母は、最初の2泊3日を一緒に過ごしてくれました。
旅館についた翌日、朝食をゆっくり食べて、部屋に戻った後、夫をお散歩に連れ出しました。

ちょっと気を抜くと後ろに倒れそうになる夫の手を引いて、ゆっくりゆっくり歩きました。
傍らにはシルバーカーを押しながら、母が付き添ってくれました。

この日はお天気がよく、暖かで、夫にたっぷり日光浴をさせてあげることができました。
滞在中、風が強くて薄ら寒かった一日を除いて、概ねいいお天気に恵まれました。

旅館から、健常者の足ならばおそらく3分位でいけそうなところに、景色のいい場所がありました。
高台になっていて、前が開け、遙か遠くまで見渡すことができました。
手前の林も、遠くの山も、新緑真っ盛りで素晴らしい眺めでした。
野生の藤の花が、至る所に咲いていました。

この場所に、ほぼ毎日のように通いました。
最初の頃は、危なっかしい歩き方をしていた夫でしたが、帰る頃にはかなりしっかりした足取りで歩けるようになっていました。
少なくとも、歩いていてそのまま後ろに倒れたり、腰砕けになってしまう心配はしなくて済むようになりました。

お散歩がよかったのか、温泉がよかったのか、或いは、ただ単にけいれん発作から日にちが経ったので、自然に治ってきたのか..。
それのどれかかもしれないし、全部なのかもしれません。
理由はともあれ、私は単純に喜びました。


母は3日めに帰って行きましたが、翌週、平日に代休がとれたという弟と二人で、1泊2日でまた来てくれました。
早めに来てくれて、2日間ともお昼を食べに連れ出してくれました。

弟の車で、近くにある野鳥公園に行きました。
ここは、古賀政男先生の歌碑があるところでした。
美しい木立に囲まれて、歌碑はありました。そのすぐそばに、四阿がありました。
私たちはそこに腰掛けて、持参した飲み物や、お菓子を食べていました。
ゆったりと心地よい時間が流れました。

見ると歌碑の前で、男の人たちが何か作業をしています。
本来は歌碑の前にある平らな石の装置に乗ると、影を慕いてのメロディーが流れる筈だったようです。
複雑な故障のようで、男の人たちは、直せないで帰っていきました。

直らなくてもいいもんねー、○○ちゃん(夫の名前)が、代わりに歌うから~
そう言って、私が歌い始めました。

  ま~ぼろ~しのぉぉ~~

すると夫が、かーぁgx△▼x~と声を出してくれました。
ちょっとだけ声を出して、後はやめてしまったのですが、確かに夫は一緒に歌ってくれました。
残りを母と二人で歌いました。

周囲は五月の緑に囲まれて、鳥が鳴き、爽やかな風が吹いていました。


$若年性認知症の夫と二人暮らし-野鳥の森公園
宿での一日は、朝5時半くらいから始まります。
久しく畳の上の布団で寝ていない私は、腰が痛くてたまりません。
ちょっと休憩を兼ねて、テレビをつけ、天気予報などをチェック。

6時になったら、夫を起こしに行きます。
レンタルの介護ベッドは、8畳と続き間の3畳に、来たときには既に設置してもらってありました。
3畳だと広さに余裕がないので、ベッドの片側は壁に押しつけられていました。

電動で背の部分を立ち上げても、腰を曲げずに突っ張ってしまうので、ずるずる足元の方に移動するだけでした。
また、脚を手前にベッドから出すときに、上半身もそれに伴ってベッドに直角になってしまうので、結局、背中は下に落ちてしまいました。
夫の上半身を起こしたままにしておくことができませんでした。
私は電動で起こすことをあきらめました。

やむなく、いつも通り、後ろ側から持ち上げて、上半身を起こしていました。
夫の体と壁の間の狭い隙間に座って、腕の力だけで起こしました。
時々、起こせないかもと思いました。
やっと起こして、ベッドから立ち上がらせ、8畳に置いてある椅子に連れてくるまでに、毎朝、私はへとへとになっていました。

幸いだったのは、この旅行中、一度もベッドを汚さなかったことです。
これはほんとに助かりました。

持参したティーバッグで紅茶を作り、フェルガードとはちみつを入れ、飲ませました。
それからお風呂に入るための支度をしました。バスタオルや着替えを手提げ袋に入れ、私は水着に着替えました。

大抵の場合、7時半に若主人が迎えに来てくれました。
若主人が来てくれると物事がスムーズに運びます。
椅子から立ち上がれなくても、抱え上げて立たせてくれます。

畳部屋から、部屋の入り口に出るところに小さな板の間があり、その先は、黒い玉砂利を床に埋め込んだ、たたきになっていました。
ここに夫を下ろすのが大変でした。
床の色や素材が変わると、高さを誤認するらしく、怖がって足を踏み出せなくなっていました。

たまたま廊下に、木のすのこが置いてありました。
なぜ置いてあったかは不明なのですが、それを拝借して、たたきの上に置きました。
板の間とほとんど段差がなくなり、色も近いので、夫は足を踏み出してくれました。

それからは待望のお風呂タイムです。
ゆったり湯船に浸かって、さっぱりとして、毎朝夫は上機嫌でした。
脱衣場で、体を拭いて服を着せる間、若主人は、夫の体を支えていてくれました。
そしてその後は、食事の部屋まで先に夫を連れて行ってくれました。
コップいっぱいの水を飲ませ、私が行くまで付き添っていてくれました。

私は大急ぎで身支度をし、一旦部屋に戻り、今度は食事セットを持って食事の部屋に向かいました。
食事セットの中身は、使い捨てエプロン、薬、黒胡椒のアロマパッチ、それとおにぎり作成セットです。

この旅館は以前は湯治客を受け入れていたそうですが、今はやっていなくて、私たちは、普通の宿泊客として泊まりました。
一泊二食なので、お昼はついていません。
近くに食堂も何も、全くないところでした。
車でなら食べにいけますが、もちろん車はありません。

