あるいは最高のプロデューサーではなかったか? - 追悼・手塚治東映社長 - | 脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

テレビアニメ、ドラマ、映画と何でも書くシナリオライターです。
24年7月テレビ東京系で放送開始の「FAIRYTAIL」新シーズンに脚本で参加しています。
みんな観てねー。

 

 訃報はいつも突然やってくる事が多い。

 ついさっき、現東映社長の手塚治さんが亡くなられたとのニュースを知った。

 享年62歳。私より二つ年上なだけである。

 手塚さんは「スケバン刑事」の生みの親であると同時に、2003年当時、フジテレビがTV時代劇の起死回生を賭けて立ち上げた「大奥」の、東映サイドのプロデューサーだった。

 

 私はフジテレビからの依頼でこの作品に参加し、メインライター浅野妙子さんの壮絶な「女の業」が炸裂する脚本の合間合間に、四苦八苦しながら何話か書いた。

 その、苦戦する私をいつも静かに励ましてくれたのが手塚プロデューサーだった。

 

 当時、私も手塚さんも共に40代前半。

 この数年前から、かつてテレビで隆盛を誇ったTV時代劇は衰退の一途をたどっていて、NHKを除く民放各社はどんどん撤退していた(今ではほぼNHKのみが時代劇を作り続けているが、大河はともかく、他の時代劇は言葉は悪いが細々と続いている状態といっていい)。

 中村吉右衛門(故人)主演の「鬼平犯科帳」をヒットさせ、かろうじてTV時代劇の牙城を守っていたフジテレビも、2000年代に入るとさすがに手詰まり状態になり苦慮していた。そこには無論、「TV時代劇の火を消してしまいたくない」という熱い想いもあったようだが、それ以上に、このままこのジャンルが完全に途絶えてしまったら、京都の太秦やその他の時代劇を撮る撮影所の人々はどうなってしまうのか。この頃既に減ってしまった時代劇に変わって現代物や正月時代劇スペシャル等を受注してしのいではいたが、いかにも状況は苦しかった。せっかく時代劇用のオープンセットや大道具、小道具、衣装、かつら、何よりそれらを駆使するプロの「時代劇スタッフ」を擁していながら時代劇が作れないでは、宝の持ち腐れになってしまうからだ。当然、彼らの生活に関わる問題だってある。

 ちなみに、最近は劇場映画に限っては以前に比べて時代劇の本数が少しずつ増えてきている気はするのだが、それでも事TV時代劇となると状況は相変わらずだし、まして2003年当時は劇場映画の時代劇すら例外的な三品を除けばほとんどなく、正に「風前の灯火」状態だったのだ。

 フジテレビ、東映はこの「崖っぷちに立たされているTV時代劇」を何とか復活、再び軌道に乗せるべく起死回生の企画を立ち上げた。

 それが、私もちょこっと脚本で参加した、一番最初の菅野美穂主演の「大奥」だった。

 

 私はこの作品の最初の打ち合わせの時に初めて手塚プロデューサーにお会いしたのだが、名刺交換をした時の、彼の静かで穏やか、かつにこやかな第一声は今でも覚えている。

「東映の手塚治(おさむ)と申します。漫画家の手塚先生とは全然関係ありません」

 以後、フジのプロデューサーや同作品の監督、メインライターの浅野さんとともに私も脚本会議に出るようになり、無論いつも手塚さんもいらした。

 多少脱線するようだが、フジが「TV時代劇の復活」に挑むに当たり「大奥」という題材を選んだのには理由がある。

 それまで長年に渡り、時代劇といえば当然いわゆるチャンバラが基本だった訳だが、時代の趨勢とともにそうしたヒーロー時代劇は数字を取れなくなり、「鬼平犯科帳」にしても多少の捕り物シーンはあるものの基本は江戸情緒と義理人情を重視していた。

 つまり、それまでの作劇法が通用しなくなったのとTV時代劇の衰退は連動していて、時代がそれを必要としなくなったという面は少なからずあった。

 それでもなお復活を目論む限りは、何としても強烈なインパクトのある作品を打ち出す、しかもチャンバラに頼らない全くの別物で勝負する、故に選ばれたのが「大奥」だった。

 大奥には多くの人々がいて、嫉妬、出世に絡む謀略、派閥争いと、現代に通じる要素が多く、しかもそのいちいちが劇的である。しかも衣装、セットの美しさ、きらびやかさ、女優さん方の美しさで女性の視聴者をもTV時代劇にうまく引き込めるかも知れない。

 確かに、本気で復活を狙うならいい企画だな、と当時の私も思っていた。

 

