この世に起きる事象は恩返しを現しています。生きることは原因(種子)が結果(発芽)に恩を返すことです。現実は、私たちが甘んじて受け入れて噛み締め味わうために用意されています。
細菌、ウィルス、物質、宇宙レベルでも同じです。
数えきれないほどの種子がこぼれますが、すべての種子が発芽するわけではありません。なので、どのような結果であっても原因は感謝します。なのでこの世という恩返しの舞台が用意されているのです。
結果を受け入れることが人生です。結果を起こす(発芽する)原因は、一見「私」にありそうですが、現実が濃厚すぎるのでそう見えるだけで、7割は「私」に起因してはいません。相手にある場合もあれば、過去世、来世からやってくる原因もあります。ことほど左様に現世の現実は複雑怪奇でランダムです。関わりなさそうな地球の果てからやってくるものもあれば、遥か宇宙の彼方からやってくる原因もあります。
原因は「私」たちの預かり知らないことです。結果を受け止めて味わうだけです。
理不尽じゃん!「私」がいる舞台は、あなたが関わっているもの、人間、組織、場所、社会、国、世界等々、この世のすべて…地球、太陽系、銀河、さらに宇宙も関わっているのです。そこに結果を起こす原因(種子)が転がっています。
誰が種子を蒔いたかは未知です。種を蒔く権兵衛は誰でしょう!カラスが未然に種を掘って持っていってしまうことも、ときにはあるようですが…。
カラスの正体も?未知ですあります。
原因がすべてであって、私たちには原因、結果を生み出す役割はありません。理不尽かも知れませんが結果を受け入れるだけです。それが人生です。
原因も結果も現実のように見えますが、両方ともすでに起きたことです。その起きたことを受け入れて噛み締め味わうことがこの世の「現実」といううつせみです。フィルムでいえばネガが元でポジは誰にでもわかるように現れた絵空事のようなものです。
原因の元は遥か彼方の惑星で起きたことです。地球はまるごとスクリーンで、その結果が映し出されています。私たちは結果を演じているだけです。遥か彼方の惑星で起きた原因は私たちの預かり知らないことです。知っているのは、その惑星で人間から転生した魂だけです。その惑星の人間はすでに死んでいます。何億も前に。
神はいません。この世の小道具の1つに過ぎません。好き嫌いと大差ない小道具です。どちらが重要かといえば、もちろん好き嫌いです。
魂の描く人生ドラマの主人公が私たちです。私たちは舞台の上の役者です。魂に操られるピノキオです。主役ですが脇役のような筋書きもあれば、ヒーロー、ヒロイン、悪人、嫌われもの、善人でもあります。繰り返す輪廻転生の中でいろいろな役を演じます。私たちの自由度は3割だそうです。好き嫌いがその小道具で、とても使い勝手がいいですが、世間を狭くも広くもします。好き嫌いが大道具だったら、とても使い回せずもて余すでしょう。
私たちは身体を持っています。何かの理由で朽ち果てると「死」という受け入れにくい現実が例外なく訪れます。死に至る過程は恐怖です。もがき苦しんで死を受け入れ、あるいは受け入れられないまま死を迎えることになります。意識がしぼみ息を引き取ると苦痛から解放されます。と、思います。
なので事故であれ病気であれ事件であれ「突然死」は魂から「私」という役者への最高の贈り物、恩返しです。
起きたことの原因が、結果に恩を返すことが結果の受け止め方です。その現実を受け入れられるか受け入れられないかがこの世という舞台が設けられ、幕を上げたり下げたりする理由です。
この世は恩返しのために用意されています。
原因は今世にあるだけでなく過去世、来世にも種子は落ちています。発芽(結果)は今世の現実にだけ起きることです。なので起きたことを受け入れるのが今世の役割です。個人、家族、民族、さらには国、地球規模で受け入れることになります。
発芽(結果)させるのが魂の役割です。発芽させることができない未熟な魂もいますが、それは魂の問題であって、「私」たち演じる側の役者の責任ではありません。
さて原因ですが、魂にはわからないそうです。言えることは、この世に種子(原因)はありません。あるように見えて、この世、もちろん「私」たちにも原因を生み出す役割はありません。
この世は結果(発芽)を受け入れる場所です。
なので産まれたら必ず、平等に死が訪れるのです。死とは「私」が、家族の「私」が、愛する人の「私」が消滅することですが、このことが何よりも受け入れがたい現実のようです。なので「私」にとってはで魂からの最高のプレゼントが突然死なのです。家族、周囲の人にとっては嘆き悲しむことではあっても…。
魂は「私」に、せめて安らかに死という現実を受け入れてほしいと苦慮していますが、病気、怪我は人生舞台の重要な小道具なので、なくすわけにはいきません。映画やTVドラマの脚本家、演出家、監督は、安易に他人事として役者を殺しますが、濃厚な現実世界の脚本家、演出家、監督である魂にとって死は自分のことでもあります。
死は、「私」の意識が消されて、身体が動かなくなりますが、それは結果が消滅することであって、原因(種子)は、とりあえず不滅ですから、いずれまた来世のどこかで発芽(結果)します。
種子(原因)は、蒔かれても発芽(結果)しないものもあります。発芽しても育たないものもあります。なので種子はエンドレスで撒かれ、競って発芽します。それがこの世の現実です。この世は、過去↔現在↔未来が双方向でランダムに出現します。ややこしやなのです。
結果を受け止めることが現実です。それが起きた結果への恩返しです。どのような結果であっても、それを味わうことが恩返しになります。でも私たちは輪廻転生を繰り返す中で受けた多くの恩を知らないのですけどね。そのことを知っているのが魂です。
「私」私ですが、結果であり原因でもあります。結果の私に振り回されないで、預かり知らないことではありますが、ちょっとでも原因(種子)の私に気がつけば、限られた時間(意識)と空間(身体)の中で発芽し、育っていることを実感できると思います。
私風束が死んだら発信はできませんが(笑)、その過程は発信できると思いますので、そこまでは書き(自動書記)続けたいと思います。