そこで、サランラップ、梅干し、おかか、昆布、塩、海苔などを用意して行きました。
ごはんはおひつに食べきれないほどいっぱい入っているので、問題ありません。
ほぼ毎日、朝食の後、おにぎりを握りました。

夕方のお風呂も同じ流れで、5時頃若主人が迎えに来てくれ、お風呂から上がったらそのまま食事部屋に連れて行ってくれました。

部屋に戻ると大抵7時を過ぎていました。
しばらくくつろいだ後、またフェルガード入り紅茶を飲ませました。

それから、椅子に座らせたまま、口の中をきれいにしました。
8畳は庭に面していて、幅広の縁側がついていて、その端に洗面器がついていました。
旧式の小さな洗面器で、ここで歯を磨かせるのはとてもできませんでした。
洗面器と言うより、手洗い器といったものでした。

首にタオルを巻き、コップに水を入れてきて、ブラシに何もつけないで、歯をお掃除しました。
来る前に、歯磨きティッシュというものを見つけたので、それを持ってきていました。
丸いスポンジみたいなブラシで、あらまし汚れをとって、その後、そのティッシュで拭き取りました。
指に巻いてぬぐうのですが、開けた歯の間に差し込むと、時々ぎぃーっとかじられました。

その後は、おむつをつけて、パジャマに着替えさせました。
夕方のお風呂の後は、浴衣を着せていたので、着替えがとても楽でした。 
大抵8時半頃には夫はベッドに入っていました。

夫を寝かせた後、私は、一人でゆっくりお風呂に入ってこようと思うのですが、疲れ切ってしまっていたし、一日2回入って、更にもう一回というのも面倒でした。
結局いつもそのまま、テレビをちょっとだけ見て、9時半には寝てしまっていました。

母がいてくれたとき、夫を見ていてもらって、一回だけ昼間、大浴場に入ってきました。
いいお湯で、他のお客さんがいない時間帯だったので、独占でした。
気持ちよかったです。

こうして宿での一日が終わりました。








2週間の湯治から帰ってきました。
柳の下の二匹目のどじょうは発見できず、奇跡は起こりませんでした。
でも先ほど夫をお泊まりデイに送り出した後、私は全身の疲れにぐったりとしながらも、やっぱり連れて行ってよかったとしみじみ思っています。


行く前から、我ながら無謀なことをしてるなと思いながらの温泉旅行でした。
現地に行ってから買い物をする機会がないのはわかっていましたので、持って行くものリストを入念に作って揃えました。
大きなスーツケースいっぱいの衣類と日常に必要なもの、大きめの段ボール二つは、ほぼおむつ関係でいっぱいになりました。

頼んでいた宅配の集荷のちょっと前に、何気なくタンスを開け水着を発見しました。
あ、これもいるかもと思ってスーツケースに詰め込みました。
天の助けとはこのことかもしれません。
この水着がなかったら、この湯治は成り立たず、無残な結果に終わってしまったろうと思います。


往きは信じられないくらいスムーズに事が運びました。
車いすで乗せられる介護タクシーに家まで迎えにきてもらい、JRの駅まで送ってもらいました。
切符を買うときに車いすだと言いましたら、全部の駅で駅員さんが付き添う手配をしてくれました。

義妹が車で迎えに来てくれていました。
今ではもう自力で車に乗り込むことができず、二人がかりで抱え上げて乗せなければならないのですが、駅員さんはそれも手伝ってくれました。
一旦実家に行きました。
そこに旅館の車が迎えに来てくれ、母も交えて温泉に出発しました。
母は最初の2泊を一緒に泊まってくれることになっていました。

長旅にもかかわらず、夫は元気そうでした。
旅館に着いて一息いれた後、早速お風呂に入れることにしました。


旅館のホームページで見た家族風呂の写真は、檜の縁が回っていて、立ち上がりがあるように見えたのですが、実際に行ってみると、厚さ5㎝位の檜の縁は洗い場に直に接していました。
写真通りに、浴槽の中に段があり、腰掛けられるようになっていました。


この前のてんかん発作以来、立位が不安定な夫を支えながら服を脱がせ、洗い場まで連れて行き、そこから支える手すりもない浴槽に入れるのは至難の業でした。
なんとか倒れずに浴槽に入れ、中の段に腰掛けさせたときには、疲労困憊していました。

夫はそんな私の苦労も知らず、上機嫌で、にこにこしていました。
しばらく半身浴状態で段に座っていましたが、そのうち、そろそろと脚を伸ばし始めました。
夫が自分から動くのはとても珍しいので、私は興味津々で見守っていました。
夫は上手に体を浮かせながら、頭を檜の縁に載せました。
目を閉じてとても気持ち良さそうでした。

気持ちいい?と聞くと、はっきりとうんと言いました。
あ~やっぱり連れてきてよかったなーと思いました。


問題はその後です。
もうそろそろ上がろうねと声かけしても、夫は目を閉じたまま反応しませんでした。
引っ張って持ち上げようとしても、水の中にもかかわらず夫の体は私の自由にはなりませんでした。

私は自分の見通しの甘さを後悔しました。
家の浴槽から立ち上がれなくなっては、その度に誰かに助けてもらい、入浴介助のサービスを利用し始めたのがほぼ1年前のことです。
私は立ち上がらせるのがどのくらい大変かをすっかり忘れていました。

それと、家の浴槽はお尻を底につけた状態から立ち上がらせるけど、ここのは腰掛けた状態から立ち上がらせるのだから、私にもできるだろうと思い込んでいました。
浴槽の縁を跨ぐのは未だにできるのだから、手すりがなくとも、縁に捕まらせて跨がせればいいと考えていました。


このままにしておいたら、のぼせてしまう..
私は焦りました。
夫を置き去りにするのはものすごく不安でしたが、背に腹は代えられません。
私は上がって服を着て、廊下に出て助けを求めました。

