104人の大和魂  No.17 北条義時 | 社長力検定「後継者育成塾」

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 政子の演説後、上皇打倒の気運が燃え上がった。

朝廷軍が京都を立つ前に先手を打つことになり、

翌朝5月20日に泰時らが軍勢を率いて、京都に

向かった。「孫氏」の「兵は拙速を聞くも未だ

巧みの久しきを賭ざるなり」すなわち計略は

十分整っていなくても即行動すべしと実行に

移したのである。
6月3日、上皇方は藤原秀康を追討使として、

北陸、東海道等に差し向けた。近隣の御家人や

寺社に加勢を呼びかけるも拒否が相次いだ。

5日、幕府方との戦いになったが、あっさりと敗走。
 後鳥羽上皇は、秀康の敗北に狼狽し、比叡山に

逃れようと画策するが、延暦寺は「東国武士の

攻撃を防げない」と拒否。6月15日、泰時らが入

京し、「承久の変」が収束した。

日本史上唯一の上皇(天皇方)が民間人に敗

れるという事態になる。
義時は、首謀者である後鳥羽上皇を始め、

順徳上皇、土御門上皇ら3人を配流、仲恭天皇

を廃位させた。「承久の変」は、天皇と臣下の

立場が逆転するという、空前絶後の事件であった。

変後に朝廷を監視する「六波羅探題」を京に設置

した。通常、戦では相手の大将の首を取るのが当

たり前だが、嫡男泰時が上皇らの殺害に猛然と反

対したと言われている。戦乱を「乱」として、体

制の変化を「変」とすることから、本稿では

「承久の変」としている。
京都に攻め込む際、嫡男泰時が父義時に「上皇が

兵を率いてお出ましになったら、どうすべきか?」

と質すと「兜を脱ぎ、弓の弦を折り、畏まるように」

と義時が答えている。神の末裔である「治天の君」に

戦いを挑むことに畏怖の念を抱いていたことが分かる。

この時、上皇側が錦旗を掲げ、北条方と戦っていれば、

勝利した可能性が高い。変後は、日本の最上位にある「

治天の君」を後鳥羽の兄にすげ替え、元「神」

として後鳥羽を隠岐に配流にした。
総大将を泰時として京都へ送り込んだ後、義時の邸

宅に雷が落ちて、家人が負傷する。動揺した義時は、

側近の大江広元に「怪異が起きた。鎌倉(政権)は、

終わりか?」と問いかけた。「すべて天が決めること。

頼朝公が平泉の藤原泰衡を攻めた時に頼朝軍に落雷があっ

た。これは吉例に違いない。不安ならば、陰陽師に占わ

せたらどうか?」と不安を和らげた。すぐに陰陽師に占

わせると最吉と出たという。
 義時が歴史の表舞台に登場したのは、治承5年(1181)

に頼朝の寝所警護人11人の筆頭「家子専一の者」に選ば

れたことが最初である。この時、江間四郎として、

北条家の分家の苗字を名乗っている。嫡男宗時が、

「石橋山の戦い」(治承4年・1180)で死去後、

父時政は義時を後継者として考え始めたことが分かる。

NHK大河ドラマでは、「小四郎」と呼ばれたが、父親の

「大四郎」に対して、区別して呼称されていた。北条宋家

が得宗家と言われるのは、義時の法名から取ったものである。