「これかい?」
「はい」
五十がらみの、ブルゾンにジーンズの男は、風雨にさらされてボロボロの、目の前の赤くて四角いポストを見た。その少し後ろで、二十代前半の若い女がそう答えた。
赤く何の変哲もないそのポストは、北の地方の寂しげな県道の縁にあった。そこはさび付いたバス停の隣で、道の後ろはとっくに刈入れの済んだ広い田、手前は崖のような小山で、こっちにのしかかってくるように紅葉していた。
最寄り駅のある地方都市に向かうバスが来るまで、まだ一時間もある。
若い女がポストを見つめて言った。
「亮太くん」
「そう呼んでたの?」
「はい。小学校二年生の時でしたよね、亮太くんがここに引っ越してきたの」
「ああ。そうなるね。オレの離婚の時にこっちに来んだから」
「ええ、聞いてます。で、あたしの家がすぐ近所で、朝、学校に行く時同じ班だったから、何となく『亮くん』って呼んだんです。そしたら、『亮太って言ってよ』って」
「どうして」
「お父さんが……あ、あの」
「お父さんでいいよ。いや、正確には離婚した時に親権がなくなったから父親じゃないけど、ま、お父さんでいいよ。十何年か前までオレが父親だったのは確かだからね」
「じゃあ、お父さん。『東京に住んでた時、お父さんが自分の事を亮くんって呼んでたから、その呼び方はイヤだ』って言って……あ、済みません」
男はポストを見つめたまま呟いた。
「やっぱり嫌だったんだな、離婚。ずっと気にはなってたけど。嫌で当たり前なんだけど。まだ八歳だったしね」
晩秋と冬のそのぎりぎりの、冷たい風がバス停を抜けていった。
男が、妻と息子と別れて一人東京に残ったのは十数年前だった。
理由は様々あったが、何はともあれ離婚の原因は男にあった。
妻と息子は、この北の地の妻の実家に戻り、妻とその両親、つまり彼の祖父母とともに暮らし、大きくなった。
小学二年生で両親が離婚した彼は、その後しばらくは時々父に会いたがり、渋々の母に手を引かれて東京に来たり、男がこの北の地の、彼の家からは離れた地方都市まで来て、一緒に食事をしたりした。
しかしそれも数年の事で、以後は暑中見舞いや年賀状、あとは「高校に進学しました」という報告の葉書が来る程度になった。
したがって、男の記憶の中の最後の息子は、小学四年生で止まっていた。
男と若い女は、きのう、男の元妻と元息子の葬儀を終えたばかりだった。
数日前の突然の交通事故が原因で、今では二十代前半になった元息子が、「日曜日だからショッピング・モールに行きたい」と言った彼の母を乗せ、ワンボックスカーを走らせている時に、突然居眠り運転で車線を越えて、突っ込んできたトラックと正面衝突したのだという。男の元妻は四十代後半で、元息子は二十代前半で、あっけなく逝ってしまった。
若い女は彼女の言った通り、小学二年生の時からの、男の元息子の幼なじみだった。
東京から喪服をぶら下げてやってきた男は、今はもう逝ってしまった元息子の、その祖父母に会った時「いろいろと済みませんでした」と言った。離婚した時同様怒鳴られるかと覚悟して来たのだが、二十年前よりずっとずっと歳を取り、小さな老夫婦になってしまった元息子の祖父母は、たいして怒りもせずに彼に言った。
「人の人生なんて、いつどうなるかわかりませんよ」
あの時自分が離婚などしていなければ、元妻とあのコはこの町で事故死しなかったかもしれない。そう思うと胸が苦しくなる想いだった。息子の祖父、かつては自分の義父だった老人にそう言おうとしていると、小さな老人は男の心を見透かしたように言った。
「東京にいたって、事故で死ぬ時は死にますからね」
「そうですね」
さらに胸が苦しくなり、男はそう答えるのが精一杯だった。
その後淡々と通夜が済み、葬儀が済み、北の地の元妻の先祖の墓に二人が入るのを見届けたのが昨日の夕刻だった。
その間、死んだ息子の幼なじみのこの若い女は、まるで死んだ息子の妻かなにかのように、実によく手伝ってくれ、東京から来たこの男にまで気を遣い、なにくれと声をかけてくれた。東京の同年代の、たとえば男の勤めている会社の若い子たちに比べると、だいぶ違って「気はしのきく女の子」だった。
今も、寒い町のバス停まで、男を見送りに来てくれたのだ。
男は「バスが来るまでまだ一時間もある」と言ったのだが、元妻の実家に窮屈に寝泊まりしていた男を迎えに来た彼女が、小声で言ってくれた。ここはもう、居づらいでしょう、と。