夕食の配膳をしている若い男の人がいました。
私は事情を話しました。男の人はすぐお風呂場に来てくれました。
そして浮かんでいる夫を引き上げてくれました。
一旦檜の縁に腰掛けさせ、そこから段の上に立たせました。
手を引いて誘導すると、夫は簡単に足を上げて檜の縁に乗り、そこから洗い場に降り立ちました。


男の人はこの旅館の若主人でした。
当然私たちが来ているのは知っていて、土日はお客さんが沢山いるので無理だけど、平日はお手伝いしますと言ってくれました。

滞在中、土日を除いて、ほぼ毎日、朝と夕方の二回、部屋まで迎えに来てくれました。
服を脱がせる間、洗い場でシャワーをかけている間、夫の体を支えていてくれて、その後、浴槽に入れてくれました。
他のお客さん達の食事の配膳の仕事があるので、それとかけもちで夫の面倒を見てくれました。時間を打ち合わせして、戻ってきて、夫を浴槽から引き上げてくれました。

10分後に戻れると言われれば、それに合わせて夫の入浴をコントロールしました。
7分を半身浴、3分を体を浮かせる寝浴(?)というふうに。
全身がお湯に浸かって3分位経つと、額がしっとり汗ばんでくるので、たぶん、この位がちょうどいいかと思いました。
毎回、夫は本当に気持ち良さそうでした。
連れてきてよかった..毎回私はそう思いました。


若主人がこれなかった数回は、介護用のシャワーチェアに座らせて、何度も何度も、かけ湯をしました。
お湯に浸からせてあげたいけど、それはできないことでした。


若主人がいて、快く手伝ってくれて、私は水着を持ってきていて..
どれかひとつが欠けても、夫は折角行った温泉に入ることは叶いませんでした。
どんなに幸運だったかと改めて思います。



この温泉は、450年前に発見された歴史の古い温泉です。
源泉かけ流しで、弱アルカリ性の無色透明のきれいなお湯が、こんこんと沸いています。
古い言い伝えがあり、今でも頭や目に良く効くと言われているそうです。

夫の場合は、こころなしか、反応が良くなり、いつもより私の言葉を理解してくれているように思えました。
時々、ごにょごにょと言葉を発したりもしていました。
でも、それは他の要因からかもしれず、目立って変わったわけではないので、なんとも言えません。

泊まった旅館は、築80年の古い和風の建物で、障子や手の込んだ欄間の細工が素晴らしく、趣のある旅館です。
でもその代わり、至る所に段差があり、トイレも共同で狭く、障害者には全く優しくない造りでした。

健常者にはなんでもないことでも、障害者を抱えてみると、うはーどうしよう..と思う事が多々ありました。

散歩に連れ出したくても、玄関に手すりも腰掛けもないので、靴を履かせることができません。
そのためだけに、車いすを玄関まで運んで、それに座らせ、靴を履かせました。
二人がかりならば、上体を支えてもらって、片足を上げさせ、靴を履かせることができます。
時々お掃除に来ている人たちが手伝ってくれました。
障害者に不便な分を、思いやりのある暖かな心が補ってくれていた感じでした。
いろいろな事でずいぶん助けてもらいました。



お料理のこと、お散歩で行ったところのこと、絶体絶命と思ったこと、思いがけない人との出会い、そして感謝。
いっぱい書きたいことがありますが、さすがに2週間という期間は長くて一度には書き切れません。

これからぼちぼちと、思い出しながら書き綴って行こうと思っています。


私は今、とんでもない事を計画しています。

無謀なのはわかっています。
でも、やってみたいのです。
惨憺たる結果に終わるかもしれません。


夫を温泉に連れて行きます。
歩くのも覚束なく、立っていてもバランスを崩して後ろに反っくり返ってしまう夫をです。



実家の母が、ほぼ毎月行っている温泉のおかみさんが、夫を是非湯治に連れてきて下さいと言ったそうです。

実家は遠く離れていて、最後に夫を連れて行ったのは2年半前です。
電話で夫の状況を話してはいたのですが、母はきっとピンときていなかったのでしょう。
圧迫骨折の時の入院で、すっかり別人になってしまった夫を、母は知りません。
湯治は良いから連れてこいと、いとも簡単に言っていました。

私は、とんでもない、行けるわけがないでしょと答えました。
電話を切った後、私はもやもやしていました。


実は去年の冬、夫を湯治に連れて行きたいと思って、いろいろ調べたりしていたのです。
入院の後、夫の手足は非常に冷たくなりました。
触ると氷のように冷たくなっていました。
一部赤黒く変色したりして、褥瘡になる一歩手前の感じでした。
素人考えでしたが、これは血行が悪いからこうなった、血行を良くするには湯治がいいんじゃないだろうか..と考えたわけです。

3週間の入院で、ベッドの上での排泄を余儀なくされ、すっかりおむつが必要になってしまった夫でした。
そのころは、おむつに関して試行錯誤の段階で、毎朝のようにベッドは洪水でした。
背中どころか、首のあたりまでびっしょりになっていました。
とても余所に連れて行って、泊まらせることなど、できっこない状態でした。
そんなわけで、私は湯治をあきらめてしまいました。


母が言うには、その旅館は、家族でやっている純和風の旅館で、畳部屋しかないけども、そこにベッドを持ち込んでもいいとのことでした。
家族風呂があって、自由に使えるとのことでした。
また、洗い場に介護用のシャワーチェアを持ち込んでもいいとのことでした。

それならば...なんとかなる...んじゃない..?
まぁ、連れて行けるかどうかが問題だけど...。
車いすでなら、なんとかなるのかな..?
私の心は千々に乱れました。

悩んだあげく、私は行くことに決めました。
この機会を逃したら、もう温泉に連れて行くことはできないでしょうから。


ベッドは現地の介護用品レンタルのお店で借りることにしました。
シャワーチェアは母が買ってくれるそうです。
母も高齢なので、足腰が弱くなっており、普通の温泉にある腰掛けではちょっと辛いので、そのままそこに置いてもらって、自分が行ったときに使うつもりらしいです。

