Stakeout | 脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

脚本家そごまさし(十川誠志)がゆく

テレビアニメ、ドラマ、映画と何でも書くシナリオライターです。
24年7月テレビ東京系で放送開始の「FAIRYTAIL」新シーズンに脚本で参加しています。
みんな観てねー。

 何十年も前に一度劇場で見たきりになっている映画。

 「その時はかなり面白かった」という記憶だけが残っていて、果たして今見るとどうかという不安はいつも持っている。

 そんな一本、1987年(日本公開は1988年4月)の「張り込み」を見た。原題もまんま「Stakeout=張り込み」である。stake outはアメリカ英語の口語で、独特の警察用語でもあるそうだから、使い方は日本と同じらしい。

 実に劇場で見てから28年ぶり。だが、不安は杞憂に終わった。

 こういう映画を「秀作コメディ」と言う。

 

 舞台はシアトル。

 お調子者のおっちゃん刑事クリス(リチャード・ドレイファス)と若い割にマイホームパパのビル(エミリオ・エステベス)のコンビがいる。

 ある日、上司から二人に「張り込み」の指令が下る。ターゲットは若い美女にしてヒスパニック系のマリア(マデリン・ストゥ)で、彼女の元カレが刑務所を脱獄、いずれは元カノであるマリアに連絡を取ってくるに違いないと。

 クリスとビルのコンビは、マリアの家の向かいに警察が借りたボロ屋で張り込みを始める。

 だが、彼女は張り込み用のカメラや双眼鏡越しに見ると、かなりの美人で気立てもよさそうだ。お調子者クリスは、何と張り込みの監視対象であるマリアに真剣に一目惚れしてしまい、相棒のビルの制止も聞かずあの手この手で彼女にコンタクトを取り始めてしまう。お調子者とはいえこの一目惚れに関しては至って真剣なクリスは、電話工事人のフリをして大胆にも(しかし本人はドキドキしながら)彼女の家に入っていってしまい、あろう事か「私はビルと言います」と相棒の名をかたり、何とか彼女の気を引こうと躍起になる。

 そうこうするうちにマリアも「うそビル」のクリスに対してまんざらでもない雰囲気になってきて、向かいの家で監視を続けている相棒の「本物ビル」は、「おっさん、いい加減にしろ!」とクリスの暴走にやきもきする始末。

 しかし、いよいよ脱獄犯の元カレが実際に接触してきて、事態は二転三転、意外な方向へ……。

 

 この映画、コメディとして秀逸だと思うし、今見ても十分に笑える。

 全体に、何ともチマチマした作りになっていて、それが全て計算された「チマチマ感」なのである。

 これは脚本は無論の事、監督のジョン・バダムの周到な計算に基づいたもので、「全編チマチマ感で笑わせるぞ」という意識が徹底している。ハリウッドの刑事物でバディ物であるのに、そういう小さな世界観を確信犯的に作り上げたのが成功の要因だと思う。

 まず、主役コンビのビジュアルが何ともチマっとしている。

 リチャード・ドレイファスはスピルバーグの「ジョーズ」や「未知との遭遇」で一躍スターになった人、一方エミリオ・エステベスは「地獄の黙示録」のマーティン・シーンの息子にして、「プラトーン」のチャーリー・シーンの兄である(父、弟と違って、彼だけは芸名を使わず本名を名乗っている。最近ではロバート・ケネディの暗殺を題材にした「ボビー」という良作を監督していたり、俳優業をやめて監督やプロデュース業に徹している)。

 このドレイファスとエステベスの二人、何とも背が低い。

 普通バディ物だとどちらか片方は背が高いものだが、「どっちも背が低いコンビ」という珍しいビジュアルで、二人並んで立っているだけで既に妙である。さらに彼らの「小ささ」を際立たせるために、周囲の刑事たちにはフォレスト・ウイテカーを始めとする大柄な男たちをわざと配置してあって、その辺の笑いの計算も怠りない。実際劇中の台詞でも「あのちっこい男たちは……」という表現があるくらいだ。これはありそうでないアイデアで、しかも二人の役者がその「ちんまり感」を実に達者に表現していて小気味いい。

 

 そして「小男デカ・暴走クリス」を演じたリチャード・ドレイファスの演技が、何ともエネルギッシュでしかも超絶上手い。早口でしゃべり倒し、相棒ビルの「やめとけ!」という折々の制止も振り切り、いつの間にかマリア一筋になって彼女の家に堂々と入り込み始める感じが、たった一言しゃべっただけでも確実に観客の笑いをとる。彼の演技とエステベスとの掛け合いの妙も、この秀作コメディを見事に成立させた要因の一つと言っていい。

 それでいて単なるおバカおとこではなく、「ああ。どうしよう。理性ではマズいとわかってるのに、自分ではこの暴走を止められない」という、自分のブレーキがぶっ壊れている事自体は自覚しているキャラ造形が、ドレイファスのように芸達者でなければ決して表現できない、「コメディ映画の演技」としての高みに達している。

