研修日誌6。SEINO展 | 適当な事も言ってみた。

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~まあそれはそれとした話として~

1月31日/ギャラリー檜 SEINO展

SEINOは僕とともに予備校の講師として
数年辣腕を振るった作家である。自他共に厳しく、愛情に満ちた指導をする人だ。
年齢はいくぶん年下だけど、彼女からは随分多くのことを学んだ。

作家としてのSEINOは、綺麗なだけの芸術とは無縁である。
ただ鑑賞者が適当に「素敵ですね~」と言えるようなものを創らない。

元来、芸術とは癒しと同時に、人を傷つけるものだ。
厭な思い出を喚起したり、不安にさせたり、悲しませたりする。
古来から文学ではより悲劇が好まれ、
音楽では失恋を詠う名曲が多いことでもそれは解る。
それらの多くはカタルシスとしてのそれだが、SEINOの仕事はそれともまた違う。

SEINOは人々が生き、病み、老い、死ぬことをテーマにしている。
様々なメディアを駆使した作品は、観る者を狼狽えさせるかもしれない。
SEINOの作品は、悪臭や騒音、傷痕など、
五感に触れるのを拒みたくなるような要素に満ちている。

今回俎上に上がったのは「交通事故による死」であった。
路上に添えられた供花をモチーフとして、
緻密に構成された写真、パフォーマンス、インスタレーション、映像によって表現される。


そんな作品を通して想起したのは

「人はみな、最後には途中で死ぬ。物語の途中で」
We all — in the end — die in medias res. In the middle of a story.
という言葉だった。

スティーブ・ジョブズの妹が弔辞で語った名台詞だ。
蓋しその通りである。
とはいえ、それが不慮の事故であるなら、とてもいたたまれない。
自分や大切な人がそうして死ぬのは酸鼻である。
今さらながらにではあるが、改めてそう思い哀しくなった。

SEINOの一連作品を見直し、その余韻に浸りつつ新橋まで歩いてしまった。
そこもまた、一人の人物が突然の終わりを迎えた場所なのであった。