ポストから目を離した男が県道の向かいの紅葉に目をやっていると、若い女がポストにそっと片手を掛けた。
「子供の頃、亮太君が必ず言ったんです」
「え?」
「『手紙を出しに行くから、一緒に行こう』って」
「このポストに?」
「ええ。あたし、いつも『いいよ、ついてってあげる』って。どこの誰に出す手紙なのか聞いても絶対教えてくれないんです。それと、『ぼくのお母さんには絶対内緒だ』って言って」
「ああ、あれか。うん、最初の頃、時々手紙が来たよ。今でもとってある。そうか、あれは女房に内緒で出してたのか」
「やっぱりそうだったんですね。ここのポストから出してました」
男は再びポストを見た。十数年前の、ポストに手紙を入れている少年の姿が浮かんだ。隣には、今ポストの角をそっとなでている、その若い女が少女に姿を変え、立っているように感じられた。
「あの子は、学校ではどうだったの?」
「静かでした。いつも静かで、図書館で本を借りて読むのが好きで」
「小さかった時のまんまだったんだな。いじめられたりしなかった?」
「いいえ、全然。友達とは仲が良かったです。ただ静かなだけで」
「そうか。いじめられなかったんならよかった。東京にいて、気が気じゃなくてね。転校生は昔から、最初にうまく溶け込めないと何かといじめられるもんだし、オレたちの子供の頃と違っていじめのニュースも多いから」
「こんな田舎ですもん。子供の数が少なくて、いじめも何もないんですよ。東京とは違います」
若い女が笑った。だが、彼女は一瞬息を吸い、何か別の事を言いたそうにした。
男は「何かあるの?」と聞こうとしたが、吹いてきた北の風の中で彼女がふっと息を吐いただけだったので、黙っている事にした。
また、何となく胸が詰まる想いがした。
そして、
淡々としてはいても慌ただしかった葬儀の一連の間、男にも彼女に言おうとしていた事があったのだが、今はもう、何も言わずに東京に戻るか、と迷い始めていた。どっちみち、あの話を彼女にしたところで意味がない。
若い女と男は、バス停の脇に何となく並んで立ち、二人で向かいの巨大な紅葉を見つめた。
「中学に入ったら、亮太くん、ものすごい成績がよくなって。あたしなんか全然ついていけませんでした」
「そうなの?」
「ええ。すごかったです。ウチの母なんか『やっぱり東京の子は違うねぇ』なんて、変な事言って。勉強に東京も田舎も関係ないですもんね」
「ああ。ないね」
苦笑した男に、彼女は続けた。
「だから高校は別々になっちゃいました。亮太くんは県立で一番の学校、あたしはこの近所でした。でも、家がすぐそばだったから、小さい時となんにも変わらなかったですけどね。亮太くんと、お母さんと、三人でよく買い物に行ったりしてました」
「ふーん。そう。小さい時からいろいろと世話になってたんだね。ありがとう」
「いいえ。世話なんて。ただの幼なじみですもん」
その後、彼女は男に手短に説明した。
男の息子は電車で通える県内の国立大学に行き、地元の、地方企業だが大手に就職したのだと。その事自体は男も息子からの時折の葉書で知っていたが、幼なじみの彼女から直接聞くと、何となく実感が湧いて不思議な気がした。
その、彼女の手短な感じが、やはり別の何かを言いたげに感じられた。
男もまた、さっきの迷いが戻ってきた。
だが、まだふんぎりはつかない。
彼女は、逝ってしまった彼の幼い頃の話をした方が気持ちが落ち着くらしく、話の時間軸をまた元に戻した。
「小さい頃、亮太くんの家に遊びに行くと、ミニカーがいっぱいあって」
「東京から持っていったやつだね。あの子は幼稚園に入る前からあれが大好きでね。なんだ、小学生になってもまだあれで遊んでたのか。ちょっと幼い小学生だな」
「違うんです。『こんなのもう飽きた』って言ってました」
「じゃあ、なんで」
「あたしが行くと、必ず段ボール箱を出してきて、そこからざらざらって出すんです。ミニカー」
「へえ」
「でね、いつも言うんですよ。『一つだけ東京に忘れてきたのがあって、それがここにないのがイヤなんだ』って。それが言いたいらしくて、わざわざ、ざらざらって」
男は驚き、しかし、やっぱりそうだっかとも思い、ブルゾンのポケットの中の物を握りしめた。
また、胸が苦しくなる想いだった。
そして、ポケットの中のそれを取り出すと、若い彼女に見せた。
やはり言おう。そう、気持ちが吹っ切れた気がした。
若い女は、男の手に乗っているそれを見て驚いた。東京都のイチョウのマークがついた、都営バスのミニカーだった。
