月光仮面
月光仮面 | |
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月光仮面 左はどくろ仮面
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ジャンル | テレビドラマ |
放送時間 | 18:00 - 18:30(第1部第1話) 月曜 - 土曜 18:00 - 18:10(第1部2話以降) 日曜18:00 - 18:30(第2部 - 第3部8話まで) 日曜19:00 - 19:30(第3部9話 - 第5部まで) |
放送期間 | 1958年(昭和33年)2月24日 - 1959年7月5日(130回) |
放送国 | 日本 |
制作局 | KRT(現:TBSテレビ )系 |
企画 | 宣弘社 プロダクション |
監督 | 船床定男 |
原作 | 川内康範 |
脚本 | 川内康範 |
プロデューサー | 西村俊一 |
出演者 | 大瀬康一 |
概要
日本初のフィルム製作による国産連続テレビ映画であり、
日本のヒーロー番組の元祖でもある。時代劇と探
偵活劇の要素を組み合わせた作風は、その後のヒー
ロー番組に多大な影響を与えている。
漫画化された後に実写映画 化されている。その後、
1972年にアニメ テレビドラマ化、1981年に実写映画化、
1999年にはキャラクターを転用したテレビギャグアニメ
化もされた。
企画経緯
『月光仮面』前年の1957年(昭和32年)の11月からKR
番組形式の「国産初のテレビ番組」として、コメディー時
代劇『ぽんぽこ物語』(東京テレビ映画 制作、宮崎博史 原作・
川内康範脚本)を放送していた。しかしこの番組は人気を
得られず、時代劇ということで予算もかさみ、翌年2月での
打ち切りが決まり、、武田薬品工業 がスポンサー降板を
考えていた。このため武田薬品と縁の深い広告代
理店宣弘社としては番組枠を押さえ続けるため、その後釜
としてのテレビ番組制作を急遽企画しなければならなくなった。
企画に参加した西村は、「『鞍馬天狗 』のような番組はどうか」と
川内に提案した。予算不足から時代劇は無理となって、これを現
代劇とする方針が決まった。そこで、川内はこの西村の案を
基に人々の危機に颯爽と現れる『おどる仮面』との番組原案
を執筆した。
この題名を物足りなく感じた西村は、「人々の苦難を救済する
=菩薩 」をイメージしたネーミングとして、「日光菩薩 の名を借りた『日
光仮面』」を考案、さらに進めて「月光菩薩 の名を借りた『月
光仮面』」へと発展し、これが決定案となった。
放送日は2月24日からと決定していたものの、年頭の段階で
は何も決定しておらず、西村は慌ただしくスタッフやキャスト
の人選を行わなくてはならなかった。そこで西村は以前在
籍した「綜芸プロダクション」で伊藤大輔 に師事し、助監督
や編集を務めてきた船床定男 を26歳の若さで監督に抜擢。
オーディションによって抜擢した。大瀬の抜擢の最大の理
由は、小林社長によると「声の張りの良さ」だったという。
大部屋俳優を主演に添えたのは出演料を安く抑えるため
でもあった。
製作エピソード
川内作詞、小川寛興作曲の主題歌『月光仮面は誰でしょう』
(歌は近藤よし子、キング子鳩会)と共に子どもたちの圧倒的
な支持を受け、平均視聴率は40%、最高視聴率は67.8%(東京
地区)を記録し、放送期間は当初の3ヶ月から大幅に延長さ
れた。放送時間には銭湯 から子どもの姿が消えたという。『月
光仮面は誰でしょう』のレコードは当時の子ども向け楽曲とし
ては異例の10万枚以上を売り上げる大ヒットとなった。
タカトク のお面などの関連商品もヒットした。それらは全て無
の宣伝につながるわけですから、『どうぞ、どんどんやって下
さい!』と応えて、お金なんかもらわなかったですよ」と述べて
いる。これが当時の常識だった。
しかし、識者と言われる層からは評判が悪く、俗悪視され、
月光仮面の真似をして子どもが高所から飛び降りて怪我ま
たは死亡する事故が続発し、新聞や週刊誌から「有害番組」
だと批判を受け、1959年3月には『週刊新潮 』を川内が提訴す
る騒ぎも起きた。この結果、1959年7月5日をもって打ち切りに
なった。最終回の視聴率は42.2%(東京地区)だった。
キャラクターとしての月光仮面
月光仮面は、悪人によって危機に陥った人々の前に颯爽と現れる
正義の味方である。白いターバン と覆面 の上に黒いサングラスと
白マフラー、白の全身タイツ に黒いベルトを着け、裏地に色のつ
いた白マント をまとい、手袋とブーツを着けている。正体ともども、
衣装をまとった扮装者なのか、超常現象をともなった変身者な
のかも謎である。能力的にも生身の人間なのか超人なのか微
妙なところがあった。
月光仮面の実際の衣装の色は、白ではなく薄黄色だった。マン
トは表が黄色、裏地は黒だった。カラーで掲載される際や
実写の着ぐるみやフィギィアではその色で塗色されていた。