未だに? | 脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

テレビアニメ、ドラマ、映画と何でも書くシナリオライターです。
24年7月テレビ東京系で放送開始の「FAIRYTAIL」新シーズンに脚本で参加しています。
みんな観てねー。

 韓国が揺れている。

 朴大統領が40年来の知人女性に、公文書を見せたり演説の草案について相談していたという話に端を発し、この女性が実は韓国政界の「影のドン」だったのではないかという妙な疑惑まで浮上、さらに彼女が大統領府に関係する二つの財団の資金を私的に流用していたのではないかという嫌疑まで取り沙汰され、ヨーロッパから帰国したこの知人はもの凄い報道陣に翻弄され、その映像が日本のニュースでも流されていた。かの国の検察が逮捕状を請求したというから、真相はまだわからないながら余程の騒ぎなのだろう。

 一方、アメリカ大統領選が目前となったヒラリー・クリントン氏も逆風にさらされていて、FBIの再捜査によってメール問題が再燃、トランプ氏に猛烈な追い上げをくらっているそうな。このタイミングで、一時捜査を打ち切ったはずのFBIがまたも問題を持ち出してきたのは一体何なんだろうと首を傾げてしまうが(だって捜査結果が出るのは大統領選の後になるというのだから、妙な話だ)、いずれにせよ、こちらの国もまた大騒ぎになっているらしい。

 

 という具合に二つの事件(ともに検察とFBIという司法が乗り出してきている話題なので、「事件」と書いて差し支えないと思う)を並べて書いてみると、お気づきになる方もいるのではないだろうか。

 どちらも「女性の政治家」にまつわる件であり、ともに「公私の混同」についてノーが突きつけられている内容である。

 先日来の日本の報道を見ていると、いつもではないにせよ、この二つのニュースが続いて放送されたケースが何度があり、時にはアナウンサーやキャスターが、朴大統領の話題の後に「一方こちらアメリカでは……」という具合に、クリントン氏の話題に移る瞬間が何度かあった。

 二つの事件に類似性があるからと言われればそれまでなのだろうが、一度ならまだしも何度か似たような報道のされ方をすると、「ちょっと待った」と言いたくなる。

 晩ご飯を食べながら一緒にニュースを見ていた我が家の同居女子など、「女がみんな公私混同する訳じゃないわ」とムッとしたリアクションを見せていたから、私一人が気になったという訳でもなさそうだ。

 ちなみに言うと、彼女は素っ頓狂な点を除けば存外生真面目な人なので、仮に彼女が大統領や国務長官になったとしても、上記二人のような「公私の混同」はまずしないと思う。「我が家の同居女子がもし大統領になったら」と想像している私も余程のヒマ人だが(想像ついでに、仮に大統領になったとして、民衆に手を振る時はやっぱり腕の短さを気にするんだろうかなどと思い、この想像がいかに馬鹿馬鹿しいかに気づくのである。人間、ヒマだとロクな事を考えない)。

 私の変な想像はさておき。

 報道にとどまらず、社会の意識としてこれでよいのだろうか、と思った次第。

 

 上記二つの事件はともに海外ニュースである。

 そしてほぼ同時期に発生した。だからニュースで同列のように扱われ、「一方アメリカでは」と報道されてもやむを得ない面はある。

 だが、この「一方」が曲者で、そこには何となく「一方こちらの女性は」というニュアンスも含まれていた気がしてならない。私が見たのはいずれもNHKのニュースで、NHKにしたら「あなたの言うような、女性を蔑視する意図はなかった」と言うだろう。私も少し考えすぎかなと思わないでもない。

 しかし、現に我が家の同居女子はちょっと不愉快そうだったし、どこかで「女性は公私混同しやすい」といったニュアンスが出てしまっていた気がするのだ。数回にわたってこうした放送の仕方があったから、「それ、わざとやってるだろ」と視聴者から突っ込まれてもやむを得ない感じがある。たとえただの偶然でそうなったにしても、である。

