モーセの痛み、愛の痛み
【愛は痛い】これは私の牧会18年の集約的言葉である。
[民数記 11:10]
モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入り口で泣くのを聞いた。主の怒りは激しく燃え上がった。このことは、モーセにとって辛いことであった。
観察
イスラエル民族、荒野の40年の旅路は不信仰と不従順における結果である。
しかし、そんな中でも神の一方的な恵みと愛に包まれて、育まれていく。
暑い砂漠で雲の柱、寒い砂漠の夜は火の柱。
私たちの人生の旅路のように、感謝な日々も当たり前となって不満を漏らす。まさに荒野の40年は現代でも起こりうる。
今回もマナに飽きた選民は肉が食べたいと不満を漏らす。神に命を助けてもらったことなんて、忘れている恩知らずと言って良い。
【モーセの痛み】
民が泣く。この痛み。生活苦の痛み。また、神への信仰への痛み。イエス様がラザロが死んだ時(ヨハネ11章)に群衆の不信仰に憤ったような痛み。神の怒りへの痛み。
私も愛する教会員への痛みがある。力不足な時、何もしてやれず祈るだけの時。怒らせてしまった時など、真剣に愛しているからこそ愛は痛いのである。
適用
いつもモーセのように痛みを神の前に持ち出すこと。
祈りは神を変えるものではない。
祈りは状況を変えることはあっても、それが目的ではない。人の救いであり、成長が目的。
祈りは自分自身を変えるものだ!
祈り
罪友教会に遣わされた第3回能登半島支援は予想を遥かに超えて素晴らしいものになったことを感謝申し上げます。疲れをとってください。アーメン