寄せていただいたコメントやメッセージを見て、もしかするとボクの想像以上に断絶を望んでいる人は多いのかもしれない、と感じました。
その中には、断絶の願いが叶わず、釈然としない日々を過ごしている方もいることでしょう。
断絶(排斥も)の可能性について考える時、多くの場合その可能性をゼロにしてしまうのが“村八分”の存在だと思います。
下記のリンクより、排斥者(断絶も含む)への対応として、JW組織が信者たちに何を教えているのかが分かります。
お時間のある方はご覧下さい。(Online Watchtower Libraryに繋がります)
http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1102008083
それにしても、断絶(排斥された方も含め)したり、それを願ったりする人たちを杓子定規に「キリストの教えにとどまらない者」と断定するとは、なんと僭越で独善的な組織なのでしょう。
ここで引用されているヨハネ第二9節の「キリストの教えにとどまらない者」とは、前後の文脈を読めば分かることですが、故意に反することを教えようとする偽教師たちのことです。
いったいどれほどの人がそれに該当するというのでしょう。
キリストの教え=JW組織の教えと主張する傲慢さの表れと感じます。
ところで、この情報はJW発行の「神の愛」という冊子からの引用です。
(タイトルが鼻につくのはボクだけでしょうか)
いわゆる“忠節な”JWは、こうした情報を鵜呑みにし断固従おうとするので、冒頭で述べた断絶希望者にとって、この問題がいかに頭を悩ませるものなのかがお分かりいただけると思います。
ちょっと突っ込んで書きます。
家族や親族にJWがいる場合、おもに断絶希望者が苦しむ理由は自分のことよりも彼らのことででしょう。
たとえば夫が断絶した場合、JW妻との関係にどのような状況が生じるのでしょうか。
JW的「霊的な交わり」とは、JW者としてのあらゆる活動が含まれます。
集会や野外宣教はもとより、家庭内における、祈り、聖書通読や研究などが含まれますが、それを共有できないだけなら些細なことのように思えます。
たとえ夫婦でも、好みや興味の対象は異なるわけですから。
しかし妻が前述した"忠節な”JWの場合、その決定は双方にとって深刻な事態を招くことになるかもしれません。
というのも"忠節な”JW夫婦の場合、配偶者間との生活はまさにこの霊的な共有の上に構築されているものだからです。
それを断つということには、周囲、あるいは当事者が想像していた以上のダメージをもたらす可能性があります。
霊的な習慣、つまり、起床後に共に祈り、「日々の聖句」を考慮し、共に祈って食事をし、共に野外伝道に出かけ、共に聖書を読み、共に集会の準備をし、共に集会に出かけ、共に祈ってその日を終える。
すべてのJW夫婦にはこの通りではないしにしろ、これに近いパターンが身に付いているはずですし、これによって夫婦の絆は強固にされているという実感があると思います。(もちろんボク自身もでした)
とすると、極端な見方をすれば、突き付けられた側の配偶者が忠実であろうとするにも関わらず断絶するとは、夫婦の絆を紡いできたこのすべてよりも自分の意思を優先するという罪悪感が沸き起こります。
ですから、想像力をかきたて、こうした状況についてあれこれと考えた結果、断絶への扉を閉ざすしかないと思う方が後を絶たないとしても無理はありません。
実際それが現実となった時、そこには"気まずい”という言葉が生易しく思えるような日常が待っているかもしれないのです。
(幸いにもボクは妻の理解に助けられ、そうした事態を避けられましたが)
もちろん、やむなくそれを実行された方もいることでしょう。
声を大にして言いたいのですが、これはどちらを選ぶかという単純な選択ではありません。
家族と自分の人生をかけた身悶えするような苦悩の決定です。
いかなる決定であっても、我々人間のだれもその人たちを裁く立場にはありません。
忘れないでください。
こうした事態を招いている責任は、当人たちではなくJW組織にあります。
今回は想像上の一例を取り上げて書きましたが、実際には様々な背景を持つ方々がそれぞれの悩みを抱え、釈然としない日々を過ごしておられることと思います。
そのような複雑な事情ゆえに断絶できない多くの方々に、一日も早く平安が訪れることを願ってやみません。
