ヘンリーさんが宗教について書いていたので こちらも見つけた記事を貼ります
生長の家の事が主に書かれています
でも注目したのは以下のところ↓↓
新宗教に人が集まるのは「貧病争」が原因であると言われる。
貧困、病気、家庭内の争い事から救われたいと入信するわけである。
とくに病気が直るということは、どの教団も主張することで、生長の家の場合にも、かつては機
関誌である『生長の家』を読みさえすれば病気が直ると宣伝していた。
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ミロスと同じような事言ってるから笑いました
絶対安心の解説に引き続き ドクトルGが絶対平和の解説をしてくださいました
↓↓↓
「どくとるGぢゃ。語り口調は当時と違うが堪忍ぢゃ。」
--ナースBです。小梅様から「絶対平和」についてのご質問をいただきましたね。
「うむ。絶対安心の記事を転載してもらったから、
この場をお借りしてリクエストにお応えしてみよう。
『絶対平和』『絶対安心』と、Mは『絶対』というワードを乱発するが、
我々が日常会話で使う『絶対』と、Mの『絶対』は、やや意味が違うんぢゃ。」
ーー『ゼッタイ先に撃っちゃダメよ!』のように
“必ず”“まちがいなく”の意味ではないのですか?
「それはどんな場面ぢゃ?まあよい。
Mの教理の中核に“二元性の否定”があるのは知っとるね。
熱い×冷たい、明るい×暗い、高い×低いのように、
人間は世界を2つに分ける見方、とらえ方をしがちなのぢゃが、
Mはその見方は“幻影”“幻想”と考える。
それを踏まえて、二元性で偏った見方や考え方から解放されて
苦しみを減らそう、というのぢゃ。
ワシはこの考え方自体は間違いとは思っていない。
その先の「受け取る」だの「高次元」だのがマヤカシなのぢゃ。
それは今回の本題ではないので、話を元に戻そう。
この二元性を構成する2つの極性を、Mでは
『対(つい)』
と呼び、二元性によって葛藤や不安定、争いがある状態を
『相対(そうたい)』
と呼んでおる。
そしてこの
『相対』
から離れて、物事の真実の状態を把握できる境地のことを、
「『対』を絶った」状態、すなわち
『絶対』
の状態と定義しているのぢゃ。 」
ーーMは『絶対』という言葉に別の意味を持たせて、
『自分たちだけが秘密を知っている』
という優越感に浸っている、子供のコトバ遊びのようにも見えます。
「そういう側面もあるぢゃろう。
特定の“業界用語”的なワードを共有することは
内向きの仲間意識を強化する効果があるからな。
外部から見ると噴飯ものぢゃが。
ワシが『絶対平和』を解読するならば、
・私たちをとりまく世界は、『対』になった2つの極性に分かれて見える。
・正義×邪悪、富貴×貧乏、男×女など、二元性が大小すべての争いの根源だ。
・しかし、Mは二元性を“幻想”であると看破した。
・二元性が幻想であり、相手が自分の『対』になる極を映す鏡だと知れば、
もはや争いの起こる余地がなくなる。
・『対』が絶たれた『絶対』の平和をもたらすのが、我々Mのミッション(使命)だ。
とでも言いたいのぢゃろう。
『絶対安心』と置き換えても、文脈はまったく一緒ぢゃ。」
--前提にはあまり異論がないけれど、結論には違和感ありまくりですね。
「M全般に言えることぢゃが、どの問題提起もおおむね正しい。
非二元論も、鏡の原理も部分的には間違いではない。
その先の『高次元』『アセンション』『宇宙からの叡知』などが
検証不能な、どうにでも言えるオカルト教義なのぢゃ。
『絶対平和』『絶対安心』も、コンセプト的には成立しうる。
実現するなら結構な話ぢゃ。
ぢゃが、ワシが最大の問題と思うのは
『Mはその提唱者・担い手としてふさわしいか?」
ということぢゃ。
口を開けば『数百万人』『世界に出る』『アメリカ進出』と
“小より大”に偏った虚栄心むき出しで、
『財が自由自在』になるMをマスターしたはずの講師が
1人3000円のセミナー料金を無料化できず、
『離婚がない究極の結婚』を標榜するM講師が何人も離婚し、
『あっそうなん』で病が消えると豪語した講師が緊急入院、
そしてついには教祖自身が後継の備えがないまま急逝と、
世界の『対(つい)』を絶つ前に、
みずからの深い『業(ごう)』を絶ってはいかが?
と言いたくなるのう。 」
ーー『小』より『大』、『貧』より『富』、『無名』より『有名』に明らかに拘泥しているMは、全然『対』を絶てていませんものね。
世界は実践のない「思いつき言うだけ番長」に用はありません。
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ドクトルGありがとうございました
「絶対」にMなりの意味があることを初めて知りました
『Mはその提唱者・担い手としてふさわしいか?」
というところを読んで Mのそもそもの目的が問題なんだと感じました
目的があれだから変な方向に行ってないかい?
