ミロス情報置き場 -6ページ目
五次元の高次元生命体の本を翻訳した話
 
ロスコさんはニギハヤヒ
 
ロスコさんはキリストの生まれ変わり
 
ミロス受講生はキリストの弟子の血統
 
皆でキリストの墓参り
 
セミナー前の神社参拝
 
クラブロスコに入れば災害に会わないと言う
 
集まった人たちは同じ血統という
 
約束したという
 
病気が治るという
 
お金が出した分入ってくるという
 
先祖の代表としてミロスをして苦しみを終わらすという
 
神の計画を実行するための絶対平和サミットという
 
 
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 ミロスを抜けた人は 異口同音ロスコさんを教祖と言い 受講生を信者という
 
経験した上で抜けて 外から見た時に出る言葉なので 的を射ているのではないでしょうか 
 
 
 
 


ヘンリーさんが宗教について書いていたので こちらも見つけた記事を貼ります





生長の家の事が主に書かれています


でも注目したのは以下のところ↓↓



新宗教に人が集まるのは「貧病争」が原因であると言われる。

貧困、病気、家庭内の争い事から救われたいと入信するわけである。

とくに病気が直るということは、どの教団も主張することで、生長の家の場合にも、かつては機

関誌である『生長の家』を読みさえすれば病気が直ると宣伝していた。


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ミロスと同じような事言ってるから笑いました


絶対安心の解説に引き続き ドクトルGが絶対平和の解説をしてくださいました

↓↓↓

 

「どくとるGぢゃ。語り口調は当時と違うが堪忍ぢゃ。」

--ナースBです。小梅様から「絶対平和」についてのご質問をいただきましたね。

「うむ。絶対安心の記事を転載してもらったから、
この場をお借りしてリクエストにお応えしてみよう。

『絶対平和』『絶対安心』と、Mは『絶対』というワードを乱発するが、
我々が日常会話で使う『絶対』と、Mの『絶対』は、やや意味が違うんぢゃ。」

ーー『ゼッタイ先に撃っちゃダメよ!』のように
“必ず”“まちがいなく”の意味ではないのですか?

「それはどんな場面ぢゃ?まあよい。

Mの教理の中核に“二元性の否定”があるのは知っとるね。
熱い×冷たい、明るい×暗い、高い×低いのように、
人間は世界を2つに分ける見方、とらえ方をしがちなのぢゃが、
Mはその見方は“幻影”“幻想”と考える。

それを踏まえて、二元性で偏った見方や考え方から解放されて
苦しみを減らそう、というのぢゃ。

ワシはこの考え方自体は間違いとは思っていない。
その先の「受け取る」だの「高次元」だのがマヤカシなのぢゃ。
それは今回の本題ではないので、話を元に戻そう。

この二元性を構成する2つの極性を、Mでは
『対(つい)』
と呼び、二元性によって葛藤や不安定、争いがある状態を
『相対(そうたい)』
と呼んでおる。

そしてこの
『相対』
から離れて、物事の真実の状態を把握できる境地のことを、
「『対』を絶った」状態、すなわち
『絶対』
の状態と定義しているのぢゃ。 」

 

 

ーーMは『絶対』という言葉に別の意味を持たせて、
『自分たちだけが秘密を知っている』
という優越感に浸っている、子供のコトバ遊びのようにも見えます。

「そういう側面もあるぢゃろう。
特定の“業界用語”的なワードを共有することは
内向きの仲間意識を強化する効果があるからな。
外部から見ると噴飯ものぢゃが。

ワシが『絶対平和』を解読するならば、
・私たちをとりまく世界は、『対』になった2つの極性に分かれて見える。
・正義×邪悪、富貴×貧乏、男×女など、二元性が大小すべての争いの根源だ。
・しかし、Mは二元性を“幻想”であると看破した。
・二元性が幻想であり、相手が自分の『対』になる極を映す鏡だと知れば、
 もはや争いの起こる余地がなくなる。
・『対』が絶たれた『絶対』の平和をもたらすのが、我々Mのミッション(使命)だ。
とでも言いたいのぢゃろう。
『絶対安心』と置き換えても、文脈はまったく一緒ぢゃ。」

--前提にはあまり異論がないけれど、結論には違和感ありまくりですね。

「M全般に言えることぢゃが、どの問題提起もおおむね正しい。
非二元論も、鏡の原理も部分的には間違いではない。
その先の『高次元』『アセンション』『宇宙からの叡知』などが
検証不能な、どうにでも言えるオカルト教義なのぢゃ。