 例えば、このコンビの他に張り込みの交代要員の別コンビ(ウィテカーとダン・ラウリア)がいるのだが、この二組のコンビは互いにそうとう仲が悪い。半日の張り込みを終えて片方のコンビが帰った後、相手コンビに対して必ず何らかのいたずらが仕掛けられている。

 冷蔵庫の中に、ラウリアが可愛がっていつも連れ歩いているブルドッグの糞がお皿にクッキーのようにきれいに盛られて入っていたり、仕返しとしてビルがラウリアたちの車にわざと猫を入れておき、彼らとブルドッグが帰ろうとして車に乗り込むと、犬と猫が車内で大喧嘩を始めたり。挙句、張り込み用の部屋に貼ってある監視対象としてのマリアの大きな写真に、ラウリアたちがマジックでエッチな落書きをしていたり(様々ないたずらの中で、クリスがこの時最大級にキレるのが可笑しい)。

 そのいたずらに対するドレイファスのリアクションがいちいち達者で、しばらく見ていたら劇場で見た時に爆笑した記憶がまざまざと甦ってきたほどだ。

 いい役者さんである。

 

 監督のジョン・バダムは私たちの世代にはおなじみの、「エンタメ映画の名監督」で、「サタデーナイト・フィーバー」や「ブルーサンダー」を撮った人である。そのキャリアの中でコメディは少ないのだが、この「張り込み」と続編の「張り込みプラス」が今では代表作の一つになっているくらい、このシリーズはよく出来ている(「プラス」の方も今回見たのだが、正直こちらは少し出来が緩くて残念な面がある。だが、二人のキャラと掛け合いは健在である)。

 バダム監督はこの映画で、上記のチマチマ感にかなりこだわっていて、舞台がシアトルなのもその一つ。

 この街はイチローがかつて長く在籍していたシアトル・マリナーズの本拠地だが、大学の多い港町で、カナダとの国境沿いにある寒い地方だ。その、あまり刑事映画ではロケをしないようなちょっと上品な土地を敢えて選び、最初から「派手な方向には走らない」という足かせを自らはめている。

 それでいて、映像はいかにもシアトルっぽい「寒々しいが絵として美しい景色」を上手く切り取っていて、他の刑事映画にはない独特の雰囲気作りに成功している。

 そして、全編を通して設定されている「舞台としての狭さ」。

 マリアの住む家と、道一本を隔ててクリスたちが張り込みをしているボロ屋はごく普通のちんまりとした住宅街にあるのだが、カメラはかなりの時間この「狭い場」を出る事なく、二軒の家をよこしまな暴走心でせっせと行き来するクリスと、彼の暴走を何とか止めようとするビルの奮闘を「狭苦しい空間を走り回る小男二人の悪戦苦闘」としてあますところなく見せていく。 何しろ二軒の家が近いので、ちょっとした事ですぐクリスの正体がマリアにバレそうになったり、ボロ屋でクリスの帰りをドキドキしながら待っているビルからも、カメラの望遠レンズで彼女の家を覗けばすぐにクリスとマリアが何をしているか見えてしまうという変な緊張感があって、それらは監督と脚本が設定した「びっくりするほどの狭い空間で、あえて刑事物を展開させていく」という、卓越した仕掛けなのだ。

 ドレイファスとエステベスのバディで笑わせながらも、そうした映画全体としての仕掛けにも細心の注意をはらっている辺りが、さすがバダム監督、彼の面目躍如といった感がある。

 ハリウッドには昔から良質なコメディ映画がいくつもあるが、この「張り込み」はそうした名作コメディの一群に十分入ると思う。

 

 シネコン以前のかつての映画館は、今に比べて音響が単純だっただけに、客席の笑いが大きく聞こえたものだ。

 そこには舞台劇やお笑いのライブを見ているような感覚が少しあって、映画でも場内が一斉にドッと湧くあの感じが味わえた。今は音が格段によくなっているものの、その音があまりに大きいために皆が笑ってもその笑い声が場内に響くという事がない。音がいいに越した事はないのだが、私は個人的にはちょっと残念に思っている。

 そんな、昔の映画館の「みんなで一緒に笑って見た」楽しさが、この「張り込み」には溢れている。そして、そんな80年代の、楽しかったコメディ映画の場内を懐かしく思い出した。

 

 せめてもと思い、家で一人で見たのに声をだして笑ってみた。

 だがこれは無理して笑ったのではなく、28年の歳月を経てもなお見事に笑わせてくれる、ドレイファスとエステベスのコンビ、そしてバダム監督の周到な映画作りのお陰である。

 

 いいコメディは、時代を超えて笑いを取れる、のだ。

 

 近頃の日常に笑い成分が足りないと思っている方、ぜひどうぞ。