DDはどのようにしてカイロプラクティックを知ったのでしょうか。 

「アジャスター」と「カイロプラクター」を注意深く読むと、カイロプラクティックは霊界から授けられたものであることがわかります。 

DDはなぜ、カイロプラクティックの発見をこのような控えめな形で記したのでしょうか。 

霊性や内なるものを軽んじる科学界を怒らせないように気を遣っていたのでしょうか。 

今となっては推測することしかできません。 

私たちは、事実に基づいたカイロプラクティック哲学を構築したいと考えています。 

カイロプラクティック哲学は、自明の理、すなわち否定の余地のない真理から始めなければなりません。 

もちろん、DDパーマーはカイロプラクティックの基本原理は「トーン」にあると言い、

BJパーマーは「イネイト・インテリジェンス」を基本原理としてあげました。 

イネイトこそがカイロプラクティックの基本原理なのか、

それともトーンやイネイトよりももっと根源的なものがあるのでしょうか。 

私たちは、そのような自明の理を確立したいと考えています。 

ご存知のように、自明の理には証明が必要ありません。 

それは明らかゆえに明らかなのです。 

このような真理は、カイロプラクティックだけでなく、

考え方の基礎を求めるすべての人にとっての真理になるはずです。 

現在の考え方と未来の考え方は同じとは限りません。

今日の考え方は明日の考えに到達するための足がかりであり、

その思考はいつの日か究極の真理となるのです。 

カイロプラクティックは病人を助けるためだけのものではなく、

人類が恐竜のように絶滅するのをくい止めるためのものだと私は確信しています。 

パスクワーリ・セラソリ

 

老子道徳経 第21章 猫訳 

徳とは真理の現れのことだ。 

意識の中に物質は現れ、

意識の中に世界は存在し、

意識の底に波があり、

波は真理から生ずる。 

真理は永遠であり世界の根源。 

これが猫が根源を知る所以だ。 

 

孔徳の容、ただ道にこれ従う。 

道の物たる、これ恍これ惚。 

恍たり惚たり、その中に物有り。 

恍たり惚たり、その中に像有り。 

窈たり冥たり、その中に精有り。 

その精甚だ真、その中に信有り。 

今より古に及ぶまでその名去らず。

もって衆甫を閲ぶ。 

これ何をもって衆甫の然るを知るや、これをもってなり。

 

カイロプラクティックの精神 

カイロプラクターの法制化が進むにつれ、カイロプラクティックは霊的なものから物質的なものになった。

彼らは他の職業と同レベルになりたがったのだ。

ここに分裂があった。

一方は構造を扱うカイロプラクター、もう一方は霊性を扱うカイロプラクターだ。

構造派は科学にしか興味がなく、科学からすべての答えが引き出せると思っている。

イネイト派は、カイロプラクティックの霊性は解明済みだと知っている。 

私たちはルーツを忘れてはならない。

D.D.パーマーは、著書『アジャスター』と『カイロプラクター』の中で、カイロプラクティックを霊界から授かったと書いている。 

「イネイト」「サブラクセイション」「インターフィアレンス」「トランジション」という言葉を決して手放してはならない。 

カイロプラクティックを通して、地上を天国にするのだ。 

スピリットの世界には過去も未来もなく、あるのは「今」だけ。 

将来のためではなく、「今」のために。

 私の名前にはドクターやD.C.を付けずに、カイロプラクターという言葉を使ってください。

スピリットの世界に医師はいませんから。

パスクアーリ・セラソリ

 

老子道徳経 第71章 猫訳

始めから知っている事をこれから知ることはない。

知ることのない事を知ろうとするのはどーかしてる。 

どーかしてる事をどーかしてるとした時にどーにかなる。 

だから猫レベルの達人は瞑想しない。 

無為を為さずして無為とする。 

 

知りて知らずとするは上、知らずして知るとするは病なり。 

それただ病を病とす、ここをもって病あらず。 

聖人は病あらず、その病を病とするをもって病あらず。

 

カイロプラクターたちへのアドバイスは 「自分のしていることを信じること」だ。 

この職業、つまりカイロプラクティックは、唯一無二のものだと感じてもらわなければならない。 

もちろん教育も必要だが、その独特な感覚、信念を持つ勇気は、自分自身を通してしか得られないものだから。 

カイロプラクターはカイロプラクティックの領分を守らねばならない。 

私が天の祝福を受けたのは、カイロプラクティックが私を通して顕現することに専念したからだ。 

カイロプラクティックを表現する以外に私にすべき事は何もない。 

世間のカイロプラクターは多くの分野に手を出し過ぎなのだと思う。

一つの事に熟達すべきところ、広く浅く学ぶ者が多い。 

自分の患者に別の専門家が必要だと判断したなら、私は迷わずそう伝える。

なぜならカイロプラクティックは、生涯を賭けても学びきることはできないものだからだ。 

97歳になったがまだまだカイロプラクティックの勉強中だよ。

いくつになろうが関係ない。

年をくったつもりはないよ。成熟したのさ。

 

パスクワーリ・セラソリ

 

老子道徳経 第5章 猫訳

 

自然界に善悪はない。 

全ては生まれ消えゆく。 

猫レベルの達人に道徳はない。 

執着がなく全ては過ぎゆく。 

この世は大尊の扇風機のようだ。 

無いけれど有りよく働く。 

 

不可思議ゆえ思議は不可なり。 

天地は仁ならず、万物をもって芻狗となす。

聖人は仁ならず、百姓をもって芻狗となす。

天と地の間は、それなお槖籥のごときか。

虚しくてつきず、動きていよいよ出ず。

多言はしばしば窮す。

中を守るに如かず。

 

老子道徳経 第41章 猫訳

分別のある者が真理を聞くとクソ真面目に取り組む。 

修行者が真理を聞くと色即是空などと言う。 

無分別の者が真理を聞くと笑いが止まらない。 

笑いが込み上げてこないようなら真理にはほど遠い。 

古来聖句はあべこべのナゾナゾのように聞こえる。 

 

上士は道を聞きては、勤めてこれを行なう。 

中士は道を聞きては、存るがごとく亡きが若し。 

下士は道を聞きては、大いにこれを笑う。 

笑わざればもって道と為すに足らず。 

故に建言にこれあり。 

明道は昧きが若く、〜〜

 

老子道徳経 第70章 猫訳

猫の教えはシンプルで簡単なのに、誰も理解せず実践することもない。 

その一挙一動に答えがある。 

でもそれは頭で分かる事ではないんだ。 

だから皆自分自身が何者か分からないんだろう。 

汝自身を知る者は稀でそれはとても大切な事なんだ。 

まあ分かったところで幸せになる以外なにも変わらないんだけどね。 

 

わが言は甚だ知り易く、甚だ行い易きも、天下能く知るもの莫く、能く行うもの莫し。 

言に宗有り、事に君あり。 

それ唯だ知ること無し、ここをもって我れを知らず。 

我れを知る者は希なるは、則ち我れ貴し。 

ここをもって聖人は、褐を被て玉を懐く。