宗派 粉河観音宗(こかわかんのんしゅう)
本尊 千手千眼観世音菩薩
(せんじゅせんげんかんぜおんぼさつ)
【草創】
奈良時代末 宝亀元年(770)の開創。当時、紀伊国那賀郡に住む 猟師大伴孔子古
は、いつも幽谷の樹幹に足場を定めて、夜ごと猪や 鹿を狙っていたが、ある晩、光明
輝く地を発見、発心してその場所に柴の庵を建てた。
後日、一夜を泊めてもらった童行者は、孔子古の願い(庵に仏像を安置すること)を
かなえてやろうと、七日七夜、庵にこもり、等身の千手観音像を刻み立ち去った。
その後時移り、河内国の長者佐太夫の一人娘が長患いしていた。そこへ童行者が
訪ね来て千手陀羅尼を誦して祈祷、やがて娘の病は回復した。童行者は長者がお礼
にと申し出た七珍万宝を断り、娘が捧げるさげさや(お箸箱)と袴のみを手に「紀伊国
那賀郡粉河の者だ」とのみ告げて立ち去った。
翌年春、長者一家は粉河を訪れたが、探しあぐねて小川の傍らで一休み、ふと流れる
水が米のとぎ汁のように白いのに気がつき、粉河の証しであることを確信、さらにその川
を遡り庵を発見した。扉を開けると千手観音が安置され、娘が差し出したさげさやと袴を
持たれていたので、かの童行者は、実は千手観音の化身であったことが分かった。この
開創の由来は、当寺所蔵の粉河寺縁起絵巻(国宝)等にて伝えられている。
【粉河寺大門】
規模の大きい三間楼門で、和歌山県では、高野山・根来寺
に次ぐ威容を誇る。宝永四年(一七〇六)総欅造り。金剛力士は
仏師春日の作と云われ、尊像の用材は桂の巨木。
大門から入って【不動堂】
春になれば「桜」が咲く【参道】。
【粉河寺案内図】
JR粉河駅から徒歩10分ほどのところに大門が建つ。境内南西に
南面した大門をくぐると参道は右手に曲がり、参道の右側は川、
左側には本坊、童男堂(どうなんどう)などの諸堂が並ぶ。参道
の先には西面して中門が建ち、そこからさらに一段高く造成された
平地に本堂、千手堂、六角堂、丈六堂などが建つ。本堂前の斜面
は巨石を並べた庭園(国の名勝)になっている 。
本堂には「野荒らしの虎」もあり。
【童男堂 】
和歌山 県指定文化財、延宝7年(1679)の建立。
千手観音の化身とされる童男大士を祀る。三間四方の正堂の前方に
五間二間の礼堂を設け、奥行一間の合の間を増築し、宝暦5年(1755年)
に現状のような屋根に変更したことが、棟札によってわかる。当寺の草創
にかかわる重要な建物だけに時代の要請によってその都度改良を加えて
いったものと考えられる。
歩きます、歩きます。
【仏足石】
【出現池】
ふむふむ。
【念仏堂】
江戸時代後期築、総欅造 。
【粉河寺阿弥陀如来坐像(露座仏)】
市指定文化財、1862年作、鐫字、総長210cm、像長144cm。
紀州八代藩主徳川重倫らの寄進。
【太子堂】
【 盥漱盤(荷葉鉢) 】
市指定文化財、1775年、粉河鋳物師蜂屋薩摩掾五代目源正勝の作。
総高240cm、幅185cm 。200年以上働き続けている。
【身代わり地蔵尊】
【ミニ地蔵】
【中門】
三間二戸の桜門として標準的な規模をもち、軒まわりまで良質の欅材で
繊細な建物に仕上げている。天保三年(一八三二)の建立で四天王を祀る。
「風猛山」の扁額は、紀州徳川十代藩主、治宝候の直筆である。
【牧水歌碑】
ふむふむ、ふむふむ。
【茶屋】
【粉河寺庭園】
本堂の前庭とその下の広場との高低差を処理する土留めとして、
又、その広場から雄大な本堂を仰ぎ見る前景として築かれた石組み
で、日本庭園の中でも先例のない様式である。
【丈六堂】
【丈六堂の仏様】
【本堂】
八世紀(七七〇)の創建より、数度の造営と改造を繰り返し、現存の当本堂は
享保五年(一七二〇)に再建された。江戸時代中期の欅材による代表的建築
で西国三十三ヶ所の中で最大である。他に類例を見ない特異な形態で、一重屋根
の礼堂と二重屋根の正堂とが結合した構成を持つ複合仏堂の形式である。
【六角堂】
僕が参拝した時、本堂はひっそりと静かでした。
【御詠歌】
「父母の 恵みも深き粉河寺 ほとけの誓ひ たのもしの身や」。
本堂から見る【千手堂】
宝形造りの三間堂、細部様式では本堂と一脈相通ずる面を持っている。
宝暦十年(一七六〇)の建立。正面に千住観世音菩薩両側の脇壇には
紀州歴代藩主とそのゆかりの人々の位牌を祀っている。
【御朱印】