5月の中旬に突如思い立って始めた飛行機模型が、四機の練習を経て本番に突入し、「本番一機目」が完成した(ただの趣味なので何が「本番」だかよくわからないが。笑)。
何度も書いているようにもともとイギリス空軍のスピットファイアを作る予定で、しかしスピットファイアといえば「バトル・オブ・ブリテン」、ならば敵側のドイツ空軍機でスピットファイアと空中戦を演じた機も作らなければ物足りないと思い、ひとまず先に作ったのが上の写真の機である。
メッサーシュミットBf109E-4。
第二次大戦前半から中盤にかけて独空軍の主力機だったそうで、ベンツの開発した強力なエンジンを搭載、直線を飛ぶ時のスピードが秀でていたという。
私が作ったこのバージョンは、ヘルムート・ヴィック少佐という、バトル・オブ・ブリテンの頃に「若き撃墜王」と言われた青年パイロットの機で、彼は当時まだ26歳だったらしい。
ヴィックは1939年のドイツ軍によるポーランド侵攻からフランス占領といった主な侵攻作戦のほとんどで出撃していて、イギリス空軍とくんずほぐれつ戦ったバトル・オブ・ブリテンの時も、1940年の夏から晩秋にかけて連日この機で部下を引き連れてイギリスに飛んでいき、戦闘を繰り返し、敵機、つまりスピットファイアやイギリス空軍のハリケーンを撃墜しまくっていた。模型の垂直尾翼の部分に上から縦4列に白い線がたくさん並んでいるのだが、これが撃墜マークなのだという。
空軍内では将来を嘱望されていた出世頭だったという。
例によってネットで彼に関する記事を拾ってから作ったのだが、零式21型の板谷少佐の時同様、何とも不思議な気分になった。
(よって以下の記事は全てネットの受け売りに過ぎない。私は知人が思っているほど軍事通ではなく、ただの飛行機好きである)
小さい部品を削ったり接着剤で貼り付けたりしていると次第にわかってくるのだが、この「若き撃墜王」の機体は、どうもかなり防御を意識した装備になっているのだ。
何といっても異様なのは胴体側面にびっしりとある斑点模様で、これは面相筆で1つずつ描いて大変だったのだが、私のそんな苦労はどうでもいいとして、資料によれば彼の実機には海綿状の素材がびっしりと張り付けてられていたのだという。何の素材かまではわからなかったが、写真は目にする事ができた。何というか、採れたてのワカメを大量に持ってきて、それをそのまま飛行機に隙間なくびっしり張り付けたとでもいう体で(無論ワカメではないのだが)、古い白黒の写真で見ただけでもかなり気持ち悪い。その気持ち悪い機と一緒に若いヴィックが難しい顔付きで映っていた。小さい模型だから斑点で済むようなものの、もう少し大きなモデルを作ったとしても、あれを再現しようという気にはならない。そんなグロテスクな海綿帯なのである。
その他にも、風防の前部正面には視界が曇るのを承知で防弾ガラスが後付けでついているし、座席後部の頭の後ろにも鉄の防弾板が取り付けられている。しかも念の入った事に、彼は彼自身だけでなく自分の飛行隊の部下たちの機にも同じ防御策を施していたという。つまり、彼の飛行隊が並んで飛ぶと、どうも気持ち悪い防御用装飾の機が何機もイギリス上空に現われるという図になっていた訳で、想像すると鬼気迫るような、それでいてどこか滑稽なような気分になった。
ヴィックが何を思って日々出撃し、「若き撃墜王」と言われてどう思っていたのか、今となっては知る由もないが、私は模型を作りながら、何となく「生存本能に特化した若者」だったのではないかという気がした。
そんな男が、大戦の荒波の中で空を飛んでいた訳である。
このいくつもの防御装置は、「若き撃墜王」と褒めそやされていたヴィックが、その実、内心は徹底的に生き残ろうとしていた証なのではなかろうか。よく戦争映画に登場する英雄が「自分は不思議と弾に当たらない」とか「何があろうと自分は死なない」という台詞を吐くが、ヴィックはその点冷静で、空で生き残って帰還する為に思いつく限りの策を講じていたような気がする。あのグロテスクな海綿がもし多少の防弾効果を期待したものなのだとしたら(そうでなければ、あれだけ手間をかけてびっしりと張り付けた理由が判然としない。迷彩効果を期待するなら塗料を塗ればいいだけの話だ)、部下全員の機にそれを強要した事からも、彼の生存本能が垣間見える気がしてならない。
当時の空軍のパイロットの事だから、軍内で出世しようと思えば撃墜数を増やすしかなく、その点にヴィックが邁進していたのは間違いない。だが、彼は単に猪突猛進していたのではなく、「出世し、かつ必ず生き残ってやる」という決意を秘めていたのではないか。スピードが信条のはずのメッサーシュミットに、重くなるのを承知でこうした様々な防御装置を施していた事から、彼のそうした気分が伝わってくる。
いや、これは全て単に私の想像に過ぎないのだが、作っている間、ずっとそんな気がした。
ヴィックはバトル・オブ・ブリテンの終盤、1940年11月の末に、イギリス沿岸部の島の上空で敵機(つまりイギリス機)と空戦に及び、撃墜されてパラシュートで脱出したものの初冬の冷たい海に落ち、その後行方不明になってしまったのだという。
「英雄を失っては士気に関わる」と、ゲーリングが事前に彼の出撃中止命令を出していたのだそうだが、その知らせがヴィックのいた前線基地に届いたのは、彼が最後の出撃をした後だったとか。
「ヴィック撃墜」の報を受けたドイツ軍は大規模な捜索を行ったが彼は見つからず、さらに異例な事に、敵イギリス軍に対して「貴軍にヘルムート・ヴィック少佐が捕虜になっていないか」と照会までした。イギリス軍からは「当該人物はこちらの捕虜にはなっていない」という返事がきて、ドイツ側はその時点でようやく諦めたらしい。
撃墜数を増やすだけでなく、必ず生き残ると防御にも余念がなかったヴィックは、最終的に26歳の若さで戦死した事になる。遺体が見つからなかったとはいえ、死因はおそらく溺死である。
結局は、「必ず生き残る」と思いながらも生き急いでしまった感のあるヴィック少佐。
時代が時代でまして戦中だったからといえばそれまでだが、彼の短い生涯をどう捉えるかで、戦争の実相というものが少しは見えてくるのではないだろうか。
戦時でなければ、別の分野で成功を遂げるはずの若者だったかもしれない。
後輩脚本家の浦沢広平くんが、近頃私が熱心に飛行機模型を作っているのを見て「十川さんは模型にドラマを求めすぎですよ。ただの模型に過ぎないでしょ」と笑っていた。
私もそうは思うのだが、あれこれ想像しながら作る方が楽しいのだから致し方ない。
生き急いだヴィックに想いを馳せつつ、
次はいよいよ本番その2、念願のスピットファイアに取りかかる。