『絶対平和』『絶対安心』も、コンセプト的には成立しうる。
実現するなら結構な話ぢゃ。

ぢゃが、ワシが最大の問題と思うのは
『Mはその提唱者・担い手としてふさわしいか?」
ということぢゃ。

口を開けば『数百万人』『世界に出る』『アメリカ進出』と
“小より大”に偏った虚栄心むき出しで、

『財が自由自在』になるMをマスターしたはずの講師が
1人3000円のセミナー料金を無料化できず、

『離婚がない究極の結婚』を標榜するM講師が何人も離婚し、

『あっそうなん』で病が消えると豪語した講師が緊急入院、
そしてついには教祖自身が後継の備えがないまま急逝と、

世界の『対(つい)』を絶つ前に、
みずからの深い『業(ごう)』を絶ってはいかが?
と言いたくなるのう。 」

ーー『小』より『大』、『貧』より『富』、『無名』より『有名』に明らかに拘泥しているMは、全然『対』を絶てていませんものね。
世界は実践のない「思いつき言うだけ番長」に用はありません。

 

 

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ドクトルGありがとうございました

 

「絶対」にMなりの意味があることを初めて知りました

 

『Mはその提唱者・担い手としてふさわしいか?」

 

というところを読んで Mのそもそもの目的が問題なんだと感じました

 

目的があれだから変な方向に行ってないかい?

 

今の状況があれなんで 絶対平和という言葉に(#^ω^)ピキピキと反応してしまう私です

 

この質問をする以前に ドクトルGの解説を送ってくださるSさんが絶対平和についてコメントされてました

 

あわせてどうぞもみじ

↓↓↓

 

Mではイベントのテーマとして
「絶対平和」
と言っているようですが、早い話が
「世界がM一色になれば争いはなくなる」
という意味でしょう。

スターウォーズでダークサイドのボスが
「我らダークサイドが銀河を支配すれば平和になる」
と主人公をそそのかすのを思い出してしまいます。

「いや、そうじゃない。二項対立を超越して、俯瞰する視点に立つことが
争いから脱する道なんだ。それが『絶対平和』だ」
とM信者は反論するのでしょう。

しかし、その
「俯瞰」
を絶対視する考え方そのものが執着、すなわちMが最も忌避する
「偏り」
つまり別のジャッジの罠に陥っていることに気がつかないでしょうか?

気づいた人から早く離脱しましょう。

 

 

 

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皆さんの感想お待ちしてますねー

 

 

 

久し振りに違うよねと言いたい文を見つけましたので 貼り付けさせていただきましたよ

 

私の意見異見を色付きで書き込みます

 

↓↓↓

 

 

 

 

「人は絶対に自分の見ている世界しか認識できないカプセルの中で、自分のドラマを他者のドラマであると勘違いしていること。」をまざまざと見せられていました。

 

思わず、感嘆の声が出てしまうほど、見事に100パーセントそうでした。

 

もちろん、もれなくその中の筆頭者として、私がそこに存在していました。

 

自分の宇宙しか見えない宇宙の中で、自分という他者をどれだけ分析しても、自分についてのワードしか出てこない爆笑

 

 

他者=自分ということですか?

他者をミロスとして分析すると出てきたワードがスタイリッシュ☜自分と真逆な言葉です

 

 

そこにこのミロスシステムによっていかに自分自身が、深く解体され、細分化され、理解されているか否かが、とても大切であると痛感しました。

 

 

ミロスシステムで自分自身を深く解体 細分化 理解

必要かというと必要ない

単純に考えた方が生活しやすいと思う

 

 

そうなって行くと、「私はこうです。」「私はこういう人間です。」という個を主張できなくなります。

 

 

私はこうですと主張できる事はいいと思うし 大事にしたい世界です

 

 

目の前の人との関係性で、私たちはコロコロ自分を変えているのに、個を主張できる訳がありません。

 

 

自分を変えようと考え行動する あるいは変えたくないけど変わっちゃう 

例えばお客様の前では丁寧に笑顔で対応するのは 仕事なので皆そのように努力します 

一方好きな人の前で 笑顔でいたいけどそっけなくしてしまうのは その人の個性ですよね

相手によって自分をコロコロ変えるのは 生活をしていくうえで当たり前のこと

個を主張できないってことではないと思います

 

 

