老子道徳経 第40章 猫訳

理への道は進歩ではなく退歩を用いる。

ゴロゴロしている猫を見なさい。

この世界はあなたの中にあり、あなたは猫の中にあるのだ。


反る者は道の動なり。

弱き者は道の用なり。

天下万物は有より生じ、有は無より生ず。






カイロプラクティックと医学とでは、土台とする原理が全く異なる。

なのに、なぜヒポクラテスという共通の祖先を持つ兄弟であるかのように語るのか。

カイロプラクターは医療従事者とは完全に出自が異なる。

このイネイト・インテリジェンスという自然の摂理による恩恵を、これから先も失わないために、

カイロプラクターはカイロプラクティックに専念した方が良い。

B.J.パーマー



老子道徳経 第30章 猫訳


猫が頑張ることはない。

無理をして良いことはない。

努力の先に答えはない。

為したとしても、終わればやめる。

猫レベルの達人が頑張ることはない。

為したとしても、威張ることはなくドヤ顔もしない。

やむを得ず為したにすぎない。

為すけど頑張りはしない。

無理をすれば無理になる。

道理が無い。

無理はすぐに詰む。


道をもって人主をたすくる者は、兵をもって天下に強いず。

その事は還るを好む。 

師の処る所は、荊棘ここに生じ、大軍の後は、必ず凶年あり。

善くする者は果たしてやむ。

もって強いるを取らず。

果たして矜ることなく、果たして伐ることなく、果たして驕ることなく、果たして已むを得ずとす。

これを果たして強いるなしという。

物は壮なればすなわち老ゆ。

これを不道という。

不道は早く已む。



医学の轍

BJパーマー


患者は医者の指示に従う。

カイロプラクターの中にも、苦しむ患者の要求に応え、あれこれとアドバイスをする者がいる。

患者を囲う一番簡単な方法だからだ。

しかし真のカイロプラクターは、医学の轍(わだち)をならす鍬(くわ)となる。

外付けの知識(エデュケイティド)は、内なる摂理(イネイト)に及ばぬことを理解しているからだ。



老子道徳経 第29章 猫訳

 

猫を飼おうとすれば失敗に終わる。

猫は神ゆえに、飼えない。

飼おうとすれば失敗し、逃げられる。

猫は時に去り、従い、素早く、のんびりで、獰猛で、か弱く、暮らし、旅立つ。

猫レベルの達人もひっそりとしている。

 

まさに天下を取らんと欲してこれをなすは、われその得ざるを見るのみ。

天下は神器、なすべからず、とるべからず。

なす者はこれを敗り、とる者はこれを失う。

およそ物、あるいは行きあるいはしたがい、或いは歔しあるいは吹き、あるいは強くあるいはよわく、あるいは培いあるいはこぼつ。

ここをもって聖人は、甚を去り、奢を去り、泰を去る。

 

人々は思考の便秘と言葉の下痢に苦しんでいる。

鷹の目の視力を持ち、ハマグリの視界を見ている。

 

by B.J.パーマー

image

老子道徳経 第28章 猫訳


陰を知り陽を知れば猫レベルの達人だ。

猫レベルの達人は四六時中、猫のようだ。

虚を知り実を知れば世の手本となる。

世の手本ともなれば、陰陽を超えている。

白を知り黒を知れば、世の中を包む。

世を包めば、猫すら超えて子猫となる。

子猫に勝るものなし。

達人の心は子猫のようだ。

ここに調和がある。


その雄を知りて、その雌を守れば、天下の谿となる。

天下の谿となれば、常の徳は離れず、嬰児に復帰す。

その白を知りて、その黒を守れば、天下の式となる。

天下の式となれば、常の徳はたがわず、無極に復帰す。

その栄を知りて、その辱を守れば、天下の谷となる。

天下の谷となれば、常の徳はすなわち足りて、樸に復帰す。

樸散ずればすなわち器となる。

聖人はこれを用いて、すなわち官の長となす。

ゆえに大制は割かず。



イネイトは、人種や国籍、種の違いを問わず、

すべての生き物に宿っている。

これによりカイロプラクティックは、

普遍的なサービスとなり得る。

いつの時代も、どんな場所でも、

サブラクセーションはサブラクセーションであり、

アジャストメントはアジャストメントなのだ。

フランス式サブラクセーションもなければ、

ロシア式アジャストメントもない。

BJパーマー



 

老子道徳経 第27章 猫訳

 

猫レベルの達人は

歩む道に跡を残さない。

真理を語り戯言は言わない。

損得勘定で生きない。

瞑想に耽り惑わされない。

感覚に惑わされない。

これにより達人は人を救う。

世界を救う。

真理に基づくからだ。

達人は凡人の手本であり、凡人は達人になれる。

手本を手本とせず自分を信じない者は、賢くとも道に迷う。

ここ要チェックや。

 

善く行くものは轍迹なし。

善く言うものは瑕謫なし。

善く数うるものは籌索を用いず。

善く閉ずるものは関楗なくして、しかも開くべからず。

善く結ぶものは縄約なくして、しかも解くべからず。

ここをもって聖人は、常に善く人を救う、ゆえに人を棄つることなし。

常に善く物を救う、ゆえに物を棄つることなし。

これを明に襲るという。

ゆえに善人は不善人の師、不善人は善人の資なり。

その師を貴ばず、その資を愛せざれば、智ありと雖も大いに迷う。

これ要妙という。

 

病気を敵とみなし、

症状を抑えつける方法を、

生涯をかけ研究しようとする者は、カイロプラクティックを学ぶべきではない。

 

攻撃的な医療従事者(medical  warrior)を、穏やかなカイロプラクター(peaceful Chiropractor)に育て上げることは至難の業だ。

 

D.D.パーマー

カイロプラクターズアジャスターp.117

『ザ・カイロプラクター』D.D.パーマー著 福本要介訳