既に滞在中必要と思われるものは、宅急便で発送しました。
後は、夫を車いすに乗せ、連れて行くだけです。



与論へ行ったときのような奇跡は、今ではもう起きないと思います。
それでも、柳の下の二匹目のどじょうを探してみたいと思っています。
毎日温泉に入れて、お天気がよければ、きれいな空気の中をお散歩して..。
少しでも夫にいい影響があればいいなと思っています。

それでは、行ってきます。


夫の趣味は、スキューバダイビングと、海中を撮影するビデオでした。
二人でいろんなところへ行きました。
パラオとモルディブは毎年のように行きました。
フィイピン、インドネシア、マレーシアなどの東南アジア、オーストラリア、変わったところでクリスマス島、ハワイ、遠くではラパスやグランドケイマンへも行きました。

夫が病気になってからは行けなくなりました。
ただでさえ操作を誤ると危険なことになる遊びです。
不安が先行して、とてもダイビングに行く気になれませんでした。

でも...
あの南の海..
透き通ったエメラルドグリーンの水の色..

もう一回、一緒にあの海を見たいなぁ...

毎日楽しみもなく、無為に過ごしている夫を見るにつけ、連れて行きたい気持ちは消えることがありませんでした。


そんな話を、既に介護を終わられた先輩達とおしゃべりしてるときに話しました。
そのときに、その中の一人が、こう言ってくれました。

   連れて行けるうちに連れて行きなさい。
   
   これが最後だと思って連れて行きなさい。

   そして、その最後が、何回あってもいいじゃない?



当時、夫はいろいろな事が不自由になっていました。

もう意味が通った言葉を話すことはできませんでした。
私の言うことを理解してくれるときもあり、全くわからないときもありました。

いらいらして、不穏になることが多くなっていました。
あらゆることに拒否が始まっていました。
特に着替えには苦労していました。

外を歩いていると、ふっとどこかへ行ってしまったことが何度かありました。
一人では家に戻れないので、私は青くなって探し回り、幸運だったからとしか思えない状況で見つけ出したりしていました。

まだ普通の布のパンツを履いていましたが、尿意を感じてトイレに行っても間に合わないことがでてきていました。

こういう状況だったのですが、身体能力は元のままでした。
歩くのになんの差し支えもありませんでした。
デイのアクティビティで、水中体操を取り入れているところに行っていて、そこでいつも泳がせてくれていたので、まだ泳げることはわかっていました。
    

「連れて行けるうち」、それは「今」なんだなと思いました。
もうこれが最後だと思うと、辛くてだめそうでしたが、それが何回あってもいいじゃない?という言葉に救われました。

私は困難を承知で、夫を再び南の海に連れて行くことを決めました。
幸い姉が一緒に行ってくれることになりました。
これで、私がトイレに行っているときに、いなくなってしまう心配が一つ減りました。

行く先は与論島を選びました。
海外はどう考えても無理だったし、与論は新婚旅行で行き、その後も数年通った思い出の地だったからです。



飛行機に乗せられるかどうか心配しました。
乗ってからずっと座っていられるかどうか心配しました。
トイレにちゃんと行ってくれるかどうか心配しました。
私は心配の塊でした..。

そんな心配をよそに、夫は不思議なくらい正常でした。
不穏になることもなく、普通に飛行機に乗って、普通に到着しました。

懐かしい海の色...
ああ、また帰ってきたんだと思いました。

与論島ではコテージを一軒借りました。
いつもはものすごく手こずるお風呂に入るときの脱衣、朝の着替え、全て、え?こんなに楽なの?と思うくらいスムーズでした。

朝食を終えてから、水着に着替えさせて、海に行きました。
持参したシュノーケルや足ひれをつけて、夫は活き活きと泳いでいました。
ボートに乗って沖まで行き、そこから飛び込んで泳ぎました。

時々危なっかしくなるときもありました。
泳いでいてマスクをとってしまったり、ボートの階段を上れなくなったり..
でも概ね楽しんでくれたと思います。
夫の楽しそうな様子を見て、私は幸せでした。
思い切って連れてきて、ほんとによかったと思いました。

滞在中、姉がいてくれたこともあり、私はゆとりを持って夫に接することができました。
たぶん、それがよかったのでしょう。
夫は不穏になることもなく、無事に旅行を終えることができました。



家に帰ってからも、夫は着替えを嫌がらなくなりました。
毎日お風呂に入れたいと思うけど、服を脱がせるのが頭が痛いことでした。
それが、自分で普通に脱げるようになりました。
私にとって嬉しすぎる誤算でした。

夏の間中、それは続きました。
なぜこういう変化があったのか、理由はわかりません。
わずかな期間ではありましたが、夫がほんの少し自分を取り戻してくれた奇跡の時間でした。

あの先輩の言葉..
今も感謝しています。



発病前の夫は、穏やかで優しい人でした。

診断後、半年位過ぎた頃でしょうか..ごくたまにですが、いきなりり不機嫌になり、いらいらして、自分を抑えられない風になることがでてきました。
主治医に相談して、抑肝散を処方してもらいました。

抑肝散は、3年ほど飲ませてやめました。
夫の場合はあまり効き目はなかったようです。
飲ませている間も、不機嫌になることは頻発していました。

着替えの拒否、薬を飲む事への拒否、デイへ出掛けることの拒否、あらゆることへの拒否が始まっていました。
いままで機嫌良くふざけたりして過ごしていたのに、急に雲行きが怪しくなり、てこでも動かない不機嫌の塊になりました。



初めて頭を殴られたのは、2010年4月末、お風呂に入っていたときです。
初めてのけいれん発作を起こしてまもなくのことでした。
なんの前触れもなく、今まで機嫌良くお風呂に入っていたのに、いきなりでした。
これまで一度も親にさえ殴られた経験がない私には、強烈なショックでした。
初めて夫に対して恐怖を感じました。
それからも、コロコロと変わる夫の機嫌に振り回されて、私はクタクタのボロキレのようになっていきました。


