絶対安心の解説に引き続き ドクトルGが絶対平和の解説をしてくださいました

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「どくとるGぢゃ。語り口調は当時と違うが堪忍ぢゃ。」

--ナースBです。小梅様から「絶対平和」についてのご質問をいただきましたね。

「うむ。絶対安心の記事を転載してもらったから、
この場をお借りしてリクエストにお応えしてみよう。

『絶対平和』『絶対安心』と、Mは『絶対』というワードを乱発するが、
我々が日常会話で使う『絶対』と、Mの『絶対』は、やや意味が違うんぢゃ。」

ーー『ゼッタイ先に撃っちゃダメよ!』のように
“必ず”“まちがいなく”の意味ではないのですか?

「それはどんな場面ぢゃ?まあよい。

Mの教理の中核に“二元性の否定”があるのは知っとるね。
熱い×冷たい、明るい×暗い、高い×低いのように、
人間は世界を2つに分ける見方、とらえ方をしがちなのぢゃが、
Mはその見方は“幻影”“幻想”と考える。

それを踏まえて、二元性で偏った見方や考え方から解放されて
苦しみを減らそう、というのぢゃ。

ワシはこの考え方自体は間違いとは思っていない。
その先の「受け取る」だの「高次元」だのがマヤカシなのぢゃ。
それは今回の本題ではないので、話を元に戻そう。

この二元性を構成する2つの極性を、Mでは
『対(つい)』
と呼び、二元性によって葛藤や不安定、争いがある状態を
『相対(そうたい)』
と呼んでおる。

そしてこの
『相対』
から離れて、物事の真実の状態を把握できる境地のことを、
「『対』を絶った」状態、すなわち
『絶対』
の状態と定義しているのぢゃ。 」

 

 

ーーMは『絶対』という言葉に別の意味を持たせて、
『自分たちだけが秘密を知っている』
という優越感に浸っている、子供のコトバ遊びのようにも見えます。

「そういう側面もあるぢゃろう。
特定の“業界用語”的なワードを共有することは
内向きの仲間意識を強化する効果があるからな。
外部から見ると噴飯ものぢゃが。

ワシが『絶対平和』を解読するならば、
・私たちをとりまく世界は、『対』になった2つの極性に分かれて見える。
・正義×邪悪、富貴×貧乏、男×女など、二元性が大小すべての争いの根源だ。
・しかし、Mは二元性を“幻想”であると看破した。
・二元性が幻想であり、相手が自分の『対』になる極を映す鏡だと知れば、
 もはや争いの起こる余地がなくなる。
・『対』が絶たれた『絶対』の平和をもたらすのが、我々Mのミッション(使命)だ。
とでも言いたいのぢゃろう。
『絶対安心』と置き換えても、文脈はまったく一緒ぢゃ。」

--前提にはあまり異論がないけれど、結論には違和感ありまくりですね。

「M全般に言えることぢゃが、どの問題提起もおおむね正しい。
非二元論も、鏡の原理も部分的には間違いではない。
その先の『高次元』『アセンション』『宇宙からの叡知』などが
検証不能な、どうにでも言えるオカルト教義なのぢゃ。

『絶対平和』『絶対安心』も、コンセプト的には成立しうる。
実現するなら結構な話ぢゃ。

ぢゃが、ワシが最大の問題と思うのは
『Mはその提唱者・担い手としてふさわしいか?」
ということぢゃ。

口を開けば『数百万人』『世界に出る』『アメリカ進出』と
“小より大”に偏った虚栄心むき出しで、

『財が自由自在』になるMをマスターしたはずの講師が
1人3000円のセミナー料金を無料化できず、

『離婚がない究極の結婚』を標榜するM講師が何人も離婚し、

『あっそうなん』で病が消えると豪語した講師が緊急入院、
そしてついには教祖自身が後継の備えがないまま急逝と、

世界の『対(つい)』を絶つ前に、
みずからの深い『業(ごう)』を絶ってはいかが?
と言いたくなるのう。 」

ーー『小』より『大』、『貧』より『富』、『無名』より『有名』に明らかに拘泥しているMは、全然『対』を絶てていませんものね。
世界は実践のない「思いつき言うだけ番長」に用はありません。

 

 

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ドクトルGありがとうございました

 

「絶対」にMなりの意味があることを初めて知りました

 

『Mはその提唱者・担い手としてふさわしいか?」

 

というところを読んで Mのそもそもの目的が問題なんだと感じました

 

目的があれだから変な方向に行ってないかい?

 

今の状況があれなんで 絶対平和という言葉に(#^ω^)ピキピキと反応してしまう私です

 

この質問をする以前に ドクトルGの解説を送ってくださるSさんが絶対平和についてコメントされてました

 

あわせてどうぞもみじ

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Mではイベントのテーマとして
「絶対平和」
と言っているようですが、早い話が
「世界がM一色になれば争いはなくなる」
という意味でしょう。

スターウォーズでダークサイドのボスが
「我らダークサイドが銀河を支配すれば平和になる」
と主人公をそそのかすのを思い出してしまいます。

「いや、そうじゃない。二項対立を超越して、俯瞰する視点に立つことが
争いから脱する道なんだ。それが『絶対平和』だ」
とM信者は反論するのでしょう。

しかし、その
「俯瞰」
を絶対視する考え方そのものが執着、すなわちMが最も忌避する
「偏り」
つまり別のジャッジの罠に陥っていることに気がつかないでしょうか?

気づいた人から早く離脱しましょう。

 

 

 

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