5月13日月曜日の続きです!
善光寺から長野市街へ移動し、給油してから国道117号線
を南下して犀川を渡り、上信越道長野IC方面へと走りました。
『川中島古戦場』へ来ました。
この川中島で1561年に甲斐の武田軍と越後の上杉軍の戦いが
ありました。現在、その周囲は広々とした公園にもなってました。
その古戦場跡には『八幡社』という神社もありました
。
ふむふむ、なるほど。
川中島の戦いで武田信玄と上杉謙信の
一騎討ちがあったと伝わります。
八幡社の【鳥居】
「甲越直戦地」の石碑が建ちます。
川中島の戦いは5度起こってるんですが、ここでいう「川中島の戦い」
は最も激しい戦いだった1561年の八幡原での「第四次川中島合戦」
になります。この戦いで両雄の一騎討ちがあったといわれています。
妻女山に陣を構える上杉軍13000、海津城に本陣を敷く武田軍20000、しばらく睨み
あったまま動かず!そして9月10日、信玄は軍師山本勘助の「軍勢を二つに分け、
別動隊12000に妻女山の上杉軍を夜陰に乗じて急襲し、驚きあわてて山を下って
来た上杉軍を八幡原にて別動隊と本隊とで挟み撃ちとし撃滅する」という「キツツキ戦法」
を採用し実行します。
しかし、武田軍の陣地を眺めていた上杉謙信は武田軍の陣地から煮炊きの煙が
これまでより多く出ているのを見て、武田軍が大規模な軍事行動を起こすと察知、
武田軍の作戦を見破ります。そして謙信は先手を打ち敵に気付かれないようにして
全軍妻女山を下り、千曲川を渡って信玄率いる武田軍本隊に襲い掛かります。
別動隊を出撃させていた武田軍は兵力的に劣勢となり苦戦、本陣が手薄となり
そこに謙信が単騎で突入し信玄との一騎打ちで相対す事になります。
その後、武田軍別動隊が遅れて戦場に突入し逆に上杉軍が劣勢となり
謙信が越後に撤退という形で戦は終わります。
この戦で信玄は弟・典厩信繁、軍師山本勘助など有力な家臣を多く失います。
八幡社の【拝殿・本殿】
八幡社の【旧本殿】
八幡社の【御由緒】
【三太刀七太刀之跡】
信玄は軍配で七太刀も受けていたんですか~。
単騎で敵本陣に突入する謙信、どっしり構えて迎え撃つ信玄。
やはり戦国時代最強の武将二人だと思う。
八幡社の御朱印帳にも「両雄の一騎討ち」。
かっこいいので思わず購入していまいました。
武田軍旗印「風林火山」
上杉軍旗印「毘」「龍」
【首塚】
「敵に塩を送る」
実際に今川家に塩の流通は止められはしましたが、越中、越後などから
塩が入って来てたので武田氏はそれほど困ってはいなかったらしいですが。
謙信も塩を送ったというより武田領国への塩の流通を止める事をしなかった
というのが「塩を送る」という表現になったらしいです。
【川中島合戦を偲ぶ歌碑】
ふむふむなるほど。
【芭蕉句碑】
どこへ行っても見る?芭蕉句碑。
【八幡社の御朱印】
【川中島古戦場公園】を少し歩きました。
昼時だったので「おやき」食べました。
野沢菜のおやき。
「お蕎麦」も食べました~。
昼御飯食べてから、さらに次の目的地へ移動しました。
今回はこんなところです。
ではまた次回に