 そうしたイメージを視聴者に与えてしまった以上(私は少なからず与えてしまったと考えているが)、視聴者のこちらとしてはうっかりこんな疑問を持ってしまう。

「女性は本当に公私混同しやすいものなのか?」

 と。

 論外である。

 そんな科学的根拠など聞いた事もないし、日本の人口の半分が女性だとしておよそ6,000万人の女性がいるのだから、この人数には途方もない個人差や性格の違いがあるのであって、皆が公私混同しやすいとは到底思えない。ところが、マスコミによって一度出されてしまったこうしたイメージは、たとえそれが本当かそうでないか曖昧模糊としたものでも、私たちの意識の中には何となくの引っかかりとして残ってしまう。報道としてちょっと迂闊だったのではないか、と思わざるを得ない。

 しかしこのブログの記事は、マスコミのそういったうっかりを指摘するのが本題ではない。

 「未だにこうした女性を下に見るような風潮が、この社会に根深く残っているのではないか?」という事が気になっているのである。

 

 残っているように思う。

 私は仕事柄、女性の脚本家と一緒に作品に参加する事が多い。今では脚本家でなくとも、局のプロデューサーや監督、その他様々なアニメのセクションに女性は多数存在する。

 すると、彼女たちの中には酔っ払って「会議で男性からこんな嫌な事を言われた」とこぼしたり、「未だに決して働きやすくはない」とぶつぶつ言う人が少なからずいる。そのいちいちを聞いてみると、セクハラほどではない、パワハラとまではいかない、しかし明らかに男性優位の発想や、反対に「女性だから」というだけの理由で必要以上に気を遣われてしまったりとか、そうした局面が陰に日向にあるのだと言う。

 彼女らが一様に言うには、

「性別に関係なく、純粋に脚本家、あるいはプロデューサーとして接してほしい。扱ってほしい」

 という事なのだ。

 それは私に言わせれば全く正しい意見で、何ら反論の余地はない。

 もし私が女性で、同じような「小さなひっかかり」を仕事上で感じたとしたら、それはやりづらくてかなわないだろうと思うのだ。そして、そういう発想「私がもし女性だったら」とふと考える事自体、まだまだ男性優位社会の気分が残っている証なのだと思う。何故なら、私は「男性だから」というだけの理由で、仕事上で嫌な目に会った事など一度もないからだ。これは、社会全体がまだまだ男性中心に動いている事の証左であり、男女が完全に同じ土俵に乗っているとは言いがたい。

 そうした気分が社会に根強く残っているからこそ、それが上記のように朴大統領とクリントン候補の妙な「並列放送」として現れてしまうのではないだろうか。

 それでいて、きのう来日したアウン・サン・スー・チー氏の話題を巡っては、こうした「男性優位社会」のニュアンスは微塵もない。しかしよく考えれば、「女性は公私混同しやすい」という話題の時に、彼女が女性である以上彼女もまたそのくくりの中に含まれてしまう訳で、そう思考していけば、これがいかに「男社会のナンセンスな発想」であるかがわかろうというものだ。

 社会がこんな状態では、安部政権がいかに「女性の社会的活躍を推進しよう」と躍起にやったところで、それは絵に描いた餅になってしまう。活躍を推進しようにも、こうした意識の社会にあっては推進にブレーキがかかってしまうからだ。

 

 私が高校一年生の時、1978年に、アメリカ映画でジル・クレイバーグ主演の「結婚しない女」という作品が公開された。私も劇場に見に行ってとても面白かった。

 ずっと独身でバリバリ働いてきたキャリア・ウーマンが(キャリア・ウーマンという言葉はこの映画が初めて使って世界的に流行った言葉である)、そろそろ結婚という段になって「結婚を取るか、結婚せずに独身を通して仕事をし続けるか」で激しく揺れた結果、最終的に結婚せずに(恋人と別れて)、「私はこれから仕事に生きていくんだわ」と決断するまでの物語で、当時「女性なのに結婚しない」という意味のタイトルが何とも衝撃的だったのを覚えている。

 70年代とはまだまだそんな時代で、「女性が結婚しない」と聞いただけで「えっ」とショックを受けていたのである。つまり、それほど女性の仕事と結婚の両立は困難だったのだし、今と違って「結婚か」、「仕事か」の二者択一が迫られる社会だったという事になる。

