それが存在しない。

小西も師団長としての仕事を放棄するわけにはいかないから

交渉には家臣の内藤如安(じょあん)を出した。

内藤は小西の意を受けて「朝鮮に侵入したのは、明に朝貢

(皇帝に対して周辺諸国(君主)が貢物を献上し

皇帝側は恩恵として返礼品を持たせて帰国させることで外交秩序を築くもの)

しようとしたのを朝鮮が妨害したからだ」

などという苦しい言い訳を重ねた挙げ句

明側のアドバイスによって「関白降表」なる文書を作り、明側に提出した。

「関白降表」とは秀吉が侵略行為を謝罪し降伏し

臣下(しんか)となることを明国皇帝に懇願したものだ。

秀吉はこんなことは夢にも考えていない。

そして多くの識者が無視するところだが、これでは被害者の朝鮮も「悪者」にされている。

これが「嘘で塗り固めた」という事だが

とにかく明側では「秀吉は前非を悔いて反省しておるのか。

ならば日本国王にしてやるか」と、対応を決めたのである。

 

1596年、日本軍が初めて朝鮮に侵攻してから4年後の夏

文禄から慶長へと王号が改まった日本へ、明の冊封使がやってきた。

古代においては、奴国王や卑弥呼が熱望したこともある「金印」

(日本国王之印)を持参してのことだ。

秀吉は上機嫌であった。

自分が提示した「講和七条件」が受け入れられたと思っているからだ。

 

一、大明の皇女を日本の天皇の妃とする。

二、(勘合)貿易を再開し、商船の往来を可能にする。

三、明の官僚と日本の武士の間で和議の誓約を取り交わす。

四、朝鮮八道のうち南の四道を日本へ割譲(かつじょう)する。

五、朝鮮王子の一人を人質として日本へ差し出す。

六、清正が生け捕った二王子は朝鮮に返還する。

七、朝鮮宮廷の臣は今後日本の命に逆らわないように誓紙を出す。

 

秀吉は、それが「服属」を意味することも知らず

贈られた王冠と官服を着て明使を引見(対面)した。

ところが、明使への饗応(きょうおう)が行われたあと

秀吉が明皇帝の国書を朗読させた時、漢文はまったく読めない秀吉も

「汝を封じて日本国王と為す」と聞いて、初めて事の真相を悟った。

そして、激怒した。それは当然だろう。

国書を引き裂いたというのは「講談の嘘」で、この国書は今も保存されているが

小西を呼びつけ、首をはねると息巻いたのは本当である。

が、小西は陳弁これつとめ、石田三成らとしめし合わせてのことだと

その証拠の文書も見せた。そして許された。

このあたりも極めて不可解である。

国書を改竄するのは、どこの国でもいつの時代でも重大な罪である。

もっとも、日本の宗氏(鎌倉時代から明治初期まで対馬島を支配し続けた豪族、大名)

は「中華思想」と「天皇」という

併立できない「理念」を、貿易という現実の欲求に対応させるために

国書の改竄を「家業」にしていた。

また古代にさかのぼれば

「日出る処の天子、日没する処の天子に書を致す」と

対等の立場で書かれた聖徳太子の国書を持っていった小野妹子が

帰国の祭、隋(中国)の返書を「紛失」するという「大失態」を演じているにもかかわらず

処罰されなかったと「日本書紀」にある。

返書はおそらく「汝を封じて日本国王と為す」とでも書かれていたのだろう。

それにしても、秀吉は小西をなぜ許したのだろうか?

秀吉は漢文が読めないから、ごまかし切れると踏んだという説もあるが

それにしても綱渡りだ。

秀吉はこの時、もうろくしており、側近の石田三成らはそれに気が付いていた。

そこで、なんとかこの「暴挙」をやめさせるべく

小西と組んで一芝居打ったのだという解釈もある。

秀吉にそうした老化による衰えが見られるのは事実だ。

結果において秀吉は、この3年後に死ぬし

「唐入り」が始まってからの秀吉は小牧長久手の戦いの頃に見られた鋭さにまったく欠けている。

そもそも「講和七条件」が受け入れられたと信じていたことも、その徴候の一つと言える。

だが、この時点では秀吉は完全にだまされていたことに気が付いたのだ。

専制君主である自分をだます人間など、秀吉は絶対に許さないはずである。

それなのに許した。なぜ?

小西が具体的に何を言ったかについては史料はない。

だが、小西が秀吉の怒りを解くためには、「自分も被害者だ」つまり

「自分もだまされていたのだ」と強調するしかないはずだ。

そうならなかったのは、小西が「騙したのは明と朝鮮だ」と

言ったからではないのか?