「あ、それ……」
「これだよ。『一つだけ東京に忘れてきたやつ』」
つい最近、古い物を整理していた時、男が東京のクローゼットの奥で見つけたミニカーだった。どこをどうしたものか、離婚の引っ越しの時にこれだけが男の荷物の方に紛れてしまい、しかも十数年もの間、男に見つかりもせずに東京の彼の家に潜んでいたのだ。
「あったんですね。はい、確かに『バスだ』って言ってました。よかった、あったんだ」
若い女は男から都営バスのミニカーを受け取り、まるで死んだ彼を抱きしめるかのように両手の平で静かに包んだ。
老いた祖父母も、通夜に来た近所の人々や二人の故人の友達も、誰一人何も言わなかったが、男は、この幼なじみが、今の息子の恋人である事に薄々気づいていた。今、そのミニカーの握り具合でそれがよくわかった。彼氏が死んだのに気丈な子だなと、思った。
数日前に会って自己紹介をして以来、一度も彼女が泣いたところを見ていない。
だから、「彼女が言いたそうな別の何か」はだいたい聞かなくても想像がついていた。実は彼を好きで、付き合っていたという話だろう。真面目そうな彼女は、元父親の自分にそれを言いたいのだろうと思っていた。
また冷たい風が吹いた。バスはまだ来ない。
彼女が言った。
「あの」
「ん?」
「何だか変なんですけど」
「ああ。無理して言わなくてもいいよ。付き合ってたんだろ?息子と。わかるよ。嫌ならこれ以上何も言わなくていい。辛くなるよ、君が」
「ありがとうございます。えっと、それもあるんですけど……」
「ん?」
「これ」
彼女が厚手のコートのポケットから何かを出した。
男は、自分のそれを出した時よりももっと驚いた。この北の地を走る、あと何十分かでやってくるその路線バスの、古びたミニカーだった。
「亮太くんと、お母さんと、あたしと三人で、モールに買いに行ったんです。亮太くんが越してきて半年くらいの頃かな。これが新発売で。田舎のバスなんて滅多にミニカーにならないから、『ミニカーなんかもう飽きた』って言ってたくせに、これだけは欲しいって言って」
「そうか」
男は、偶然彼女と二台の小さな古いミニカーを交換するような状態になり、それを受け取り、手にしてみた。
「これを、買ったんだね、あの子は」
「お父さん」
「ん?」
「亮太くん、離婚もお父さんの事もイヤじゃなかったですよ。あ、離婚はどうかわからないですけど、お父さんの事は、絶対」
「え?」
彼女は、ちょっと貸してくださいという身振りで男から地方路線バスのミニカーを受け取ると、さっきもらった都営バスのそれと一緒に、赤いポストの上に並べてみせた。
「ここに手紙を出しに来る時、亮太くん、必ずこのミニカー持ってくるんです。何で?って聞いても、やっぱりそれも教えてくれなくて。でも、今、なんとなくわかりました」
「え?」
「お父さんに会いたかったんだと思います」
「え……」
「ほら。手紙はポストに入れればそのまま行っちゃうでしょ。でも、バスに乗れば東京まで行けるかもしれないって……」
「ミニカーじゃ、どうにもならないよ」
「そうですね。だけど、きっとほんとは、バスに乗りたかったんですよ。でも乗れないから、代わりにこれを、ね」
若い女は、地方路線バスのミニカーを、指先で少し転がした。
「今思うとちょっと可愛いわ。そういう男の子って。あ、離婚してお父さんに会いたかったのに、『可愛い』なんて言っちゃダメですよね。ごめんなさい」
「いや、いいよ。あの子もきっと喜ぶよ。そうか。会いたかったのか……」
男は女が小さく転がしているミニカーを見つめた。
「手紙に書いてなかったんですか?そんなような事」
「いや、全然。学校で社会科見学に行ったとか、運動会があったとか、それだけだったな。別れた女房から『本人が会いたがってる』って言われて実際何度か会ったけど、手紙には書いてなかったよ」
「そうですか。あの、あたしの事は?」
男は苦笑して答えた。
「ごめんごめん。子供の事だから怒らないでね。残念ながら、君の事は一度も書いてこなかった」
だが、彼女はそれを聞いてかえって笑顔になった。また、少年の日の彼が可愛く思えたらしい。
「そうですよね。あれぐらいの歳の男の子が、女の子の事なんか書きませんよね」
「まあ、そうだろうな」
その時、突然紅葉を揺らす、まるで赤色のような冷たい風が吹いた。
その風が、二人の呼吸を合わせるかのように胸を撫でていき、男と若い女ははっとした。
言おう。
