に 語り伝える事は、

 

真実は

 

つまらないからであろうか、

 

多くは 皆、虚言である。

 


人は 実際より

大げさに 話を作るが・・、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まして 年月過ぎ、

また場所も

離れていれば、

 

 

言いたいままに話を作り、

 


筆で文字に

書きとどめて

しまえば、

 

それが 定説になってしまう。


 

 

 

 

 

それぞれの専門の道に達した

達人の技なども、

道理を 知らない人で

 


その道を 知らない人は、

やたら神のように言うけれど


その道を 知っている人は 

まったく信じる気も 起こさない。

 

 

と 実際に見るのとは、

何事も違うものである。

 

 

 

 

 

 

一方では、すぐ嘘、と 

ばれるのを顧”かえり”みず、

 

口任せに 言いふらすのは、
 

すぐに 根拠の無い事とわかる。

 

 

 

 

 

 

 

又、自分も本当らしくないとは

思いながら、
 

人が言うままに、鼻のあたりを

ひくひくさせて言うのは、

 

その人自身から出た虚言ではない。

 

 

いかにも本当っぽく、

 

所々話をぼかし、

 

よく知らないふりをして。
 

 

そうはいっても、つじつまは

合わせて語る嘘は 

 

・・・恐ろしい事である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分にとって面目の立つように

言われた虚言は、

人は大きくは 抵抗しない。
 

 

皆人が面白がっている虚言は、

 

一人「そうではないようだが」と

言っても仕方ないので、


黙って聴いているうちに

証人にさえされてしまい、


いよいよ嘘が 事実のように

なってしまうのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

に角、 の多い

世の中である。

 

 

 

ただ、常にある、めづらしくも

無い事のままに 心得れば、
 

万事、間違えることは無い。 

 

 

 

 

 

 

庶民の語る話は、 

 

どれも おどろくような

面白い話ばかりである。

 

だが、 まともな人は 

怪しい話は 語らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

そうはいっても、聖人伝や

高僧伝などは

 

むやみに 疑うものではない。

 

 

こういう話は 世俗の虚言を

心の底から信じるのもばからしいし、
 

 

「ありえない」など言っても 

仕方ないことなので、
 

大体は 本当のこととして

受け取っておいて、
 

熱心に 信じてはいけないし、

 

だが、疑って

馬鹿にしてもいけない。

 

 

 

吉田兼好