 こうして文章で書いてみると隔世の感があるが、しかしそれから四十年近く経った今日、女性を巡る社会的環境や「完全な男女同権」の実現は果たして進歩を遂げてきたのだろうか、と考え込んでしまう。 

 さらにこの映画の中では、女性が感じる様々な「女性というだけの理由で働きづらい」環境が描かれてもいたのを思い出す。

 果たして、そんな状況は本当に改善されてきたのだろうか。

 

 私はサラリーマンではなく会社勤めをしていないから、今の一般的な会社の様子はよく知らない。だから社内にこうした男性優位の気分がどれほど濃いのか薄いのかもまたわからない。

 身近な例を見るしかないのだが、アニメの仕事で一緒になる局や企業の女性社員を見ていると、酔っ払って愚痴こそ言うが、そんなにひどく「女性だから」という理由で苦労しているようには見えないし、彼女たちも「そこは(仕事を進めるうえでは)のびのびとやらせてもらってます」と言う人が多いのも事実だ。

 しかしこれはなにぶんアニメ業界がお世辞にも「一般的な業界」とはいえない、ちょっと特殊な世界であるから、比較的女性にとってやりやすい環境が作れているかもしれないのだ。そんな彼女たちですら、酔えば「問題というほどではないけれど、決して100%やりやすい訳ではない」と愚痴るのだから、たとえば昔ながらの業種の企業など精査した場合、こうした彼女たちの「やりづらさ」はもっと大きなものとして存在しているのではないか、そんな気がしてならない。

 それはひとつ企業や業界のみにとどまるものではなく、そうした「男性中心社会」がまだまだ濃厚にあるからこそ、上記のような何とも微妙な「女性は公私混同しやすい?」となどという報道を生み出してしまうのではないだろうか。

 だとしたら女性にとっては迷惑な話で、首相が「皆さん、どんどん進出してください」と言っているのを鵜呑みにして「じゃあ」と進出してみると、「何よ、これじゃやりづらくてかなわないわ」という理不尽な壁に突き当たってしまう事になり、社会にとって何一ついい事はない。そんな微妙にひっかかりのある環境では、個々の実力を100%発揮する事などできないからだ。

 

 この国の長い歴史を見てみれば、かつてはそこに強固な「男性中心社会」があったのであり、実はそれはそう簡単に覆せるものではない。

 そうした面が日本よりも開けているばすのアメリカですら、70年代には「結婚しない女」がショッキングだったのだから、これはアメリカよりもお世辞にも開けているとはいえない日本にとっては、容易な事ではない。それが現実的な分析だと思う。

 民進党の代表が蓮舫氏になったり、東京都知事が小池氏になったり、以前に比べればその辺の風通しはよくなってはきている。しかし反面、日本にはまだ女性の総理はいないのだし、「完全な男女同権社会」の実現を考える時、まだまだ道半ばなのだなと、感じざるを得ない。

 女性の社会進出を推進しようとする以上、最も大切なのは、男性側が女性を「女性」ではなく「人間」として認識する事だと考えている。会社や仕事のフィールドにあって、男性は男性を「男性」として意識したりしない。あくまで「人」と「人」として相対する意識の方が強い。しかし相手が女性となると、「人」ではなく「女性」として意識してしまう男性が、未だに少なからずいるのだと思う(私はそんな捉え方はせず、あくまで「私という人間」と「彼女という人間」として仕事に臨んでいるが)。

 人と人。

 男女が互いにそうした同じ土俵の上に確実に乗れるようになって初めて、この社会は諸手を挙げて女性の進出を受け入れる事ができる。いわばこうした意識の改革は、「女性進出のための社会的インフラの整備」である。そのインフラ(つまり男性側の意識)が整わなければ、何度も言うが安倍政権のかけ声はおそらく徒労に終わってしまうだろう。

 

「そんな風に考えているんだが、どうだろう」

 と同居女子に聞いてみたら、彼女にこう言われた。

「まさしは何でも深く考えすぎよ。そこまで気を遣ってくれなくても、女は強いからだいじょぶ」

 元もこもない。

 さらに彼女は、「それにしても」と前起きして尋ねた。

「そんなに立派な考えのまさしが、なんでバツ2なの?」

「それとこれとは別。大きなお世話だ」

 

 ぎゃふん、である。