シーズン3/分け合う | 風知風束(ふうちふうつか) 魂、精霊、風との対話

風知風束(ふうちふうつか) 魂、精霊、風との対話

霊性、祖霊、魂、精霊、生霊など見えない存在、植物、動物など言葉をもたない存在と対話して自分の役割(本質本性)を知り、風と対話してご縁の結び目を解くことで、この世あの世さらにはその向こう側の謎を解いていきます。

(499ー5)
人類の歩みは、全体としての「テーマ」と個人の「ドラマ」とが設けられています。

個人の「ドラマ」は、1個の「私」が十数回から数十回の輪廻転生を繰り返し演じます。1個の「私」は、そのつど意識、記憶を消され生まれ変わってきます。覚えているのは1個の「私」のドラマの脚本、演出をずっと担当している魂です。私たちは操り人形のピノキオです。

人類全体としての「テーマ」は、現在2シーズン目です。表向きは「善と悪と、そして裁く」ですが、その根源的テーマは「動物を捕獲、飼育して食べる」です。

ちなみにシーズン1は、「目に前にあるものを採取、捕獲して食べる」でした。季節によって、その年によって食べられる量が異なるので、数ヵ月先、長くても次の季節まで生きられるかが思いを馳せる限界です。あまりに短い有限です。

最近、海外の学者が「人類は、数億年かけて継続して進歩してきたのではなく、20万年くらいのスパンでそのつどオールクリアされて、新しい人類が登場する」という説を発表しています。他の生き物については触れていませんでした。

私はこの説に興味を持っています。考古学的にいうと、数億年単位、数千万年単位で人骨や遺跡が発掘されていますが、これをもって人類の歴史が継続していると考えるのは早合点、鵜呑み、希望的観測ではないかと思います。

地球が誕生して約45億数千万年、そのいつの頃からか人類が暮らしていたのですから、いくらでも古い年代の人骨、遺跡は土に埋まっています。しかし、それをもって1億年前の人類と10万年前の人類とが継続していた証拠にはならないです。地層によってはいくらでも人類の証しは埋まっています。

あくまでも形跡です。現代まで継続していると考えるのは無茶苦茶です。

地球上の生き物は植物を除いて例外なく他者を捕獲して殺して食べます。それによって生命を維持し活動しています。

霞を食べて生きる仙人のように(笑)、水だけで何十年も生きている人がいるそうですが、にわかには信じがたいです。もし万人が可能なら動物を殺して食べる習慣は明日にでもすぐに変えられそうですが、そこまでの話は誰も言わないのです。眉唾、ガセネタ、嘘、妄想、売名行為とは決めつけたくないですが、まあ、特異体質ということでしょうか?

この世は特異体質の生き物のためにあるのではありません。テーマが決まっているのですから、例外は横に置いときます。

人類が20万年くらいでリセットされる科学的根拠と数億年単位で継続しているとする科学的根拠は、あくまでも推測です。

私が魂から聞いているところによると、1個の「私」の輪廻転生は、多くても数十回。死んで生まれ変わるための待機期間は10年前後です。仮に30回生まれ変わるとして2000年もあれば1個の「私」の地球での輪廻転生は終わり、魂に転生していきます。

数千万年という長い年月は必要ないのです。まして億単位はいらないです。人類全体としても数十万年あれば人類の役割は全うできます。それをシーズン1から繰り返しているだけです。

同じテーマで繰り返し演じることが輪廻転生の目的です。宇宙を見渡せば、かたちあるものないものを問わず億単位の誕生消滅のサイクルで廻っているように見受けますが、それは星々の話で、人類にそんな長い継続のサイクルは無用です。

しかも人間は、すでに消滅再生している惑星で遥か昔に存在していた人間(のような存在)の人生ドラマがこの地球に投影されて濃厚に見える現実で、実は映像です。うつせみです。その映像をリメイクして魂はオリジナルなドラマを創っているのです。

この地球にはいろいろな生き物がいますが、地球由来の植物を除いてすべてが様々な惑星から投影されている映像です。いくつもの映像が重なって濃厚な現実を創り出しているのです。アニメーションを作る作業工程と同じです。

人間以外の生き物に魂は関わっていません。彼らがどういう目的で、この地球に投影されているかは未知です。ただ多くの生き物が人間に食べられるために投影されているのでしょうか?

1個の「私」が魂に転生し、次に惑星に転生して宇宙に星々を供給しているのですから、のんきなことはいってられないのです。宇宙は私たちが惑星になって宇宙に帰ってくるのを待っているのです。

私たち人類の宇宙における役割は星になることです。

お母さんが死んで嘆き悲しむ子供に、誰かが夜空を指差して、優しく肩を抱いて囁きます。「お母さんはあの星になったのよ」あながちその場しのぎの慰めではないのです。昔の人は、今の人より星々に思いを馳せ、身近に感じていたのですね。

1個の「私」は、人間の意識を味わい、転生して魂の意識を味わい、さらに惑星の意識、恒星の意識を味わい、銀河の意識を味わっていきます。宇宙と私たちの関係もまた輪廻転生、因果応報、相対的関係なのです。

そして未知の「縁」の意識を味わいますが、「縁」の世界はこの世ではありません。何度か「縁」について書いていますが、このブログの最後にこの世との境界線辺りを触れることができるかもしれません。輪廻転生、因果応報、相対的関係の法則が働いていない現実です。この世、あの世ではなさそうです。

さてシーズン3です。テーマは「分け合う」です。人間の意識レベルが上がるわけではありません。移行するだけです。味合う現実が変わるだけです。

昔はどこのお母さんでも、ときどきですが、遊んでいる自分の子供とその友達に声をかけて集め、両手を前に出させて、お菓子を平等に分けてくれました。種類は違っても同じ数になるよう「ひいふうみいよういつ」と声を出して配りました。5つはなかったです(笑)

今は働いてるお母さんが多いいからでしょうか、うちの子供たちの頃は(20年くらい前のことですが)、自分の家で遊んでいても自分だけ食べていました。「友達にもあげなさい」というと、「みんなそうだから」といって平気で、急いで食べていました(笑)

「分け合う」は、親が子に与える、きょうだいで分け合う、親子で分け合う…友達と、学校で、地域で、職場でといろいろな場合がありますが、自分を殺して我が子、他人を生かすことではありません。

見るに見かねて恵む、持てる者がそうでない人々に施すといった善意、慈善ではありません。

自分を犠牲にして差し出すことでもありません。ほんとうの犠牲心は、捨て身ではなく自分も生かすことです。 

同じに分ける技と良心が求められます。我が子にちょっとでも多くとか、自分は少なくてもいいという親心では、「分け合う」にはなりません。ちょろまかして、これは好物だから自分に1つまみ多くとかもいけませんよ(笑)

食べ物が底を着き餓えで死にそうでも親と子、自分と他者が同じに分け合うことです。

他者を殺すことも自分を殺すこともいけません。みんなが自分も他者も生かす犠牲心を持つことが良心です。

う~ん。空きっ腹にはこたえる話でした。シーズン3の次があるかは未知ですが、やがて人類は地球での生まれ変わりに終止符を打ちます。地球も今度は恒星に生まれ変わります。