 が……。

 メインライターの浅野さんはスラスラと、次々に稿を仕上げていくのに対して、私はいつも四苦八苦していた。以下は性差別でも何でもなくごく自然な事象だと思うのだが、女性通しの嫉妬や権力闘争を描く時、女性である浅野さんは感覚的に理解ができるので何の悩みもなく書き進められるが、男の私はそうはいかない。浅野さんが仕上げてくる脚本を読んでは「ははー、なるほど」と思いながら必死にそのテイストに追いつこうと、いつもの自分の脚本の何倍もドロドロの人間模様を書いて会議に臨むのだが、その度に、

「十川さん、これじゃまだまだドロドロが足りず、インパクトに欠ける」

 と言われ続けていた。

「え、これでもまだ足りない?」

「ええ。もっともっとやらないと」

 フジのプロデューサーと何度もこの同じ会話をした記憶がある。

 そんな時、手塚さんはいつも静かに私たちのやり取りを聞いていて、いいタイミングで「こうしたらどうでしょう?」と、上手い具合に助け船を出してくれた。たいていの場合、その一言で私がつっかかってしまっているシーンの問題が解決し、先に進む事ができた。すると手塚さんは何も言わずにただ「ほらね」という意味のにこやかな笑みを浮かべる、そんな方だった。

 あの温厚な笑みには何度救われたかわからない。

 

 それでいて、彼は制作現場の現状把握や会社上層部との折衝もすらすらとこなし、まるで疲れた様子など見せず、いつも穏やかな中にもどこか「超然とした」風情を併せ持っていた。そして、我々スタッフが時に方向性を誤りそうになりブレ始めた時には必ず、「いえ、そうではなく、これは『大奥』ですから」と言い、つまりその根幹部分を忘れてくれるなというメッセージを、あくまで水をスポンジに吸収させるように、自然に皆に流し込んだ。

 そういう、怒らない、反論しない、スタッフを時に褒め時に諭す(怒らずに柔らかく諭すのである)、しかし作品の軌道は絶対に見失わないプロデューサーが手塚さんだった。

 これは、タイトルに書いたように、最高のプロデューサーなのではないかと思っている。

 スタッフを威圧したり怒ったりするのではなく、あくまでにこやかに、しかし私も含めたスタッフがすべき事をいつの間にかきっちりやらせてしまう力、いつも皆とフラットな位置にいて、「さあ、一緒にがんばりましょう」と物静かな空気を醸し出す天性の能力。

 あれには脱帽した。

 スタッフが仕事をしやすいように、そして力の全てを出せるようにお膳立てをし環境を整えてくれるその卓越した能力は、ある意味プロデューサーの鏡だった、と今でも思っている。

 

 メインライターの浅野妙子さんとともに、撮影中の京都の太秦撮影所に陣中見舞いに行った時も、やる事はないし身の置き所がなくてキョロキョロしている私たちの所に手塚さんがスッと現われ、

「わざわざこっち(京都太秦)まで来ていただいて……とにかくあれをご覧ください」

 と言ってセットに連れていってくれた。

 そこには、殿が大奥に渡る時に通るいわゆる「渡り廊下」の豪華かつかなり大きなセットが組まれていて、私たちが仰天して眺めていると、

「どうです?良いでしょう」

 と、彼はいつものにこやかな笑みとともに言った。そんな時、目尻に少年のようなキラキラした何かが垣間見えるのが手塚さんの魅力であったとも思う。その後は、たまたま撮影合間の休憩中だった菅野美穂さんを、まるでエスコートするかのように連れてきてくださり、私たちに引き合わせてくれたりもした。

 また、浅野ゆう子さんを筆頭にきら星の如く居並ぶ女優陣にはあくまで紳士的に応対し、それでいて現場の状況は常に把握していて、「何かを怠る」とか、「うっかりミス」をするという事の全くないプロデューサーだった。だからといって堅物ではなく、時にいい具合の冗談を言ってその場を和ませる。

 私は、京都の現場でも、手塚さんのプロデューサーとしての手腕に舌を巻いた。

 

 その後なかなかご縁がなく、結局手塚さんとご一緒した仕事は「大奥」だけになってしまったが、できればもっともっとご一緒したかったプロデューサーである。

 やがて東映の社長に就任した事をニュースで知り、驚くと同時に「あの手塚さんが社長なら、社員も仕事がしやすいだろうな」と思った。案の定というか、近年の東映は実写、アニメを含め意欲作やヒット作が多々出た。要因は様々あるだろうが、その中で一つ、手塚社長の存在は大きかったのではないか。

 そんな気がしている。

 

 改めて、ご冥福をお祈りします。

 

 手塚さん、一度きりとはいえ、仕事でご一緒できた事を今でも光栄に思っております。

 

 どうぞ安らかに。長い間お疲れ様でした。