1857年(安政4年)12月20日・松下村塾開校 | 社長力検定「後継者育成塾」

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松下村塾


松下村塾
松下村塾の講義室

松下村塾(しょうかそんじゅく)は、江戸時代 末期(幕末

長州藩 士の吉田松陰 が講義した私塾 である。長州

城下の松本村(現在の山口県 萩市 )に、松陰の叔父

である玉木文之進1842年天保 13年)に設立し、

松陰も学んでいる。


変遷[編集 ]

松下村塾は木造瓦葺き平屋建ての小舎で、当初からあった

八畳の一室と、後に杉家の母屋を増築した十畳半の部分

からなっている。

1842年天保 13年)に松陰の叔父、玉木文之進 が自宅で

私塾を開き、松下村塾と名付けた。

ついで松陰の外叔、久保五郎左衛門 がその名を継承し、

子弟の教育にあたった。

1857年安政 4年)に藩校 明倫館 の塾頭を務めた吉田松陰

がこれを引き継ぎ、1858年 (安政5年)に松陰が野山獄に

再投獄され廃止された。

武士町民 など身分の隔てなく塾生を受け入れた。明倫

館は士分 と認められた者しか入学できず、町・農民はもちろん、

武士に仕えながら卒(卒族 )、軽輩 と呼ばれた足軽中間 など

も入学できなかったのと対照的であった。

短期間しか存続しなかったが、尊王攘夷 を掲げて京都 で活動

した者や、明治維新 で新政府に関わる人間を多く輩出した。

塾生名簿は現存しないが、塾生は約50名ほどいた。著名な

門下生には、尊王攘夷、倒幕の全国志士の総元締の役割を

果たした久坂玄瑞吉田稔麿入江九一寺島忠三郎 、この

人々の死んだ後を受けて藩論を倒幕にまとめ、征長の幕府

軍を打ち破った高杉晋作 がいた。高杉晋作、久坂玄瑞は、

「識の高杉、才の久坂」と称され、「松下村塾の双璧」と呼ば

れた。また、この2人に吉田稔麿を入れて松陰門下の三秀
と言い、さらに入江九一を合わせて「松下村塾の四天王」と

称された。



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