久し振りに違うよねと言いたい文を見つけましたので 貼り付けさせていただきましたよ
私の意見異見を色付きで書き込みます
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「人は絶対に自分の見ている世界しか認識できないカプセルの中で、自分のドラマを他者のドラマであると勘違いしていること。」をまざまざと見せられていました。
思わず、感嘆の声が出てしまうほど、見事に100パーセントそうでした。
もちろん、もれなくその中の筆頭者として、私がそこに存在していました。
自分の宇宙しか見えない宇宙の中で、自分という他者をどれだけ分析しても、自分についてのワードしか出てこない![]()
他者=自分ということですか?
他者をミロスとして分析すると出てきたワードがスタイリッシュ☜自分と真逆な言葉です
そこにこのミロスシステムによっていかに自分自身が、深く解体され、細分化され、理解されているか否かが、とても大切であると痛感しました。
ミロスシステムで自分自身を深く解体 細分化 理解
必要かというと必要ない
単純に考えた方が生活しやすいと思う
そうなって行くと、「私はこうです。」「私はこういう人間です。」という個を主張できなくなります。
私はこうですと主張できる事はいいと思うし 大事にしたい世界です
目の前の人との関係性で、私たちはコロコロ自分を変えているのに、個を主張できる訳がありません。
自分を変えようと考え行動する あるいは変えたくないけど変わっちゃう
例えばお客様の前では丁寧に笑顔で対応するのは 仕事なので皆そのように努力します
一方好きな人の前で 笑顔でいたいけどそっけなくしてしまうのは その人の個性ですよね
相手によって自分をコロコロ変えるのは 生活をしていくうえで当たり前のこと
個を主張できないってことではないと思います
だからこそ、解体され細分化されておくことで、「私はこう!」という瞬間的エゴの自己防衛が効力を失って行きます。
相手と自分を本当の自分自身に戻るために、等しく観られること、
親子でも兄弟でも夫婦でも 自分と相手は別人格とわきまえてた方が 人間関係はうまくいくと思います
相手と自分の二極性をそのまま感情なく受け入れられることが、とても大切な実践です。
それを容易にしてくれるのは、
自分というエゴをどこまでも細かく切り刻み、全体性の中にいつでも溶け込んで行けるようにしておくことであると、ここ数日の体験から痛感しました。
自分の個性をなくせ エゴをなくせと ミロスに溶け込めと言われているように感じられて 私は抵抗を感じました
というわけで取り上げさせていただきました
理解したミロスシステムを、実際に自分の人生に当てはめて行けなければ、ただの知識の積み重ねなだけで何の意味もありません。
まとめ 個人的意見として
私は自分の考えをちゃんと持ちたいです
自分の考えを持ったうえで人と話すと 考え方が違ってもこの人はそういう考えなんやって受け止めて お互い理解できた時とても楽しいです
ミロスシステムは難解過ぎて理解しようと思ったら人生が終わってしまいますね
人生に役に立たないものに思われました