そうした状況の中、6月末に私は夫を与論島に連れて行きました。
(このことについては改めて書こうと思っています。)
その旅行から帰ってしばらくの間、優しい夫が戻ってきていました。
着替えも、スムーズにでき、時には自分で服を脱ぐことができたりしていました。


それも11月頃には終わりを告げました。
脳波の検査を受けていたときに、頭についていたコードをむしりとり、検査技師の人につめよっていきました。
拳を作り、今にも殴りかかりそうでした。
よその人に対して不機嫌さを剥き出しにしたのはこれが最初だったと思います。


元々消化器系が弱かった私は、すっかり打ちのめされていました。
市でやってくれる健康診断で、大腸癌の疑いがあると言われ、年が明けたら内視鏡の検査をすることになっていました。

そこで困ったのが、検査の時の夫をどうするかでした。
検査入院は一日で帰れる予定でしたが、それは検査してみないとわからないことでした。
もう少しの間も一人では家に置いておけない状態でした。
通っていたデイで、当日7時くらいまでは預かれるとのことでしたが、それで足りるかどうかがわかりませんでした。

その頃、私は体調がとても悪く、血便らしきものも出ていました。
がんでないにしても、なにか重大な病気があるのではないかと恐れていました。
私が入院ということになれば、もう誰も夫の世話をしてくれる人がいません。
車で30分位のところに、夫の姉がいますけど、姉も自分の家族がいるし、夫の面倒を見れる状況ではありませんでした。


私は、夫をグループホームへ入れる決心をしました。
私になにか重大な病気が見つかっても、そのまま入院できるからと思ってのことでした。
家に連れて帰れる状態になれば、連れて帰ればいいと思いました。

入居の前に、お試しで宿泊して様子を見るとのことで、夫は2泊3日の予定ででかけていきました。
次の日の早朝、グループホームから電話が入りました。
夫が明け方トイレで転倒して顔を打ったので、これから病院へ連れて行くとのこと..。
なんということでしょう..。

保険証などを取りにうちに寄った車に夫は乗せられていました。
右目の周辺が青緑色に変色し、上唇が腫れ上がっていました。
前歯が折れたのか、口を開いたときに歯が一本見えませんでした。

脳外科で検査した結果、異常は認められないけど、一ヶ月くらいしてから症状がでる場合があるので、注意するように言われました。
口の中を切っていたので、口腔内科のある歯科医に行って、縫ってもらいました。


このグループホームからは入居を断られました。
他の利用者さんに暴力をふるいそうになったのだそうです。
そんなことあるわけがない!と言えなかった私はとても..悔しくて..惨めでした。
礼儀正しくて、誰にでも親切で、優しかった夫が、もう世間には受け入れてもらえないんだという現実を突きつけられた気がしました。
痛々しく腫れ上がっている顔をなでながら、私は声を上げて泣きました。
ごめんね..ごめんね..よそに預けようとしたからこんなことになってしまった..と。


結局検査の日をどうするかというのは振り出しに戻りました。
最悪私が入院ということになったら、それはもうその時考えることにしました。
受け入れてくれるショートスティ先を見つけました。
ここは送り迎えがなかったので、連れて行かなければならず、検査の前日から預かってもらうことにしました。

内視鏡検査で、ポリープが見つかり切除しました。
念のためということで出した生検で、大腸癌が見つかりました。
幸い極く初期だったので、もう切り取ってしまった後は治療の必要はなく、後は、定期的に検診を受けるだけになりました。
胃と十二指腸に潰瘍がありましたが、それは薬で治すことになりました。

ショートステイは何事もなく、トイレの場所がわからなくて、2回失敗した他は無事に過ごせたようでした。


こうしてまた日常が帰ってきました。
状況がよくなったわけではなく、むしろどんどんと悪くなる一方でした。

トイレが間に合わないことがしょっちゅうになりました。
また.見当識障害がひどくなってきて、トイレの場所がわからなくなってきてもいました。
便器の中への排泄よりも、部屋や廊下への排泄の量が多くなっている感じでした。

汚れたパンツを脱がせようとしても、頑として脱がせまいとしていました。
無理に脱がせようとすると、目つきが変わって威嚇するようになりました。
ふーっと息を吐き、猛獣のような目つきに変わります。
そんな時は、以前殴られたことが思い出されて、恐怖に駆られながらの介護でした。


それでも私は施設に預けるのはもうとやるまいと思っていました。
穏やかなときは、昔と変わらない優しい夫でした。
何かやっていると、そばにきて、手伝ってくれようとしていました。

でもこのままの生活を続けたら、早晩私が倒れてしまいそうでした。
胃潰瘍も治りそうにありませんでした。

2月末に、お泊まりデイというものがあるのを知りました。
デイサービスに行って、そのまま泊めてくれるというサービスです。
3月から、まずはデイサービスだけ、次の週は一泊で、うまく行けばその翌週から二泊三日で預かってもらうことに決めました。


デイの初日になるその日の朝、片方の足はスリッパ、片方の足はスニーカーを履いて、リビングを歩き回っていました。
私は思わず、なんで靴で歩いてるの!!と怒鳴ってしまいました。
みるみるうちに顔がゆがみ、目の色が固く、狂気を帯びた目になって、殴りかかってきました。
顔を殴られ、逃げようとすると髪の毛を掴んで引き戻されました。
腕をねじりあげられ、スニーカーを履いた足で、何度も何度も思い切り蹴られました。
時間にして30分以上、執拗に殴られ続けました。

しばらくして少し落ち着いた頃、デイサービスが迎えにきました。
とても行ける状態ではないので、その日は断りました。
もうデイサービスに行ける段階ではないのかもと思いました。

