神の指定席に座るというタイトルで説教した箇所
YouTube 進藤龍也罪人の友 主イエス・キリスト教会というチャンネルに残されたメッセージは今日の通読箇所で列王記17章の預言者エリヤの力の源は、神の指示通りに動いた。それが力の源。神に指定された場所に行く時に神は不思議な方法、奇跡によって養われる。それを体験することにより明確な信仰が確立される。
人間的には不可能と思われる中で、神に従う時、神は奇跡を行う。
それを偶然と捉えるか?神からの賜物と捉えるか?感謝に溢れ生活しなさいと聖書の至るところで語られているが、感謝に溢れる生活とは、敏感に神を感じることではないだろうか。
神からのものであるのか?それとも悪魔からのアクシデントであるのかと言うことを見極めなければならない。
神の道具として、預言者エリヤを養ったやもめの息子が死んだ。神が天国に引き上げたのか?そうではなく、これは文面からすれば、預言者エリヤから、そして神からこのやもめを引き離すため、悪魔からのものだと私は読み取る。サレパテの地はイゼベル王妃の地元で偶像礼拝の地である。やもめはエリヤを通して主なる神を信じたと思われる。
[列王記 第一 17:17,18]
これらのことの後、この家の女主人の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。
彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはいったい私に何をしようとされるのですか。あなたは私の咎を思い起こさせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」
適用
神への信仰から引き離される様々な事柄において、(互いの)人からの言葉もあるし、悪魔からのアクシデントもある。あるいは神からの訓練もある。よく見極めなければならない。と、いうのはみきわわた上で、祈るからである。トンチンカンな祈りをしなくて済む。
[列王記 第一 17:20,21,22]
彼は主に叫んで祈った。「私の神、主よ。私が世話になっている、このやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」
そして、彼は三度その子の上に身を伏せて、主に叫んで祈った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに戻してください。」
主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちがその子のうちに戻り、その子は生き返った。
祈り
私の父よ。私の神よ。私の救い主よ。私の誉よ。私の命を感謝します。私の人生の中で正しく物事を判断し、霊的な洞察力を与えてください。あなたにより頼む時、正しく判断して祈りたいのです。聖霊様感謝します。アーメン