だからこそ、解体され細分化されておくことで、「私はこう!」という瞬間的エゴの自己防衛が効力を失って行きます。

 

相手と自分を本当の自分自身に戻るために、等しく観られること、

 

 

親子でも兄弟でも夫婦でも 自分と相手は別人格とわきまえてた方が 人間関係はうまくいくと思います

 

 

相手と自分の二極性をそのまま感情なく受け入れられることが、とても大切な実践です。

 

それを容易にしてくれるのは、

 

自分というエゴをどこまでも細かく切り刻み、全体性の中にいつでも溶け込んで行けるようにしておくことであると、ここ数日の体験から痛感しました。

 

 

自分の個性をなくせ エゴをなくせと ミロスに溶け込めと言われているように感じられて 私は抵抗を感じました

というわけで取り上げさせていただきました

 

 

理解したミロスシステムを、実際に自分の人生に当てはめて行けなければ、ただの知識の積み重ねなだけで何の意味もありません。

 

 

 

まとめ 個人的意見として

 

私は自分の考えをちゃんと持ちたいです

自分の考えを持ったうえで人と話すと 考え方が違ってもこの人はそういう考えなんやって受け止めて お互い理解できた時とても楽しいです

 

ミロスシステムは難解過ぎて理解しようと思ったら人生が終わってしまいますね

人生に役に立たないものに思われました

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
【このブログはフィクションです。実在する個人、団体等とは一切関係ありません。】
 
-むむむ、物事を2つに分けなければ、そう・・・なりますよね。
確かに、OSSRIMの延長線上に描かれる結論です。
貧しさを認めない。寂しさも感じない。痛い、苦しいと決して思わない境地。
そんな境地は、対立を超えて安心かもしれません。悩んだりしないわけだし。
 
でも・・・私はイヤです。これは安心というより、人として大切な何かを『放棄』している気がします。
 
「OSSRIMは、何かにつけて 『考えるな』 と言いますね。
いちいち
「貧しくない」
「寂しくない」
「苦しくない」
と考えているようでは、「それは思い込みのOSSRIMだ」と否定されてしまいます。
 
思考を経ないで、反射的に絶対安心で~す、と答えられたら、もう立派なOSSRIM人の仲間入り。
あとは人生に何が起きたとしても、神の御使いであるOSSCOR師の教えにひたすら盲従して
お金を払い、信者を勧誘すればいいのです。」
 
-『絶対安心』の正体が見えました。
状況や環境が変わるから「安心」できるのではなく、どんなに辛く、苦しい目に遭っても、
直視しなければいい、だって幻想だから、という考え方。
 
でも、わたしはそんな境地は欲しくありません。
区別や差別に振り回される人生の有り様を、仏教では
『酔生夢死』
と言いますが、絶対安心はベクトルの方向が違うだけ。
振り回されるか、無視するかの違いで、やはり泥酔しているかのようです。
 
「その泥酔状態を、何の疑問も持たずに共有できるのがOSSRIM人なのです。
正気、シラフでは耐えられません。
スタジオジブリの作品『平成狸合戦ぽんぽこ』の中で、現状に絶望したタヌキたちが
教祖の老タヌキに導かれ、念仏踊りでラリッた状態のまま船で海原へこぎだしていくシーンを連想します。
その先に待ち受けるものは、もちろん破滅しかないのですが。」
 
-そんな『絶対安心』というエサについ釣られてしまうのは、やはり苦境に立っている辛い人たちですよね。
 
「自分の重病を避けられなかったブロガー講師さんのブログに、読者から
『借金でもうどうにもなりません!』
というコメントがありました。
それに対する彼の返答は、
『あなたはOSSRIMを知ったのだから大丈夫』
というものでした。
 
大丈夫の中身は、もちろん今まで述べた『絶対安心』です。
破産しようが、家から立ち退かされようが幻想だから構わない。
幸せも不幸もない。
 
それが『大丈夫』の正体だと知ったとき、何ひとつ問題が改善するわけではないと知ったとき、
いったいこの方がどれほどの絶望にさいなまれるか?
その意味で、OSSRIMの『絶対安心』はタチの悪い、罪深いワナだと思いますね。」
 
 
 
あるブログから
↓↓↓

このブログはフィクションです 実在する個人 団体等とは一切関係ありません


-久し振りに ドクトルGにお越しいただきました

「こんにちは ドクトルGです」

-さっそくですが 今日はOSSRIMが説く『絶対安心』について伺いたいと思います

「実は OSSRIMの教義の延長線上に 『絶対安心』は成立します」

-えっ?それは OSSRIMがホンモノということですか?