二人の心が、同時に綺麗に澄み渡った気がした。
しかし同時に、男はまたあの胸の苦しい想いも感じた。元義父と話をした時も、葬儀の間もずっと感じていた、あの息苦しい想いだった。
男が先に口を開いた。
「本当はあの子のおじいちゃんとおばあちゃんに言うつもりで来たんだけど、葬式の時に二人を見てたら、言わない方がいいかと思ってね。誰にも言わずに東京に帰ろうと思ってたんだけど、やっぱり君には言う事にしたよ」
若い女は、清んだ心のまま黙って聞いている。
「あとだいたい七ヶ月なんだ」
「え」
「どうもタバコのせいらしいんだけど……オレ、末期の肺癌なんだよ」
彼がずっと感じていた「胸の苦しい想い」は、単に息子と元妻の死によるものだけではなかった。そこには、物理的な痛みも伴っていたのである。
彼女はそんな言葉は予想していなかったらしく、赤い風の中で絶句した。
二人とも、それからしばらくの間、長い長い時間が流れたような気がした。
だがやがて、風が去っていくと、彼女は静かに言った。
「そうですか……あの、あたしもあとだいたい七ヶ月なんです」
「え」
「あの」
彼女は、手にした地方路線バスのミニカーを、そっと自分の腹に当てた。
「亮太くんとあたしの赤ちゃんです。今、ここに」
男もまた、予期せぬ言葉に驚いた。
「あの子は、知ってたの?」
「いえ。言おうとしてたんですけど、突然あの事故があったから……」
男は一瞬当惑し、しかしすぐに彼女の気持ちを悟る事ができた。
彼女は自分が何を言ってもきかないだろう。ミニカーを静かに握る拳に、そんな彼女の性格と気持ち、あの子への想いが溢れているのが見てとれた。
「産むんだね」
「はい。必ず。いいですか?お父さん」
「大変だろうけど、君の決める事だ。オレには何を言う権利もない。それに、その子が生まれる頃には、多分、オレはもうこの世にいない」
彼女の目から涙が溢れた。
「お父さん。こんな事になるなんて」
若い女は、この時初めて実感を込めて「お父さん」と呼んだその男に抱きつき、激しく泣いた。
あとだいたい七ヶ月の命の男は、そんな彼女を紅葉を見ながらしっかりと抱きしめた。
その二人の体の間に、ミニカーと同じサイズの小さな命が宿っているのを、ひしひしと感じながら。
男は涙を流すまいと耐えた。この葬式に来るために、東京駅で新幹線に乗った時から固く決めていた事だ。
彼は決意を貫き、涙を流さなかった。だが、若い女を抱きしめながら、声が震えるのだけは止められなかった。
「長い間、あの子をありがとう」
「いいえ、そんな」
「それから、その子を頼む」
「はい。必ず」
男は小さな声で、震える小さな声で、彼女に尋ねた。
「あの子と君は、幸せだったかい?」
若い女は泣くのをやめ、静かに、しかしはっきりと、美しい声で答えた。
「はい。すごく」
「ありがとう」
「あたしこそ、お父さん」
古びたミニカーと同じ形のバスが来た時、男は東京の都営バスのミニカーを若い女に渡し、彼女は男に地方路線バスのミニカーを渡した。
「亮太くんに渡してあげてください。あたしとこの町の、思い出です」
「わかった。確かに。君はその都営バスを持っててくれな。そしてあの子の息子にあげてくれ。『君のお父さんが子供の頃に好きだったバスだよ』ってね」
「はい。わかりました。必ず」
末期癌の男はバスに乗り、窓越しに、地方路線バスのミニカーを握った手を小さく振った。
お腹に命を宿した若い女は、東京の都営バスのミニカーを握りしめた手を、何度も振り返した。
既に二人の命が失われ、もう一人の命はだいたい七ヶ月後に途絶える。
だが、その頃には、新しい命がこの世に、この町に、あの子の暮らしたここにやって来る。
男は、来てよかったと思った。本当にダメな父親だったが、それでも、人生の最後にこの町に来てよかったと思った。あの子を育ててくれた、この町に。
バスを見送る若い女は、去って行く命を見つめ、またやってきた紅葉の赤い風に吹かれ続けた。
そして、去って行く三人分の命の悲しさを想いながらも、都営バスのミニカーをもらった事が嬉しかった。
七ヶ月後の新たなこの命には、あの三人が幸せだった頃の、東京の都営バスのミニカーがある。それをあげる事ができるのだ。
赤いポストの脇に、小学二年生の亮太くんが立っているような気がした。
彼の手には、今自分が握りしめているのと同じ、都営バスのミニカーが握られている気がした。
紅葉が赤く鳴り、美しく清んで赤い風の吹く中を、若い女は家路についた。