『中性・中庸』真ん中を論じる前にまずは端を振り切れ! | 背伸びしなくてもいい。等身大のわたしのまま しなやかに生きていこう✨

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“本当の自分を見つけた花は咲く場所を選ばない”

“今日の花を摘もう”

生きにくい、生きやすいって誰が言い出したんだろうか… 生きやすさをゴールに目指すから、余計生きにくさを感じるのではないか?最近そんな思いにふける占い師のブログ。

こんにちは。tumuguです。

まずはブログの題名ながっ!!(笑)


最近の私は聞く読書にハマっています☺️

忙しい日常で耳だけに集中できる聞く読書は、

AmazonのCMの思惑通りに私の耳にもピッタリと♪


もちろん、書店員という仕事上、接客にも活かせたら〜というのが2番目の理由ではあったけれど。


次々と聞き終える内に自分がチョイスしている本には傾向があることに気が付きました。


それはスピリチュアル的ではなくどちらかというと言葉にするにはタブー。だけど皆 心のどこかでその違和感をとらえ見て見ぬふりをしながら、おざなりになってしまっている意識。でも本当は自分を根幹から揺るがすかもしれないと触れないようにしていること。


私にとってそれは母性と言われるものや、男性優位の社会の中での女性としての在り方だったりと、弱まったり緩んだりすることもなく女性が負う責任はより増えるばかりだ。まるで、ずっと磔され続けているようだ…と思う。



ここ最近私は、スピリチュアル的であったり現実的であったりと両方の面から 男性性、女性性についてよく考えます。



母性については、子育てをしている者であるならば 自身の子育てついて急に自信が持てなくなって子供に対しての態度を振り返ったり見直したりすることが多かれ少なかれ あるのではないでしょうか?



そんな時 私の『母性』ってどこから来ているのか?

またどこから生まれるのか?

もともとあったのか? あるとして、

それは、子を産み育てる過程で培ってきたのか?

そもそも私が母性とするそれは本当に母性なのか?


とか。また、


自身の息子を見ていてこの子は結婚には向いていないだろう、誰かとの共同生活もきっと無理だろう… などといわゆるダメ男を生産している自覚もあるので、余計に未だ理解しきれていない異性に対して、男性とは?また対して女性とは?とつい考えてしまうのです。



また 男性性 女性性についてはスピリチュアル界隈では大昔から切っては切れない問題であるのは事実。



陰と陽が、女性と男性だと形容されるのもあらゆる生き物で実在しているのだから、目に見えない世界にも、実世界にもあらゆる問題や疑問を投げかけ続けてくれる。私は本当に勉強不足だから性の問題によって積み重ね続けられてきた歴史もその史実も知らない。



けれど、これだけ両世界に存在感を持っているのは、

「実際に見える」ということを抜いても、やはり、

意識を持つ必要があるように思えてならないのです。



興味がない人にとっては本当に退屈でしかない話だと思うけれど、


この私でさえ スピリチュアルに触れ始めた頃は 陰と陽?w?だからなんだっていうの?



カルマや浄化などとに並ぶそのスピリチュアル的用語を小馬鹿にしていたほどです😅



どこから興味を持つようになったのか… と思い返して出てきたのは、たぶん、自分探しをしていた時、



他の星から引き継く過去世からの自分の性分を知ったり、何やらいろいろと悟ったりしてスピリチュアルへの興味が落ち着いた頃、



今度は生き物として存在している今の自分の開放を意識した時だったように思います。



悪も闇も私の中で存在していていいのだ。と、丸ごとの私を受け止めた時、物凄い気付きと共に開放が訪れた。自分の闇の存在を引き出し、自分で気付くように導いてくれたゆりえさんには今も感謝しています。

やはり、地球視点で留まっていたなら決っして気付くことは出来なかったことでしょう。



スピリチュアルに立ち戻って言えば、宇宙視点で自分をとらえることが出来たから、他の星の次元遥かに超え善も悪も無い大元の意識世界の視点です。



たとえ、こたつに入って温々とブログを書いていても一瞬でその世界、視点に瞬間的に切り替えられる。そこに瞬間移動できる。どこにいても。だからこそ、私は色々なパラレルに存在しているとも実感できる。だからブレない。



