2月16日夜勤明け
、自宅へ帰ったあと午前中
は少し就寝
して
午後から、所用があったので、出かけました。その際にとある神社
に参拝しました
。
御朱印帳の収集をしてるというわけではないのですが今回
、最初の
写真を朱印帳
にしてみました。これは和歌山県有田郡広川町にある
『広八幡神社』のものなんですが、「稲むらの火」
が描かれているのが
良いな~と思い授与して頂きました。「稲むらの火」
といえば「浜口梧陵」
。
こちらが『広八幡神社』!
最近、楼門が補修
されて綺麗になってました
。
安政の大津波の時に避難場所となったのが、この神社
。
【社殿】はこんな感じ!
《神功皇后が三韓を征しての帰途、この有田広村にも行幸されたという
御縁があり、欽明天皇(6世紀中頃在位)の御代に河内誉田八幡宮より勧請
されたと言い伝えられる。紀伊続風土記によれば、室町時代初期、梅本覚言
という土豪が現在の地に遷宮したと記録がありますが定かでない・・・》
【舞殿】
【本殿】
【天神社の拝殿】
【御神輿】が保管されていました
。
【法華経全部一字一石塔】
何か書いてるな~。
亀さんをを撫でました
。
「石」が二つ祀られています
。
左【福石】、右【五島石】
。
《「五島石」は、広川町の姉妹町、九州五島の奈良尾町より江戸期に広村から
出稼ぎに行った人達が記念に持ち帰ったものと伝えられる。明治中期頃まで、青年
の力比べにこの石が利用された。「福石」は、この石を持ち上げた人の記念として
奉納されたもの》
【多宝塔跡】
ここにあった多宝塔は、近くにある「法蔵寺」
の境内
に移築されて
現在も存在しています。
広八幡神社の社殿北側には、「梧陵浜口君碑」
があります
。
【梧陵浜口君碑】
友人であった「勝海州」の書といわれる。浜口梧陵
の功績を讃える文章が
刻まれているとか・・・。
【浜口梧陵】とは、こんな大人物です
。
浜口梧陵と同じ時代を生きた維新の志士達
!
何人かの志士とは交流があったかもしれません
。
各地の地震被害を伝える【瓦版】
。
広川の漁港へ移動して来ました
。
安政元年(1854年)旧暦11月5日の夕方、広村を「安政の大地震」
が襲い、
そして津波が襲来する。「浜口梧陵」
は田
の「稲むら」
に火を灯して
、
高台にある広八幡神社への避難路を示す明かり
とする、この速やかな行動、
誘導によって多くの村人が救われる。
「広の漁港」から道路
を挟んで向かい側に、こういうものが
設置されています。
これが浜口梧陵が村人を雇用して造った【広村堤防】
。
これは【稲むら】
刈り取られたあと積み重ねられた脱穀後の稲の束です。
この「稲むら」に火を灯しました
。
ふむふむ、そういう事なんです。
なるほど、なるほど。
こちらは「広八幡神社」から西へ1キロほど行った所にある
【濱口梧陵のお墓】
ふ~、この「説明」はなんとか読めます。
浜口梧陵は少し寂し気な場所で眠っています
。
手前のお墓は【濱口梧陵墓】。
ここは広村堤防から、ほど近い
【稲むらの火の館(浜口梧陵記念館)】。
この「稲むらの火の館」は民家風の建物です
。
濱口梧陵の遺品など展示されていました
。
隣接して建つ【津波防災教育センター】。
こちらで津波の3D映画など見ました
。
「稲むらの火の館」は和歌山歴史100のスタンプ
設置場所です
。
「稲むらの火祭り」は毎年、秋
に広川町役場前にある「稲むらの火広場」
から広八幡神社まで松明
を持って練り歩く祭りです
。
最後に【広八幡神社の御朱印】
近い将来、東南海地震が起こるとされています。
濱口梧陵の教えは生かされるのでありましょうか?
今回はこんなところです
ではまた次回に