「OSSRIMを知ったら絶対安心」のしくみ(2) | ミロス情報置き場
     
    【このブログはフィクションです。実在する個人、団体等とは一切関係ありません。】
     
    -むむむ、物事を2つに分けなければ、そう・・・なりますよね。
    確かに、OSSRIMの延長線上に描かれる結論です。
    貧しさを認めない。寂しさも感じない。痛い、苦しいと決して思わない境地。
    そんな境地は、対立を超えて安心かもしれません。悩んだりしないわけだし。
     
    でも・・・私はイヤです。これは安心というより、人として大切な何かを『放棄』している気がします。
     
    「OSSRIMは、何かにつけて 『考えるな』 と言いますね。
    いちいち
    「貧しくない」
    「寂しくない」
    「苦しくない」
    と考えているようでは、「それは思い込みのOSSRIMだ」と否定されてしまいます。
     
    思考を経ないで、反射的に絶対安心で~す、と答えられたら、もう立派なOSSRIM人の仲間入り。
    あとは人生に何が起きたとしても、神の御使いであるOSSCOR師の教えにひたすら盲従して
    お金を払い、信者を勧誘すればいいのです。」
     
    -『絶対安心』の正体が見えました。
    状況や環境が変わるから「安心」できるのではなく、どんなに辛く、苦しい目に遭っても、
    直視しなければいい、だって幻想だから、という考え方。
     
    でも、わたしはそんな境地は欲しくありません。
    区別や差別に振り回される人生の有り様を、仏教では
    『酔生夢死』
    と言いますが、絶対安心はベクトルの方向が違うだけ。
    振り回されるか、無視するかの違いで、やはり泥酔しているかのようです。
     
    「その泥酔状態を、何の疑問も持たずに共有できるのがOSSRIM人なのです。
    正気、シラフでは耐えられません。
    スタジオジブリの作品『平成狸合戦ぽんぽこ』の中で、現状に絶望したタヌキたちが
    教祖の老タヌキに導かれ、念仏踊りでラリッた状態のまま船で海原へこぎだしていくシーンを連想します。
    その先に待ち受けるものは、もちろん破滅しかないのですが。」
     
    -そんな『絶対安心』というエサについ釣られてしまうのは、やはり苦境に立っている辛い人たちですよね。
     
    「自分の重病を避けられなかったブロガー講師さんのブログに、読者から
    『借金でもうどうにもなりません!』
    というコメントがありました。
    それに対する彼の返答は、
    『あなたはOSSRIMを知ったのだから大丈夫』
    というものでした。
     
    大丈夫の中身は、もちろん今まで述べた『絶対安心』です。
    破産しようが、家から立ち退かされようが幻想だから構わない。
    幸せも不幸もない。
     
    それが『大丈夫』の正体だと知ったとき、何ひとつ問題が改善するわけではないと知ったとき、
    いったいこの方がどれほどの絶望にさいなまれるか?
    その意味で、OSSRIMの『絶対安心』はタチの悪い、罪深いワナだと思いますね。」