体中が痛く、腰とさっき叩かれた腕が特に痛く手を上げるのもきつい..
暴力をふるわれるとはこういう事なのか...
今までの人生、なんと平和に過ごしてきたことか..と思いました。

怖いのは、まだこれでも多少手加減している様子が見えていたことでした。
これが全くの手加減なしになるときが来た時、骨が折れたり、目を潰されたり、回復不可能な事態になるのではないか..という恐怖におびえました。


その後、普通の状態に戻り、ご飯も普通に食べました。
食べ終わった後、急に機嫌が変わり、また殴りかかろうとしてきました。
これまでは大抵の場合、何かそれなりの原因があって怒り始めていたのですが、そのときは全く理由がありませんでした。
いよいよせん妄が始まったのか..もう精神病院にいれないとダメな時期にきてしまったのか..。

なんとか逃げて、外に出ました。 
ケアマネさんに相談したくて電話しても、留守電になるだけで繋がりませんでした。
転倒したときにに受診した脳外科でとりあえず預かってもらえないかと電話してみましたがダメでした。
家に戻るのは怖いし、途方に暮れました。
近くのの交番に行って事情を話しました。 助けてもらえないかと..。

家に帰らないで、どこか近くに泊まり、明日朝一番でお姉さんに来てもらい、主治医に相談して病院を紹介してもらえとアドバイスを受けただけでした。

夕方になって、どうしているか心配になりました。
電気を点けてこなかったので、真っ暗になってしまいます。
家に帰りたくてたまりませんでした。
様子を見て危険ならまた逃げようと思いながら家に戻りました。

夫は普通の状態に戻っていました。
出て行かない方がいいの?と聞いたら、なんで?と不思議そうな表情をしました。
もう信用はできないけど、当面大丈夫だと思い、そのまま家にいることにしました。

叩かれた腕を見てみたら、青あざになっていました。 たぶん、背中とか腰とかも同じ状態だろうと思いました。


こうして暴力におびえる日々が始まりました。

主治医の診察日、初めて車いすを使って連れて行きました。


救命病棟から退院後、椅子に座らせても頭を後ろにそらせ、すぐ眠ってしまう状態でした。
翌日になっても、立てるけど、歩けない状態が続きました。

その翌日からは、傾眠は続いているものの、足を少し運ぶことができ、両手で支えればわずかな距離は歩けるようになりました。
不安定で、すぐ腰砕けになりそうでしたが..。
通院乗降介助というサービスを頼んでいるので、家からクリニックまでは車に乗せて連れて行ってもらえます。
でもこの状態では、わずかな距離でも外を歩かせるのは無理だと思いました。


救急車を呼んだことについて何か言われるかと思いましたが、二度目の発作があったからと話したら、やむを得ないでしょうねといった感じでした。
前々からデパケンを飲ませないから発作が起こる、てんかん発作は、アルツハイマーにはつきものなんだから、それでいちいち救急車を呼んだら、ほんとに重病の人にとって迷惑になると言われていました。

デパケンを飲んでいても発作が起きる場合があるんじゃないですか?と聞くと、それはないでしょうねとのことでした。
デパケンが必要とされる血中濃度になっているか、血液検査をして調べるのも、負担になると思うしと言ったら、検査はしませんとのことでした。
飲ませて様子をみて、発作が起きたら、増量するという手段をとるらしいです。
その間、発作は起きる可能性があるわけで、なるほどそういうことなのかと思いました。

デパケンが合わないなら、別な薬を出すけど、どうします?と聞かれて、出してもらうことを了承しました。
イーケプラという新薬で、副作用は眠気以外はあまりないとのことでした。
新薬といっても、発売されたのは2010年で、海外ではそれ以前から高い評価を受けてきたらしいです。
通常使用量が1000mgなのに対し、1/4の250mgでやってみるとのことでした。

これまでは発作を起こしても、2,3時間後にはケロッと何事もなかったように回復していました。
今回は回復がはかばかしくありません。
長時間安静にして寝かせておいたのがよくなかったのか、救命病棟で受けた点滴の中の抗けいれん薬が強すぎたのか、或いは、発作のために脳のどこかを損傷してしまったのか..。
本当のところはわかりません。
いずれにしろ、けいれん発作は起こさない方が絶対いいわけで、それが副作用なしで実現するのなら飲ませてみようと思ったのです。

まだ傾眠傾向が続いていたので、実際に飲ませはじめたのは3日の夜からです。
3日には、傾眠傾向はほとんどなくなりました。
傾眠が続いているうちに飲ませはじめると、薬のせいで眠いのかどうか判断がつかないと思ったためです。

今のところ、目立った障害はなく、今日になると、まだ不安定さは残しているものの、普通に歩くことができるようになりました。




クリニックから、少し離れた薬屋さんまで、車いすを押して歩きました。
途中踏切で、前輪が線路の溝につかえてしまって動かなくなってしまいました。
少し前に通り過ぎた女の人が、駆け戻ってきて、助けてくれました。
「うちでもね、父が車いすだったんですよ」とその人が話してくれました。
困った時、他人の優しさが身に染みた日でした。









うぉぉぉぉぉーーーーーーという叫び声を上げ、夫は浴室洗い場の床に倒れ込みました。
白目を剥き、激しく全身を痙攣させ、口の中が切れたのか、血が混じった泡を吹いていました。

頭を抱えて、なんとか横向きの態勢にしました。
幸い入浴介助のヘルパーさんがいたので、支えていてもらって、タオルバスタオルを持ってきて、頭の下や、背中に押し込みました。

痙攣はまもなく止み、その後は、いびきのような大きな激しい呼吸音が続きました。
15分意識不明が続くようなら、救急車を呼びなさいと主治医に言われているので、時計を見ながら不安な時を過ごしました。

10分ほど経った頃、激しい呼吸音は落ち着き、普通の呼吸になり、手足を動かすようになりました。
目を開けず、朦朧としている様子でしたが、一応今回も大丈夫だったとほっとしました。