「いいえ OSSRIMは教祖のOSSCOR師をはじめ ブロガー講師が重病を避けられず 3000円のセミナー料すら無料化できないくらい経済力も身につかない
言ってることとやってることがチグハグで あげく外国で「信者は数百万人」と大風呂敷を広げている
まあ 近寄らない方が無難な団体です」

-でも 『絶対安心』を得ることが出来るんですか?

「ええ 今からあなたを『絶対安心』に導くことだってできますよ」

-ぜ ぜひお願いします

「OSSRIMの教義に『善も悪もない』というような 二元論の否定があることはご存知ですね」

-はい 表と裏 熱いと冷たいのような2つに分かれているのは幻想だ とか

「そう 2つに分かれるものは認めない それが『絶対安心』の正体です」

-どういうことですか?


「例えば あなたがOSSRIMにお金を注ぎ込みすぎて 一文無しになったとします」

-それは困ります

「いいえ 困りません あなたはOSSRIMを知ってるから
『貧乏も富貴もない』
と思わなければならないからです」

-思わなければならない?

「はい OSSRIMを実践するということは2つに分ける価値判断をしない ということです
これであなたは めでたく『貧しさ』から解放されました 安心です」

-んん?だってお金はないわけだから 貧しいですよね?
いや、貧しさが幻想だから 貧しくない‥‥‥なんかすごく違和感あります

「さて OSSRIMに傾倒し過ぎたあなたは パートナーに呆れられて 別れを告げられてしまいます」

-そんなのイヤです!

「でもミロスを学んだあなたは 『愛も別れもない』と思わなければなりません
これであなたは『孤独』からも解放されました」

-そんな‥‥‥

「いろいろあったあなたは 病気で倒れてしまいます でもOSSRIMを学んだあなたは‥‥」

-なんか 読めてきました

「そう そのとおり
『健康も病気もない』
と思わなければならない これであなたは病気の苦しみからもめでたく解放されました

幸せの3大要素
『愛・財産・健康』
の裏返しである 不幸の3大要素
『孤独・貧困・病』
を恐れなくなったあなたは まさに
『絶対安心』
を手に入れた と言えるでしょう」

私は ミロスのイベントに 1回も参加したことがないです

毎年 
今年 ミロスのイベントはどうだったかな?
と思って 講師さんやミロス受講生のブログを漁りますが イベント後にイベントについて語っている人は皆無と言って良いくらいいない

イベント前は イベントのポスター攻撃がひどいのに イベント後はイベントに触れないのはどうしてなのか?

イベントについては秘密だぞ 誰にも言うなよって口止めされているのか?

私だったら もし素晴らしいイベントに参加したら 
凄かったよ!
って皆に伝えたいですよ

イベント後にシーンとなっているのは
イベントがひどかったのかな?
と 勝手に想像しております(-.-)y-゜゜゜

ミロソリストさんの事です

皆さん講師さんに関心があるようで  講師さんの数が減ったという過去記事に コメントをたくさんいただきました

そこに驚きの情報がありました

講師さんもスタッフさんも いろいろな事情でミロスを去っていきます

本当はここに書いて どうなんだこれはと世に問いたい?件もありますが 
やめた人に悪いと思うので致しません


ミロスで普通に幸せだったら ミロスの講師さんを続けていけると思うのですが

後進に道を譲っているんですかね

ミロスの重鎮は頑張り続けていますが


何が言いたいかというと ミロスをマスターしたはずの講師さんも ミロスを去っていく

ミロスを手離すという事です

ミロスをマスターすれば 1段階上がって ミロス卒業っていうことですかねイヒ

早くミロス卒業してよ〰えーん









宗教は何のためにあるのか?

バラバラな人達をまとめるためなのか?

嫌なことも

天国で報われる

とか言われると出来てしまうみたいな

同じ宗教の人どうしで話が出来るでしょうが 本当にわかりあえるか?というとやっぱり違う

私がいた佼成会を考えると 子育て中 家に居たくない時 道場はありがたい場所でした

子供も友達がいるし 自分も落ち着けたし

家にこもって子育てしてたら行き詰まってただろうし 道場があって助かってました

今は宗教は 自分にとって必要ないものになってます

後の人生は自分の思うように生きていこうと思っています