だけども、性別、善悪が存在している地球の住人として存在している人間としてのパラレルの私は、現在、

善悪や男性性、女性性の二元性が気になって仕方無い。何やら凄いヒントが見え隠れしているのは分かっていて… 



それは、たぶん、ヒト科、魂?が覚醒なんて遥かに超え、大元の次元に近づく次元上昇なのか、地球丸ごとステージが変わるのか、はたまた一旦地球上の生き物が一掃される前、生き残る為の🔑、気付くか気付かないかの運命の分かれ目の切符なのか。。



大昔からの口伝としてでさえ伝えられてきた、

人が人の肉体を持ったまま、落とされ、また再び登ることを長きに渡り解いてきた秘技、日常の中でさえそのヒントが散りばめられているのをどれだけの人が受け止められているのだろう。善悪、男性性女性性、本能と理性が行き来するのはいつも『真ん中』。その『真ん中』の意識は常に天へと直通だ。



実は今回、ここ最近頭にいつもあるけれど、ぼんやりしているから書いて頭をすっきりしたくて書き出したので、まさかこんなにスピリチュアルになるとは…


最初の書き出しはこんな感じ…


例えば、最近何度となく遭遇した場面について。

細い道でこっちに向かってくるおじいさんは必ずといっていいほど、彼らは決して道を讓らない。

爺さん達はこちらが避けるのが当たり前だと思っている?ふしがあるようだ。まるで道を譲るという考えが最初から無いみたい。女が道を譲るもの。

女は男の三歩下がって歩くべきの時代に育てられた世代の爺さん達、私の世代では彼らが老害だ。


きっと育ってきた時代自体に問題があるのだろう。

でも、それは時代の問題だけではない。


女性自身、女性性のせいだとも思う。


女性は今日、たいてい 受け身だ。

周りの空気を読む力は物凄く長け、周りの反応に敏感で人に合わせる能力が高い。気が回りすぎて疲れ果てるほどに…


家庭を持つと、たいていの母親は自分の事は後回し。朝から晩まで家族のスケジュールに先ずは自分をスケジュールにフィットさせる。ただただ帳尻を合わせる毎日。振り回されていくことが当たり前のルーティンになり、これは私が負う全て自分の義務だ。と、落とし処を作り、無理が効く内は深く考える時間も惜しいというように、まるで働き蜂のようにぶんぶんと飛び回る… 無理が効く内は。



最近の男子は女性化している。とか、

男女共に自己主張を忌み嫌いとにかく目立たず埋もれていたい若者が増えている。とか、


言い換えれば『真ん中』寄り、神意識レーンに乗っているのだろうか?


でも、違う と思う。


私が私の中に善だけではなく悪としての私を優しく認めて受け止めたからこそ、私は脱皮できた。


 

男女なく中性、ジェンダーレス。それが神に近付いていると、してでもだ。


何かが 違う。そうじゃない。


両端の違いを、カラーを、そのお互いの個性を非難せず、間違わず、ちゃんと受け止め認め合うこと。


そして認め合う時にはフラットな地盤が必要であること。



その思考の地盤が、


『中庸』であり、

『真ん中』だと思う。



真ん中に寄るのは 悪いことではない。 


でも 何か大事なことを

思いっきりすっ飛ばしているように思えてならない。



何だ?何か大事なことって?


その答えを掴みきる前にこうして書いてはいるけれどなんとなく、何となく ぼんやりと片鱗を感じ取っている。私達が次のステージ、扉の前に立っている。


例えば その扉の前、一度、

何かを壊さなければならないのかもしれないけれど…



確認しあって(思いきり)受入れること、

そしてその違いを感じ楽しむこと。


そしてその次は静寂すること。 


その後は壊すのか、壊れるのか、

その先が今はまだ見えないけどそう感じる。



今日はこの辺で。また、書きます😉