秀吉にとっても、敵よりは自分の部下の言を信じたいという心はあったはずだ。

 

ここで、秀吉の立場で考えてみよう。

 

だまされる方が悪いと言えばそれまでだが

秀吉は自分の出した「わが軍の先兵となって明へ討ち入れ」という要求を

初めは朝鮮側が受け入れたと考えていた。

実際には、はじめから終わりまで秀吉の要求は全部拒否されているのだが

秀吉はそうは思っていない。

ところが、実際に兵を入れてみると、その朝鮮が明と組んで反抗してきた。

つまり朝鮮は「二枚舌を使って自分をだまし、ついに裏切った」

とんでもない「悪」だということになる。

実際に「二枚舌外交」をしたのは日本側の宗氏であり小西であって

朝鮮側の態度は一貫して変わってない。

にもかかわらず、結局、朝鮮は「二枚舌の裏切り者」ということにされてしまい

秀吉の憎悪の対象となってしまった。

「小西の平和工作」は、これまでの論者の見方では一貫して評価が高い。

だが、私はそれは戦後半世紀「平和」というものが絶対的価値を持つとされてきた

日本社会の偏見だと思っている。

 

かくして、「第二次出兵」いわゆる慶長の役が始まった。

この戦争全体を何と呼ぶべきか、昔から様々な議論がある。

「朝鮮征伐(せいばつ)」「唐入り」「朝鮮出兵」

「文禄の役、慶長の役」あるいは「朝鮮侵略」

確かに、二度とも朝鮮が侵略の対象になったのは事実だ。

しかし、全部ひっくるめて「朝鮮侵略」と呼べという意見には私は反対だ。

というのは、「文禄」と「慶長」ではまったく戦争目的が違うからだ。

「文禄」は、あくまで「唐入り」つまり「明征服」が目的であり

対明戦争である。明軍とも実際に交戦している。

確かに朝鮮半島で行手をはばまれ明本国に入ることはできなかったが

当初の目的はそれである。

しかし、「慶長」は違う。

これは「講和七条件」にあった南朝鮮四道の日本支配を実現するために

そして何よりも「二枚舌の裏切者朝鮮」を懲らしめるための、報復戦でもある。

従ってこれこそ「朝鮮侵略」と呼ぶべきものだろう。

その違いは、秀吉が現地入りする軍に発した命令書にも明確に示されている。

 

「赤国残らず、ことごとく一篇に成敗申しつけ

青国其外之儀は成るべく程、相働くべき事」

(島津家文書)

 

「赤国」というのは全羅道(李氏朝鮮の行政区分朝鮮八道の一つ)

「青国」というのは忠清道(道に東を江原道と慶尚道に南を全羅道に接する

朝鮮八道の一つ。忠清道の人は一般的に穏和と言われている)

なぜそんな言い方をするかといえば、朝鮮の各道の名前を覚えるのが面倒だった秀吉は

地図の八道にそれぞれに色を塗って区別していたからだ。

「赤国」は通常なら「せきこく」と読むべきものだが

たぶん、秀吉は「あかくに」と言っていただろう。

他の国はともかく、その赤国だけは

「残らず」「ことごとく」「いっぺんに」皆殺しにしろと言うのである。

特に、赤国つまり全羅道が目標にされたのは「文禄」において

この地方の儀兵(民間の有志による兵)の抵抗が最も激しかったからだ。

秀吉はこれを「一揆」と見ていた。

一揆とはまさにゲリラである。

ゲリラを根絶するには、集落や都市ごと焼き払うしかない。

この時、日本軍はそれを実行した。

この残虐行為は、当時、日本軍に従軍していた

浄土真宗の僧慶念の「朝鮮日々記」に詳しい。

 

まとめておくと

一、特に全羅道において、老若男女を問わず皆殺し作戦を実行した。

二、様々な財宝、文化財を略奪し日本へ持ち帰った。

三、労働力として、朝鮮人を拉致し日本へ連れ帰ったり

  スペイン、ポルトガルの奴隷商人に売り払った。

 

「文禄」の時の、反抗さえしなければ殺さず

制札(掲示板)も立てて、国に帰り仕事に励むように命令し

曲がりなりにも「占領行政」を実現しようとした姿勢は

今やどこにもなかった。

そして、翌慶長3年(1598)、厳戒の中で人生最後の盛儀となった

醍醐(だいご)の花見を楽しんだ秀吉は

 

「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪花の事は 夢のまた夢」

 

との辞世を残し、63歳の生涯を閉じる。

残された人々はただちに朝鮮からの撤退を決定した。

 

