1929年2月23日・説教強盗 | 社長力検定「後継者育成塾」

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逮捕された妻木松吉(1929年2月)

妻木 松吉(つまき まつきち、1901年明治 34年)12月13日 -

1989年平成 元年)1月29日 )は、日本昭和 時代の左官

強盗 強姦犯。防犯講師。大正 末年から1929年 (昭和4年)ま

帝都 東京市 で犯行を重ね、立ち去り際に被害者に防犯の

注意をしたことから「説教強盗」と呼ばれ、世間を大いに賑

わせた。服役後は自らの体験を元に各地で防犯講演を行った。


生い立ち

1901年明治34年 )、山梨県 甲府市 橘町(現・甲府市丸の内)の

甲府監獄(現・甲府刑務所 )に生まれる。母の妻木たか(本名妻

木ウメ)は山梨県 西八代郡 市川大門町 (現・市川三郷町 )の野

守(非人 )の娘で、製紙会社の工員として働いていたが、同僚

の河西徳太郎と知り合って同棲するようになった。妊娠8~9ヶ月

の頃に窃盗罪で逮捕され、懲役3月の実刑判決を受け、甲府監

獄で松吉を私生児 として出産した。

松吉が出まれた直後に実父は肺炎で死亡。母は出所後、市川

大門町の河川敷の生家に戻り、ここで飴の行商をしながら松吉

を育てた(このため、松吉の本籍は母の生家である市川大門町

無番地 となった)。

1907年 (明治40年)数え 7歳の時、母が中巨摩郡 三恵村 加賀美

(現・南アルプス市 )の野守の近藤米造と結婚。その後母は8人

の子をもうけ、生活は極貧であった。1913年 (大正2年)加賀美

小学校を卒業すると、県内の中巨摩郡田富村 (現・中央市 )・同

南湖村 (現・南アルプス市)などを転々と奉公に出された。のち

山梨化学工業 株式会社に勤務したが、1年で退職。大井村 (現・

南アルプス市)の精乳舎に配達夫として住み込みで勤務したが、

この頃から集金をごまかすようになった。スリの現行犯で逮捕され、

1920年 (大正9年)6月9日 には詐欺 窃盗 横領罪 で8か月の懲役を

言い渡されて、甲府刑務所 で最初の服役生活を送る。

説教強盗

1926年 (大正15年)各方面への金策もつき、金に困った松吉は7月

30日、黒川健三宅および岡部ひさ宅に侵入。初めは失敗することも

あったが、やがて堰を切ったように盗みを重ねるようになる。翌1927

年(昭和2年)5月5日 家守康宅に侵入した際、住人に戸締まりの甘さ

を注意したり犬を飼うよう忠告したことなどから、東京朝日新聞 の伊東

尽一記者(一説には三浦守(後に作家の三角寛 となる)記者とも)によ

って「説教強盗」と命名された。

逮捕

1929年 (昭和4年)1月10日 、前年までに59件(うち暴行7件)にものぼった

説教強盗事件を本格的に捜査すべく再び大評定を開催。関係各署にも

協力を求め、特別捜査本部を設置した。同月19日 には朝日新聞社

説教強盗を捕えたものに1,000円の懸賞金を支払うとの社告を発表。

同月末にも警視庁の大捜査が行われたが逮捕はされなかった。

2月2日 には東京市民が警察の力が頼りないとして青年団・在郷軍

人会が自警団を結成。同4日 には帝国議会 において「帝都治安維

持に関する決議案」が提出されるにいたった。

2月6日 には銀座 松屋 前で模倣犯である「説教強盗二世」岡崎秀之

助が逮捕される。岡崎は三宅やす子 宅、下田歌子 宅など有名人の

家を襲い、7箇所で強盗を働いていたが、警視庁が追う「第一世説

教強盗」ではなかった。

2月16日 警視庁は再調査の結果、1926年夏の犯行も説教強盗に

よるものであることを突き止め、現場に残された指紋から、かつて

甲府刑務所に服役した松吉のものであると断定した。捜査員が出

所後の松吉の行方を追う中で、ついに2月23日 午後6時50分、松

吉は自宅にて逮捕された。何の抵抗もなく「お手数かけてすみま

せん」と神妙な態度だったとい。逮捕に至るまでに動員された

警察官は12,000名に及んだ。朝日新聞が懸けていた賞金1,000円

は警官たちに贈呈されている。