開拓伝道の苦労と喜び コリント9章 | 進藤龍也牧師のヤクザな日記

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開拓伝道の苦労と喜び


コリント9章はまさに開拓者の苦悩が書かれている。

開拓伝道といってもいろんな形がある。

株分けされて信徒と共に遣わされたり、

土地建物を買ってから遣わされたり、

知らない土地に遣わされつつも毎月のサポートがあったり、なかったり。


パウロは異邦人の使徒であり、開拓者であった。

多くの人がするであろう自活伝道者だ。

私とパウロは同じ自活伝道テントメーカーつまり、自分の生活は自分で面倒を見る。休みの日には教会の礼拝を導く。とても骨の折れることなのだ。そこに喜びと希望がある。


献金から教えなければならないのだから、それは難しいことであった。献金はしばらく回さなかった。師匠のたっての希望、信徒が献金しなければ恵まれない!とのことで現金を回すことにした。もちろん、ある程度育ってきてたので、そうした。


本当に今思うと辛かったけど、ワクワクしていたなあ!奇跡をいっぱい見たな。神様を近くに感じることもできたな。30代で若くしてやってきて良かったな!今では苦労は勝手でもしろという昔からの言い伝えが身に染みる。苦労して良かったなと。そして今がある。そしてたくさんの人との出会いがあり救いがある。


パウロの苦悩と喜び!それはまさに、数々の書簡に表されている。


[コリント人への手紙 第一  9:6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17]

あるいは、私とバルナバだけには、生活のために働かなくてもよいという権利がないのですか。

はたして、自分の費用で兵役に服す人がいるでしょうか。自分でぶどう園を造りながら、その実を食べない人がいるでしょうか。羊の群れを飼いながら、その乳を飲まない人がいるでしょうか。

私がこのようなことを言うのは、人間の考えによるのでしょうか。律法も同じことを言ってはいないでしょうか。

モーセの律法には「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。はたして神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。

私たちのために言っておられるのではありませんか。そうです。私たちのために書かれているのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは、当然だからです。

私たちがあなたがたに御霊のものを蒔いたのなら、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。

ほかの人々があなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちは、なおさらそうではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。むしろ、キリストの福音に対し何の妨げにもならないように、すべてのことを耐え忍んでいます。

あなたがたは、宮に奉仕している者が宮から下がる物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇のささげ物にあずかることを知らないのですか。

同じように主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。

しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は権利を用いたくて、このように書いているのでもありません。それを用いるよりは死んだほうがましです。私の誇りを空しいものにすることは、だれにもできません。

私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。

私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。


適用

[コリント人への手紙 第一  9:26,27]

ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。

むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。


1.礼拝中心の生き方を変えない

2.献金も忠実にする

3.決められた献金以上をこれからもする


祈り

体が本調子ではありません、癒してください。通常業務ができることに感謝!白井さんの心を支えてください。和樹と連絡取れて感謝します。明日の礼拝も臨在ください。今日の葬儀に救いがありますように。アーメン