関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年
(大正 12年)9月1日 11時58分32秒(日本時間 、以下
同様)、神奈川県 相模湾 北西沖80km (北緯 35.1度、
政府の対応
9月2日に発足した第2次山本内閣 は、9月5日、民衆に
対して朝鮮人迫害の自重を求める「内閣告諭第二号」
(鮮人ニ対スル迫害ニ関シ告諭ノ件)を発した。
日本政府は国家責任回避のため、自警団・民衆に
責任転嫁した。、また実際に朝鮮人がどこかで暴動
を起こしたという事実がないか、必死に探し回った。
冷静な判断力
朝鮮人を守った日本人
政府、軍部による「朝鮮人暴動」デマ情報に惑わされず、
冷静な判断によって、無実な人たちを守ったまともな日本
人らがいた。
人等300人の奪取を防ぐために、1000人の群衆に対峙して
「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから
連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆
を追い返した。さらに「毒を入れたという井戸水を持ってこい。
その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升ビンの水を飲み
干したとされる。
之介大尉(後の第一航空艦隊 参謀長)は「朝鮮人が漁船で
大挙押し寄せ、赤旗を振り、井戸に毒薬を入れる」[等のデマ
軍人の武器放出要求に対し断固として許可を出さなかった。
横須賀鎮守府は、戒厳司令部の命により朝鮮人避難所となり、
身の危険を感じた朝鮮人が続々と避難している。
前から一緒に住んでいた朝鮮人を自警団から守るために
一致団結した。また、朝鮮人を雇っていた埼玉県町工場の
経営者は、朝鮮人を押し入れに隠し、自警団から守った。