ヘルパーさんの助けを借りて、シャワーチェアに座らせ、しばらく様子を見ました。
コップに水を入れてきて飲ませると、飲んでくれました。
この日はデイサービスの日でした。
どうするか迷いましたが、すっかり落ち着いてきたので、デイに着いたらベッドで寝かせてもらえばいいかと思い、そのままデイに送り出しました。

数時間後、デイから電話がきました。
再びけいれん発作を起こしてしまったそうです。
二度目なので、救急車を呼ぶというので、お願いしました。
私は、保険証などを持って、病院へ駆けつけました。

夫は救命病棟の狭いベッドに寝かされて、点滴を受けていました。
顔色は悪くなく、ただ眠っているようでした。
CTと造影剤を使ったMRIで検査をしてもらいました。
CTでは、前頭葉軽度萎縮と、左優位の海馬萎縮、頭部MRIでは所見なしでした。
認知症以外の異常は認められないとのことでしたが、夜も遅いし、まだ眠った状態のままなので、今夜は救命病棟で様子を見てくれるとのことでした。

翌朝行ってみると、夫はまだ眠ったままでした。
顔が少し赤らんでむくんでいるような感じでした。

入院させるかどうか決めてくれと言われました。
入院させても、この先やれることは、脳波をとるくらいだと言われました。
以前入院させたことを後悔していた私は、連れて帰るのを選びました。
でもこの状態では帰れないので、立たせてみようということになり、起こして手を引いて立たせました。
夫はちゃんと立ってくれました。
ただ、足元が定まらず、歩くことはできませんでした。
一応立てたので、退院することができました。




初めて軽いけいれん発作を起こしたのは、2010年4月でした。
3月にどうしても抑肝散を飲まなくなってしまったので、その代わりにデパケンが処方されていました。
デパケンを飲んでも不機嫌になるのは変わらずでした。
今にして思えば、当時アリセプトを7.5mg飲ませていましたが、不穏になるのは、これが大きかったのではと思います。
けいれん発作があったと報告したら、デパケンの量を増やされました。

その頃、トイレに行っても排尿できなかったりしていたので、信頼できる内科医の先生に診てもらっていましたが、その量だと、けいれん発作を防ぐには足りないと言われました。
デパケンを飲ませ始めてから、ふらつきが多くなったり、具合悪そうな状況が増えたと感じていたので、私は飲ませるのを止めました。

当時、皮膚の湿疹が治らなくて、皮膚科からも薬がでていたし、尿を出やすくする薬も飲ませていました。
素人考えでしたが、そういった数々の薬が今回のけいれん発作を起こしたのではないかと思いました。
夫は薬を飲みたがらず、無理に飲ませようとすると、不穏になってしまっていました。
そうした戦いに疲れ、私は、アリセプトと塩酸メマンチン以外の一切の薬を中止しました。

同じ年の9月にまたひきつけを起こしました。
再びデパケンを処方されました。
錠剤は飲まないと言ったら、シロップを処方されました。
しばらく飲んではいたのですが、そのうち、どうしても飲まなくなりました。
以前よりふらつきが多くなり、具合悪そうにしてる時も増えたので、またデパケンを止めました。

次に大きな発作が起きたのは、2011年6月でした。
この頃には暴力があって、連日大小便をまき散らされ、私は地獄の中に生きていました。

その日は明け方、いつもの異様な水音で目を覚ましました。
夫は洗面所で放尿していました。
手前の廊下には水たまりがありました。
私は、いつものように掃除して、蒸気クリーナーをかけていました。
と、そのとき、また洗面所で放尿を始めたのです。
私は、こっちこっちと夫の体を押しながら、便器の前に誘導しました。

突然夫の顔がゆがみはじめ、殴りかかってきました。
顔を殴られ、わたしはふっとびました。
私は寝室に逃げました。
更に追いかけてきて殴られました。
ベッドまで追い詰められ、もう逃げ場はありませんでした。
手に持っていたクリーナーで体をかばっていたら、むしりとり、柄をボキッと折り、更に殴ろうとして、私を掴みました。

あぁもうダメだな..と思った瞬間、夫はうわーーーーーーっという異様な叫び声を上げ、私を放し、ベッドとベッドの間の狭い隙間に倒れ込みました。
同時にいびきをかきはじめました。
びっくりして名前を呼びながら、手を触ってみたら、冷たくて、痙攣していました。
脳溢血かもと思って、救急車を呼びました。救急車を呼んだのはこれが初めてのことでした。

CTをとったり血液検査をしてもらって、異常は認められないとのことで、そのまま家に戻りました。
すっかり夜が明けていました。

2011年10月、便器に座っているときにまた発作が起きました。
この時は、便器の前の狭い隙間に落ち込んでしまって、体を変にひねってしまって、腰椎の圧迫骨折をしてしまいました。
3週間入院させてしまい、結果、認知症は一気に進行してしまいました。
その後、12月、翌年1月、2月、3月と毎月けいれん発作が起きました。
その後は、間が空いて、5月、9月に起きました。
今年もまた、1月2月3月と毎月けいれんを起こしていました。




主治医からは、デパケンを飲ませるように再三言われています。
確かにけいれん発作のリスクは少なくなると思います。
その代わり、足元がふらつき、いつも具合悪そうな状態になってしまいます。

病気を治す薬なら飲ませますが、これは血中濃度をある水準に保って、それで発作が起きるのを防ぐ薬です。
この先、認知症そのものが治るあてもなく、夫に残された時間はとても少ないと思うにつけ、多少でもわけがわかるうちは、具合が悪くなる薬を飲ませないで、気分よく毎日を過ごしてもらいたいと思い、あえて、飲ませないできました。
いつ起こるかわからない発作を防ぐために、これから死ぬまで、日常がスポイルされるのは可哀想すぎると思ったからです。