こうして太閣秀吉の「唐入り」は、当初の明征服にはまったく手が届かず

最終的には朝鮮侵略、しかも大虐殺という形で終わった。

特に問題なのは、非戦闘員をも多数犠牲者としたことである。

命が助かった人々も

無抵抗の老人や女性子供に至るまで鼻を削がれるということになった。

国内なら重い首を戦功の対象とするが

遠く離れているため軽い鼻を代用品にした。

だが「首」と「鼻」がまったく違うのは

首を摂るということは相手を必ず殺すことで

それなりの危険を冒す行為であるが

鼻ならば無抵抗の人間からいくらでも奪うことができることだ。

これが一般民衆をも犠牲者にした。

韓国において現代に至るまで、日本人の中で最も憎まれているのが

豊臣秀吉だというのも、ある意味では当然だろう。

 

 

当初、民衆は国を支持していなかった。

前にも述べたように、国王は民衆を見捨て

逆に暴政に怒っていた民衆は王宮に乱入し、放火した。

つまり、この時点で日本は「解放軍」の位置にいたのである。

敵国に激しい内部抗争があり、しかも民衆が政権を支持していない。

実はこのような時、「世界史の法則」では「勝てる」はずなのである。

こうした観点から見れば、秀吉最大の失敗は全羅道を敵に回したことである。

全羅道は、かつての百済地域であるが、百済が滅んで以来というもの

常に新羅地域から差別される地域であった。

極く簡単に言うと、高麗成立から現代に至る一千年もの間

全羅道は「被差別地域」であったということだ。

特に全羅道出身の金大中氏が大統領に当選する以前は

たとえばソウルの一流企業で全羅道出身者は採用しないところがあったくらいなのである。

日本にも差別はあるが、これはそれとはまったく違う地域差別なのである。

つまり、やり方次第では、全羅道は日本の味方にすることも十二分に可能な地域だったのだ。

こうした差別というものは近代以前は戦争でもない限り絶対に解消されない。

実際、この差別は現代まで残ったのである。

ところが、その本来なら味方についても不思議ではない地域の住民を

最大の敵として虐殺した。なぜか?

それは秀吉が、あるいは日本軍の首脳が朝鮮の内情をまったく知らなかったということである。

しかも、日本軍の犠牲者についても

戦死者よりも、餓死者、病死者の方がはるかに多かったのである。

前に、この戦争と近代に行われた大東亜戦争とを重ね合わせるのは

少なくとも「計画性の有無」の点では誤りだという意見を紹介したが

始まってからの経過を見ると、不気味なほど似ていることも事実だ。

 

ところで秀吉は、朝鮮で虐殺・暴行の結果として得た多数の「朝鮮人の鼻」を

大仏のある方広寺に埋葬し、これを「鼻塚」として供養した。

現在はこれがなぜか「耳塚」と呼ばれ今も京都に現存する。

一般に韓国の歴史家はこれを「戦勝記念碑」としてとらえているようだ。

もちろんそういう要素が皆無だと言わないが

これはやはり基本的には慰霊碑であろう。

そう言えるのは、日本人はたとえ怨敵(おんてき)の死骸だからといって

決してドブに捨てたりはできないからである。

この点が、死者でも「悪」であるならば

文字通り鞭を打つ儒教文化と日本文化の根本的な違いである。

一方、「悪」は「野ざらし」にせよというのが儒教文化だ。

朝鮮において少なくとも数万人の日本兵が死んだはずだが

その供養碑は私の知る限り一つもない。

侵略者なのだから自業自得だというのが朝鮮側の論理であろう。

それは認める。しかし、だからといってそれを絶対化し

他民族の思想を意図的に侮辱するのはやめて頂きたい。

これは靖国問題にも通じる重要な視点である。

 

 

 

 

 

この方の日本の歴史の情報はすごいですが

クリスチャンみたいなので、この方もネット宗教化しているので

信者さんのSNS、リスペクトがすごいなと俯瞰して見ている

キ●●ト教こそ一番戦争している悪魔教のような気がするので

 

 

 

 

 

 

 

 

秦氏で↑のサイトを思い出した

 

日本語の言霊でしか読み解けない「666」=「ミロク」

 

弥勒菩薩」は

お釈迦様の入滅(死)後、56億7千万年後に、如来となり地上にあらわれる。

そして、弥勒菩薩は衆生を救うとされている。

他の菩薩との決定的な違いは

弥勒菩薩はまだ地球上に一度も現れたことがないということ。

つまり、弥勒菩薩は「未来に現れる菩薩」

 

 

 
 
