「空軍大戦略」が語るもの | 脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

テレビアニメ、ドラマ、映画と何でも書くシナリオライターです。
24年7月テレビ東京系で放送開始の「FAIRYTAIL」新シーズンに脚本で参加しています。
みんな観てねー。

 

 

 戦闘機の模型ばかり作っているせいか、また、模型と料理を作る以外何もしていないせいか、どうも話題がタイトルのようなものに偏ってしまう。

 ご容赦願いたい(最近、ブログで謝ってばかりいる気もする。笑)。

 

 いよいよスピットファイアとメッサーシュミットの模型を作るにあたり、機のディティールの参考に「空軍大戦略」を見た。過去、何度も見た映画だが、2019年の今見ると、新たに思うところがあった。

 イギリス映画で公開は1969年である。

 調べてみたら、イギリスと日本の公開日がわずか5日しか違っておらず、日英ほぼ同時公開だったらしい。私はこの頃はまだ小学一年生だから、さすがに映画館では見ていない。

 だが、後に(多分70年代の中学生の頃)、テレビの洋画劇場で見て夢中になった。大人になってからはソフトを買ったり何やかやで何度か見ている。

 中学生の私を夢中にさせたのは、おそらく「戦争というシステムの激突」だろうと思う。60年代初頭の「史上最大の作戦」以来、戦争映画の大作は敵対する両軍をできるだけ均等に描くという描写が多く、故に片側に立った勧善懲悪系の映画が少なかった。どちらの軍にもそれぞれの事情があり、かつてのハリウッド戦争映画では考えられなかった、ドイツの将校が苦い顔でヒトラーの悪口を言っていたり、連合軍側にも多国籍軍故のトラブルが続いたり、そうしたリアリティが受けた時代だったのだろう。

 私は10代の頃にこうした「両軍均等」の影響を、徹底的に受けて育った。「空軍大戦略」も、紛れもなくそんな一本である。

 

 有名なバトル・オブ・ブリテンの映画化。

 1940年の夏から初冬にかけ、それ以前にポーランド、フランスと侵攻を続けていたドイツ軍が「次はイギリスのロンドンを落とす」と意気込み、ドーバー海峡を渡って苛烈な空爆を仕掛けた。だが、イギリス軍はこれを本土上空で迎え撃ち、数ヶ月にわたる激しい空中戦の末、遂にドイツのイギリス侵攻を諦めさせた、つまり撃退したという歴史の一コマである。

 この映画の最大の売りは、「スピットファイア(英軍機)VSメッサーシュミット(独軍機)」で、少年の私がそこに興奮したのも間違いない。特に戦争好きという訳ではないが、昭和の男の子の「定番の興奮」とは、存外こんなものだった。

 エキサイトする昭和の小僧はさておき、今回見て感じた事を、以下に書こう。

 

 何が凄いと言って、とにかく徹底して「実機」なのである。

 60年代はまだ第二次大戦から20数年後で、ヨーロッパのあちこちに大戦中に使われた戦闘機や爆撃機が多数残っていたらしい。この映画は、「007シリーズ」初期の大物プロデューサー、ハリー・サルツマンになるもので、彼の号令一下、ヨーロッパ中からその「実機」が大量に集められ、その本物たちを大挙して飛ばして撮影されたのがこの映画なのだという。

 機体下面が黒い油だらけのスピットファイアが編隊を組んで離陸し、戦い、戻ってくる。メッサーシュミットもイギリスの上空でスピットファイアとくんずぼくれつドッグファイトを繰り広げる。そして、ドイツの爆撃機の編隊、黒々としたハインケルの大部隊が悠々と(それも何十機も)飛び、そこに上下から襲いかかっていくスピットファイア、これを護衛しようと迎撃してくるメッサーシュミットの様が、これ全て「実機」。

 唖然とするしかない、今見ても、いや、今見るとなおさらとんでもない迫力である。

 途中、イギリスの防空レーダーの本部の女性オペレーターたちの活躍も多いのだが、彼女たちのうちの1人がモニターパネルを見て、多少恐怖にひきつったような顔付きで上官に報告するシーンがある。

「敵編隊、本土上空に侵入……来ます」

 上官が「数は?」と聞くと、

「約……100機」

 防空センターの皆の顔が凍り付く。ものすごい数なのだ。

 そしてそこからカットが変わると、青空に広がる雲をバックに、100は大袈裟にしても数十機の大きな黒い爆撃機、ハインケルの大編隊が轟々とこちらに飛んでくるカットになる。カメラも地上から見上げているのではなく空中にあり、つまり、飛行中の爆撃隊を同じ高度から撮っているので(それも正面から、である)臨場感もただ事ではない。

 そのド迫力と映画的緊張感、スペクタクル感は、「実機」ならではの迫力というしかなく、かつての戦争大作の凄みを存分に味わう事ができる。

 今や、撮影不可能となってしまったスーパーショットと言っていい。

 

 先日、「CGで描かれた飛行機はどれもいまひとつで、良かったのは『フライト』の旅客機と『ダンケルク』のスピットファイアだけだ」とFacebookに投稿したら、後輩が「『ダンケルク』のあれはほとんど実機で撮影されたらしいですよ」と教えてくれ、我ながら情報に疎くて恥ずかしい思いをした。

 つまりそういう事で、今や映画のCGは進化して当たり前に使われているし、題材によってはことさらにそこを強調したりしない作品も増えている。だが、飛行機のCGに関しては技術がまだまだで、およそ「空軍大戦略」のような迫力には至っていない。だからこそ、CGだと思い込んで見た「ダンケルク」を凄いと思ってしまった訳で、あれが実機の質感であり飛行感覚なのだ。

 多少過激なようだが、私は、「CG技術が完璧になるまでは、無理して空戦映画は作らなくていい」と思っている。長年CGを駆使して様々な映画を撮ってきたクリストファー・ノーランの選択が「実機」だった事を考えれば、飛行機CGの技術はどんなに頑張っても今はまだ未成熟なのである。アジアの戦争映画を見ていると、せっかく面白い演出や脚本なのに、CG戦闘機が登場した途端に興ざめするケースが1つや2つではなかった。

 私が単に飛行機好きなだけなのかもしれないが、少年の頃に「空戦映画とはこれだ」という決定打、「空軍大戦略」を体験してしまっている者としては、今の空戦映画はどうにも物足りない。

 

 以前にこのブログの記事(16年の「CGの落とし穴」)で、CGを過信すると意外によろしくない仕上がりになると書いた事がある。

 状況は今でもそんなに変わっておらず、アメコミ系やファンタジーならどんどん使えばいいと思っているものの、事「それがCGに見えてはならない映画」では、CGの使い道はまだまだ慎重にしなければならないのではなかろうか。

 口やかましいおっちゃんなのは百も承知だが、言わずにいられない。

 長年、飛行機好きでレッドフォードの「華麗なるヒコーキ野郎」も含め空戦映画を愛してきた者として、率直に上のように思っている。

 

 こういう想いにとらわれる事が増えているから、

 

 近頃、ちょっと映画から遠ざかっている次第。