でもどうしたらいいんでしょうね...。
今回は回復が遅く、まだ傾眠状態が続いています。
明日、主治医の診察日なので、相談してこようと思っています。




診断から3年ほど経ったある朝のこと

何気なく二階に上がってリビングに行った私は、その場で凍り付きました。
目に見えるものが信じられませんでした。
床の上に、広範囲に、黒い物体が散らばっていました。
あるところでは山盛りに盛り上がっていて、それはそれは大量の便でした。

我に返って、とにかくこれを片付けなきゃと夢中で掃除しました。
紙にくるんで、何度も何度もトイレに運んで捨てました。
人の便に触れたのは(もちろん自分のもですが..)これが初めてでした。
途中で水を流すのも気がつかなくて、あらかた運び終わってから水を流したらトイレが詰まってしまいました。

家には詰まりを直す道具がなかったので、近くの店まで買いに行きました。
帰ってみると、夫がレバーを操作してまた水を流してしまっていました。
汚水が溢れて、床が水浸しになっていました。

夫は、これを引き起こした原因が自分にあるなどとは全く思わない風で、ごく普通な態度でした。
この頃はもう、言葉がほとんど話せず、会話が成立しなくなっていましたので、私もなんでこういうことをしたかとかは訪ねませんでした。

大便をした後、紙で拭くのを忘れたり、水を流すのを忘れたりが始まったのもこの頃からだったと思います。
まだトイレ介助は必要ではなく、私は手出しをしないで、汚したら掃除するというのを続けていました。

その後、玄関への放尿が始まりました。
玄関は水を流して掃除できるからまだいいけど、困るのが、寝室での放尿でした..。
ベッドの下まで入り込んでいて、ベッドが重いので動かすことができませんでした。
ベッドの布団の上への放尿もありました。
私の布団の上に放尿があって、知らずに私はそこに腰掛けてしまったこともあります。

トイレの手前の廊下での放尿が頻繁になりました。
木の床に水が落ちる音...その音を聞くと気が狂いそうになりました。
一旦掃除してもまた汚し、ひどいときには一晩に3回も掃除を繰り返しました。

トイレクリーナーで拭き取って、その後、蒸気クリーナーをかけました。
熱い蒸気がかかるのを見ていると、少しさっぱりした気分になれました。
そうでもしないと、私の心の平衡を保てないような気がしていました。
夫が病気になったように、いずれ私も壊れていく..そんな気がしていました。

アルツハイマーと診断されても、しばらくの間は目に見えた変化もなく毎日が過ぎていきました。

ふと気がつくと、できなくなってしまったことが増えているといった感じでした。

半年位経った頃怒りっぽくなったと主治医に話したところ、抑肝散を処方されました。
一日3回空腹時に飲ませるということで、
抑肝散→食事→Namenda→抑肝散→食事→アリセプト→Namenda→抑肝散→食事
と繰り返していました。
忘れないようにするのが結構大変でした。

当時、情報を求めて本を読みあさったり、ネットを調べ回ったりしていました。
算数のドリルがいいらしいとわかれば、買ってきてやってもらいました。
字を忘れてしまわないように書き取りの練習もしてもらいました。

夫は趣味らしい趣味はなく、唯一スキューバダイビングだけが好きでした。
お正月休み、ゴールデンウィーク、夏休みと、年3回だけですが、二人でパラオやモルディブに行って潜っていました。

もっと日常的な趣味があったら、病気の進み方もまた違ってきていたのかもしれません。
元から興味がないことを、病気になったからといって始められるものではありませんでした。
毎日が、なにもせず、ただだらだらと過ぎていきました。


1年経った頃、照明のスイッチがわからなくなりました。
暗い中をごそごそしていたり、消し方がわからないのか、点けたまま眠ったりしていました。

簡単な言葉の意味も理解できなくなってきました。
これ冷蔵庫にしまっておいてと言っても、冷蔵庫が何なのか、時々わからなくなっていました。
着ていて脱いだ物は洗面所のかごに入れておいてねと、何度言ってもダメになりました。

ありったけの下着をタンスから出して、洗濯物と一緒にまぜてしまっていたこともありました。
全部洗濯した翌日なのに、もうパジャマが3着分、出してあるとか..。

そうしたことが、日に何度もあり、何回も繰り返す間に、いけないとは思っても、つい私の口調もきつくなってしまいました。
そしてその後の自己嫌悪...。
これから先どうなってしまうんだろうと、暗澹たる気持ちでした。
病気なのだからとわかってはいても、対応する気持ちを切り替えられずにいる私でした。

一方、以前と変わらない様子の時もありました。
脳の中で、まだ活動している部分と、使えなくなってしまった部分があるような感じでした。


3年経った頃、まだ、普段は普通に歩いて、一緒に買い物に行って重たい物を持ってくれたりしていました。

でも、急に、調子が悪くなって、ちゃんと歩けないというか、立っているのも辛そうな状態になったりしていました。
その様子を見ていると、認めたくはないけど、主治医が言うように、ああ、いずれは歩けなくなってしまうんだな..と悲しくなりました。


着替えもできなくなり、外出して、そのままの格好で、寝てしまうこともしばしばでした。

お風呂自体はいやがらないのですが、服を脱ぐのをものすごくいやがるようになりました。
なんとかお風呂にいれて、パジャマを着せて、今日はこれでよかったとほっとしてると 夜中に起き出して、いつのまにか、Gパンを履いてしまっていました。
暑いだろうに、何枚も重ね着して、ベッドに入ってる姿を見ると、なさけなくて、涙がでてきました。

期待していたtramiprosateは発売中止になりました。
新薬の開発状況も、はかばかしくなさそうで、主治医からは、間に合わないでしょうねとはっきり言われました。
先生から渡されるアリセプトと、塩酸メマンチンを一応続けてはいましたが、もうおそらく効いてはいないような感じでした。
その頃には、薬を飲む事がわからなくなってきて、飲ませるのも苦労しました。
いっそのことやめてしまおうかしらとも思いましたが、それも踏み切れずにただ飲ませ続けていました。

こうして、ゆるやかに、でも確実に症状は進んでいきました。