ミロク下生の実体は、シャカ入滅後56億7千万年後では無く
地球上の人口が、人口爆発で、56億7千万人となった時点ということが
本当の意味だったことが分かりました。
 

 

鳥居がギロチンに似ているのも

朱は血の色というのも、牢獄というのなら納得

草加や、懸賞かいは神社に入ってはいけないと

大人になって勧誘されて知ったけど

そう思うと、近所の同級生のH美ちゃんとは神社で遊んだ事がなかった

用事があるんだろうと思い、なんで来ないとも思わなかった

高校生くらいの時、●さんは宗教やってるから神社に来ないんだと

親が言ってたのを認識し、H美ちゃんのお父さんだけと思い

その時はH美ちゃんまでは考えは及ばず

今思うとそういう事かと思う

忘れたけど難しい名前で↑の宗教ではない

今は、H美ちゃんは当番制の朝の神社掃除には来ていると母から聞いた

偶数、奇数月で分かれ、年に6回かの掃除に

私は一度も行った事はないので母に嫌味を言われる

 

 

↑より一部抜粋

 

実は神社は元々、牢獄であったことが多いのです。

 

鳥居はその牢獄の門とか、首吊り台とか、ギロチン台等のなごりなのです。

 

そして、〆縄は、罪人の縛り縄とか、首吊り縄のなごりなのです。

(ネクタイもそうですよ)

 

契約ユダヤ、ゲルマンの宗教では天民武盛が正当な行為ですから、敵を殺して

 

その敵が生き返って抵抗して来るのを恐れて、牢獄や、処刑場に死体を埋めて

 

神社として祀ることで、死者のミタマを封印することを目的として創られていたのです。

 

神社参拝の方法の間違い

 

先ず、「参道」とは参る道と書きます様に、参拝者が通る道のことです。

 

普通、神社の回りを壁で囲ってあり鳥居を通って入る様になっていて

 

普通はその壁や、鳥居が結界となっている場合が多いのです。

 

結界構築をしている者は中に神座されている神と

 

その神団の場合と逆にその神と神団を封呪している側の存在が

 

彼らがその神社から逃げ出さない様にと結界を張っている場合とがあります。

 

ですから、普通の人間には結界は効果しないのですが

 

たまに霊能力を持っている人には効果が出ることがあります。

 

よく、訳の判らない人が声高に、参道の通りかたを

 

いかにも神様が神託したかの様な真如(まことしやか)に

 

やれ参道の端を通れだの鳥居の前で拝礼せよ等と偉そうなことをいう人がいますが

 

私はそれをあなたは誰に訊いたのですかと質問したいですね。

 

参道は普通の場合、神様は通りません。

 

参道はその神社にお詣りに来た人が通る為に創られた道ですから、堂々と真ん中を通りましょう。

 

ただ、人とぶつからない様に注意することだけは常識として気をつけて下さい。

 

鳥居での拝礼も入りません。

 

神様は普通北におられるのが常道ですから、接界が構築されると

 

その接界(祭場や、宮、神社)に何処からか、さっと現れて

 

我々人間の北の方向に立たれるので、普通は参道等通られることなどありません。

 

また、長い間、神様との交流が絶えていた為に神社の構築が

 

方位を無視して成されていることがあります。

 

正式な神社の建てかたは、南向きで、人間が南から神を北に拝して参るということが正しいのです。

 

我々が神社を参る時、普通本殿の拝殿におられる神様は高位神ではなくて

 

留守居を守る眷族の下の神様が多いですね。

 

そして、本命の神様は、横の小祠や、大樹、大石、大岩、山等に神座されていることが多いのですね。

 

神社の本殿の向きがおかしい時は、拝殿の前で神社に向かわず

 

違う方向(北向)に向いて参拝することもあります。

 

我々は神祭、神業に行くときは、殆どの場合神通司が一人は参加していますから

 

その神通司が神様の居られる方向を指示してくれるので

 

神様に失礼することなく参拝することが出来ます。

 

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今は、もう、我々が神業して、日本全国の殆どの神社は

本当の世の元の神様の陣場と代わっていますから、何も心配はありません。
それから、三社詣でとして正月に詣っていますが

これも人間自身の思いでしか、ありません。

何故なら、神界の正月は立春、2月4日なのですから。

 

「五六七」と略称される根本ミロク之大御神様を封じた塔

つまり「五」の上、「六」に行けないようにという封じを型出しした呪いの建物

 

善が善である為に悪が出来たのであるとも言えるのです
ということはどちらも神様が創ったものです

 

最初から神仕組があって授精することの出来る精子が決められている

 

八百万神(やおよろずのかみ)の正体

 

この地球というものが  じつは「シリウスD」だった