深呼吸を習慣に。笑う。満たされていることにフォーカスする。思考と意識の違いを知りましょう。
転載元:もっと あの世に聞いた、この世の仕組み
https://blog.goo.ne.jp/namagusabose/e/f79a8ae71da586c91d1a7a59f4a94cad
(ここから)
「ダルマとカルマ.3」
「カルマのプログラムの影響を受けないようにするには」という具体的なお話を進めてまいりますが、結論はこれまでお話してきた通りです。
実は、ビックリするぐらい単純な話で。
単純すぎるので、逆になかなか信じてもらえません(笑)
一つ。
深呼吸を習慣にしましょう。(「吐ききること」と「安定した深い呼吸」がポイント)
二つ。
笑いましょう。(割り箸メソッド or 幸せマントラ「ウイスキー」)
三つ。
満たされていないことではなく、満たされていることにフォーカスを向けてみましょう。(幸せな状況があるから幸せになるのではなく、幸せであるからこそ幸せな状況が訪れる)
四つ。
「思考」と「意識」の違いを知りましょう。
まずは、この四つだけ。
で、コレを踏まえて、さらに話を進めてみましょう。
以前から何度かお話している通り、「自我」というのは、「思考」とほぼイコールです。
で、「思考」から離れることによって、「ダルマ」の流れを掴む感覚を養うことができます。
とはいえ、「自我」や「思考」の存在が悪なのではありません。
前々回お話したとおり、この存在は、宇宙が「自由」「遊び」を経験するために必要なものだからです。
しかしながら、この「自由」と「遊び」は、神が実現できなかった「最善以外」を拡大することで生まれた要素。
その仕組みに気づけなければ、単純に「苦」を生きる事になります。
「思考」することが悪なのではなく、「思考」に主導権を握られている状態(自覚のないまま、固定化された思考・認識反応が自動的に発動している状態)が、苦を招くというだけの話です。
その自動反応に飲み込まれることなく、自覚をもって「思考」を選択できるのであれば、「自我」は自由と遊びを経験する上で、とてもすぐれたツールになります。
というか、神(高次のアナタ)に「決して触れてはならぬ」と言われていたファイルを開くまでは、自我(カルマプログラム)はそのようなカタチで健全に機能していました。
昨今「アセンション」と呼ばれている流れは、「意識の進化」というよりは、この本来のあるべきバランスに戻ろうとしている動きです。
このことは、後日また改めて話すとして、ダルマとカルマの話に戻りましょう。
端的に話すと語弊もあるかとは思いますが、あえてシンプルに話すと、人間は長らく、カルマプログラムを利用するのではなく、完全にカルマプログラムに飲み込まれて(逆に利用されるカタチとなって)、ダルマの流れを完全に見失っている状態でした。
先人たちが、「汝自身を知れ」という言葉や「瞑想」などを通じて示していたモノは、カルマプログラムの発動を抑え、ダルマの流れを再確認することを促したものです。
「カルマの精算」「カルマの浄化」などといった言葉によって、「カルマは消して無くせるモノ」というイメージがありますが、実はそうではありません。
カルマは消えてなくなりはしません。これは、そういう性質のものではないんです。
とても話し方が難しいのですが、少し、チャレンジしてみます。
まずは、「自我(他と分離して存在している私がいる)」という感覚自体が幻想で、本当は「個人(個的魂)」というものが存在していないため、「個人的なカルマ」というものも、本当は存在していません。
言ってみれば、カルマは生命エネルギー同様、全存在が「共有しているプログラム」です。
だから、「個人的に抱えているカルマの量」というものはありません。
「あの人は多くのカルマを抱えている」「あの人はほとんどカルマがない」というようなことではないんです。
そうではなく、現象界のレベルにおいての「個人」という、この感覚において、「どれだけカルマプログラムの影響を受けているか」という話なんです。
だから、先のセリフを言い換えるなら、
「あの人はカルマプログラムの影響をとても受けている」「あの人はほとんど影響を受けない」という感じです。
でもって、カルマは、あくまで「プログラム」。
存在しているようで、実在はしません。
アナタのパソコンや携帯電話には、インターネットを楽しむためのブラウザー(プログラム)がありますが、そのアプリケーションプログラムを発動しなければ、このブログも閲覧することはできません。
カルマもコレと同じです。
プログラムとしては存在していても、それを起動・発動・運用しなければ、ないも同然です。
「影響を受けるか否か」以前に、プログラム自体を走らせなければいいんです。
で、その「カルマプログラムが発動していない状態」がいわゆる『瞑想状態』です。
「何か」を「しよう」としたとき、プログラムが動き出します。
「何か」がアプリケーションで、「しよう」がダブルクリックです。
だから「瞑想をしよう」とすると、自分の中にある観念上の「きっとこれが瞑想だアプリ」が起動してしまいます。
では、このジレンマを脱し、瞑想状態(カルマプログラムが動いていない状態)に入るには。
それが冒頭にお話した「思考と意識の違いを知る」ということに繋がります。
これも、説明の仕方が難しいので、とりあえずポイントを箇条書きにしてみます。
どうか、ニュアンスを掴んでみてください。
1.「思考」はカルマ寄り、「意識」はダルマ寄りのポジションにあります。
2.「思考」は、精神世界系の書籍では、「マインド」という言葉で書かれているものです。
3.とにかく「思考」は、常時僕たちの頭の中にある声、考え(言葉や計算の数々)です。
4.頭の中から言葉が消えれば、そのまま「マインド」が無くなります。
5.「意識」は、いうなれば僕たちの「存在感」のことです。思考や五感が閉ざされたとしても残るであろう、「(私が)ある」という感覚。その一番純粋な存在感のことです。
6.普段の僕たちは、「思考」と、「意識(存在感)」のポジションが結びついています。
7.「思考」を止めることに注意をむけるよりも、「意識(存在感)」のポジションをスライドして、「思考」と「意識」の結びつきを解いてあげる方が、瞑想の感覚を掴みやすいです。
では、どうやって「意識」のポジションをスライドするのか。
その一つが『感じる』というものです。
以前からお話しているように、僕たちの脳は、感じることと考えることを同時にすることができません。
つまり、「感じる」ということによって、自然と「考えられない(マインドが働かない)」という状態になるんです。
で、阿部さんのブログなどでも、度々紹介されますよね。
「耳をすます」というのがその一つです。
「感じる」といっても、色々ありますが、瞑想(いまに帰る)という感覚を求めるのであれば、聴覚をオススメします。
これは、脳波と関連するお話なのですが、視覚(光)や触覚(刺激)などの情報は、ベータ波(緊張)と結びつきやすく、聴覚はシータ波(リラックス)と連動しやすい傾向があるそうです。
もちろん、音の質にもよると思いますが。(でも、大音量のカラオケボックスでグッスリってこともあるからね)
で、耳をすますときのポイントは「聞くこと」ではなく「すますこと」にあります。
「聞く」というのは「これは何の音」「好きな音」「うるさい」など「情報として捉えようとする」ということになりがちです。
だから耳はすましても、聞かないでください。
ムーディ勝山の如く、右から来たものを左へ受け流してください。
そして、もう一つは「呼吸」です。
普段無意識になっている「呼吸」に意識を向け、呼吸を感じてみてください。
呼吸はいつもの感じでかまいません。数える必要もありません。ただ、感じていてください。
そのことによって、自然と思考と離れているときの感覚を養うことができます。
(ここまで)
ありがとうございます
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