研修日誌5。(前編) | 適当な事も言ってみた。

適当な事も言ってみた。

~まあそれはそれとした話として~

研修の前日は飲みにいく佳い口実なので
今回は助手時代からお世話になっているM先生と銀座で飲んだ。
いろいろ相談事もあってのことだったが
いつも通り読んだ本の話と音楽の話で盛り上がり。大変に楽しかった。

それにしても
ソフィ・カルとオースターに密接な関係があったなんて知りませんでした。
「リヴァイアサン」読まないと。

10月14日/東京都美術館ターナー展

100%ターナーの作品。初期から晩年にかけてそこそこの銘品が並ぶ。
ターナーと言えばコレだという感じの作品は
初期の「雪崩」や、中期の「ヴァチカンのラファエロ」晩年期の「平和/水葬」
がそれにあたるだろうか。

マウリッツハイスの時ような躁状態ではないものの、それなりの入り。

ターナーといえば、ロマン派の泰山北斗として、
スペインのゴヤと並び称される存在だ。
「西洋絵画史のビートルズ」と形容されるように、突如として現れ、
次世代の画家達に決定的な影響力を遺した絵描きである。
こういった、まるで先達とのコンテクストが読めない
「いきなりな存在感」を放つ作家としては、イギリスでも空前絶後ではないかと思う。

凡愚な身からしてみれば、如何にしてターナーが出現したか、という疑問は、
それこそ如何にしてニュートンが出現したか、という疑問に同義であると思っていた。

展示されている初期の作品は、かなり大人く見えるものばかりで、
色鮮やかに捻転する「あの画面」は見出し難くはあるものの、
動きのある構図とマチエールに鋭い牙がチラ見えしていて
「羊の皮を被った狼」といった趣。

つまり、しっかり主流や伝統に根を張る堅実派だったのである。
ま、当然と言えば当然な話かもしれない。

中期に差し掛かり、若干34歳でロイヤル・アカデミーの教授に出世すると
実験的な色彩を試みるようになり、晩年はもう殆ど近代絵画の様相を呈してくる。
ロスコやザオ・ウーキー、ポロックを知る者であれば、
必ずそれらの先駆として見なしたくなるはずだ。

インパストとグラッシの応酬によって構築される画面は、
偶然性の力も借りつつ、幽玄なマチエールをもたらしている。
それはターナー自身の持つ、オールド・マスターへの畏敬からくるものに違いない。

改めてその画面を観て感じたが、
レンブラントとターナーの画面は非常に似ていると思う。
レンブラントは風景画を殆ど描かなかったし
ターナーも人物を殆ど描かなかったが、そこに在る「崇高さ」は同各のものである。

この二人をして「雪舟に通ずる」という指摘を大学時代の教官が述べていたが、同感だ。
おそらくはある意味、同じような境地に立ったのではないかと感じた。
そういえばレンブラントも、当時の価値観とはかけ離れた造形性を獲得している。

晩年の20年間は嘲笑の的ですらあったターナーの作品だが今やかの絵描きを嗤う者は居まい。

世相や毀誉褒貶に捕われず、作品の「完成」にも捕われない。
隣の美術館で開催しているミケランジェロも、そういえばやはりそういう晩年であった。

16世紀のイタリアのミケランジェロ、
17世紀のオランダのレンブラント、
18世紀のスペインのゴヤ、
そして19世紀イギリスのターナー、
綺羅星の如き巨匠たちの中でも、彗星のような輝きを放つ芸術家は稀である。
こういった作家たちの作品が、今日も観られるということを言祝ぎたい。