今の状況があれなんで 絶対平和という言葉に(#^ω^)ピキピキと反応してしまう私です
この質問をする以前に ドクトルGの解説を送ってくださるSさんが絶対平和についてコメントされてました
あわせてどうぞ![]()
↓↓↓
Mではイベントのテーマとして
「絶対平和」
と言っているようですが、早い話が
「世界がM一色になれば争いはなくなる」
という意味でしょう。
スターウォーズでダークサイドのボスが
「我らダークサイドが銀河を支配すれば平和になる」
と主人公をそそのかすのを思い出してしまいます。
「いや、そうじゃない。二項対立を超越して、俯瞰する視点に立つことが
争いから脱する道なんだ。それが『絶対平和』だ」
とM信者は反論するのでしょう。
しかし、その
「俯瞰」
を絶対視する考え方そのものが執着、すなわちMが最も忌避する
「偏り」
つまり別のジャッジの罠に陥っていることに気がつかないでしょうか?
気づいた人から早く離脱しましょう。
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皆さんの感想お待ちしてます![]()
久し振りに違うよねと言いたい文を見つけましたので 貼り付けさせていただきましたよ
私の意見異見を色付きで書き込みます
↓↓↓
「人は絶対に自分の見ている世界しか認識できないカプセルの中で、自分のドラマを他者のドラマであると勘違いしていること。」をまざまざと見せられていました。
思わず、感嘆の声が出てしまうほど、見事に100パーセントそうでした。
もちろん、もれなくその中の筆頭者として、私がそこに存在していました。
自分の宇宙しか見えない宇宙の中で、自分という他者をどれだけ分析しても、自分についてのワードしか出てこない![]()
他者=自分ということですか?
他者をミロスとして分析すると出てきたワードがスタイリッシュ☜自分と真逆な言葉です
そこにこのミロスシステムによっていかに自分自身が、深く解体され、細分化され、理解されているか否かが、とても大切であると痛感しました。
ミロスシステムで自分自身を深く解体 細分化 理解
必要かというと必要ない
単純に考えた方が生活しやすいと思う
そうなって行くと、「私はこうです。」「私はこういう人間です。」という個を主張できなくなります。
私はこうですと主張できる事はいいと思うし 大事にしたい世界です
目の前の人との関係性で、私たちはコロコロ自分を変えているのに、個を主張できる訳がありません。
自分を変えようと考え行動する あるいは変えたくないけど変わっちゃう
例えばお客様の前では丁寧に笑顔で対応するのは 仕事なので皆そのように努力します
一方好きな人の前で 笑顔でいたいけどそっけなくしてしまうのは その人の個性ですよね
相手によって自分をコロコロ変えるのは 生活をしていくうえで当たり前のこと
個を主張できないってことではないと思います
だからこそ、解体され細分化されておくことで、「私はこう!」という瞬間的エゴの自己防衛が効力を失って行きます。
相手と自分を本当の自分自身に戻るために、等しく観られること、
親子でも兄弟でも夫婦でも 自分と相手は別人格とわきまえてた方が 人間関係はうまくいくと思います
相手と自分の二極性をそのまま感情なく受け入れられることが、とても大切な実践です。
それを容易にしてくれるのは、
自分というエゴをどこまでも細かく切り刻み、全体性の中にいつでも溶け込んで行けるようにしておくことであると、ここ数日の体験から痛感しました。
自分の個性をなくせ エゴをなくせと ミロスに溶け込めと言われているように感じられて 私は抵抗を感じました
というわけで取り上げさせていただきました
理解したミロスシステムを、実際に自分の人生に当てはめて行けなければ、ただの知識の積み重ねなだけで何の意味もありません。
まとめ 個人的意見として
私は自分の考えをちゃんと持ちたいです
自分の考えを持ったうえで人と話すと 考え方が違ってもこの人はそういう考えなんやって受け止めて お互い理解できた時とても楽しいです
ミロスシステムは難解過ぎて理解しようと思ったら人生が終わってしまいますね
人生に役に立たないものに思われました
確かに、OSSRIMの延長線上に描かれる結論です。
そんな境地は、対立を超えて安心かもしれません。悩んだりしないわけだし。
「貧しくない」
「寂しくない」
「苦しくない」
と考えているようでは、「それは思い込みのOSSRIMだ」と否定されてしまいます。
状況や環境が変わるから「安心」できるのではなく、どんなに辛く、苦しい目に遭っても、
直視しなければいい、だって幻想だから、という考え方。
区別や差別に振り回される人生の有り様を、仏教では
『酔生夢死』
と言いますが、絶対安心はベクトルの方向が違うだけ。
振り回されるか、無視するかの違いで、やはり泥酔しているかのようです。
正気、シラフでは耐えられません。
教祖の老タヌキに導かれ、念仏踊りでラリッた状態のまま船で海原へこぎだしていくシーンを連想します。
その先に待ち受けるものは、もちろん破滅しかないのですが。」
『借金でもうどうにもなりません!』
というコメントがありました。
『あなたはOSSRIMを知ったのだから大丈夫』
というものでした。
破産しようが、家から立ち退かされようが幻想だから構わない。
幸せも不幸もない。
いったいこの方がどれほどの絶望にさいなまれるか?
