「今日は世界で私より有名な女性と参りました。私たちは2人で一つなんです」これに、幸夫人は満面の笑みで応えた。まるで外遊を新婚旅行と勘違いしたかのようなバカッブルぶりを見せているのは、他ならぬ鳩山由紀夫・幸夫婦である。

今月9日、訪中した鳩山首相は、北京の日本大使公邸で開かれた在留邦人によるレセプションで、冒頭のように挨拶した。そして、恥ずかしげもなく、こんな"のろけ"を続けた。「政権ができたてのホヤホヤなのに、アメリカ、デンマーク、そして今回の韓国・中国と、三度も外遊に出て大丈夫か、とよく聞かれます。でも、妻がいるから大丈夫です!」

いくらメディアをシャットアウトした日本人の集まりとはいえ、これが一国のリーダーの発言かと思うと何とも情けない。

(週刊文春、2009/10/22より要約)

 新潮45、2000年3月号に「仮面政治家鳩山由紀夫に渡した5千万円のヤミ献金」と題した手記が掲載された。執筆したのは、富士銀行不正融資事件で実刑判決を受けた元リゾート開発会社の社長。


 彼によれば1986年から1991年にかけ、ヤミ献金やパーティ券の購入などで約5000万円を鳩山由紀夫に提供したという。

鳩山由紀夫は、「パーティ券300万円分を購入してもらったが、事件発覚後の1991年秋に返却した。それ以外の金銭授受は天地神明に誓ってない」と言明、社長を名誉毀損で告訴。社長も誣告罪で鳩山由紀夫を逆告訴した。


 このヤミ献金疑惑に関して、いまだに真相解明はなされていない。そればかりか、新たな疑惑が浮上した。


 2009/6/16の朝日新聞は、鳩山由紀夫の政治資金管理団体「友愛政経懇話会」の03~07年の政治資金収支報告書120万円分に5人の物故者の名前がある事実を報じた。

 週間新潮2009/7/2号は、報告書にはこの故人献金の他にも献金者捏造、架空住所記載が散見されるとさらなる疑惑を指摘した。


 鳩山由紀夫は6月30日、記者会見を開き、「調査で、延べ193件の、虚偽、架空名義の献金、合計2177万円が見つかった。秘書に預けていた鳩山個人の金を会計実務担当の公設秘書が独断で虚偽記載した」と自らの責任を否定した。


 が、この説明には納得できない。

友愛政経懇話会の2007年度の収支報告書には、鳩山由紀夫個人からの8000万円の借入金が記載されている。個人の金を秘書に預けたというなら、なぜ従来通り借入金として処理しなかったのか?


 虚偽記載された架空献金の原資は、鳩山由紀夫の個人口座から出ている。4年間で2000万円を超える金が引き出されていながら、「気づかなかった」とは奇怪ではないか。


 鳩山由紀夫は毎年、この団体に、1000万円近い献金をしているが、なにも秘書に預けていた金から引き出させるという迂遠な方法ではなく、直接、献金すればいいのではないか?そもそも、秘書にあずけていた金とはいったいなんなのか?疑惑は残ったままだ。

(新潮45、2009/9より要約)

 愛人とは、室蘭の歓楽街でマキママとして通っていた、当時、48歳のクラブママ。当時、鳩山由紀夫は49歳。

 鳩山由紀夫とマキママが特別の関係になったのは、1984年に、室蘭・中央町にケーラブラボーというクラブが開店したときのこと。
当時、マキママは、このクラブの雇われチーママをしており、彼女の知り合いの保険会社の勧誘員の上司が、鳩山由紀夫の同級生だったことから、鳩山由紀夫がこの店のオープンに顔を見せたのだという。

 マキママは1991年からクラブ女女のオーナーママとして独立していた。ふたりの逢瀬の舞台は、鳩山由紀夫が住んでいた室蘭・中央町のマンションから、高砂町に鳩山御殿と呼ばれる一戸建ての豪邸が建てられてからはこちらに移った。鳩山夫人は不在がちだったことから、マキママは鳩山由紀夫の洗濯物やアイロンがけも甲斐甲斐しくこなした。

「由紀夫さんとマキとの関係は愛人関係なんてものじゃなかったわよ。ほとんど現地妻っていうような感じだった」と、二人の逢い引きの世話をしていたというマキママの友人は証言している。彼女によれば、鳩山由紀夫は、マキママに「女の子を産んでほしい。娘と君が待っている家に帰るような生活がしたい」と頼んでみたり、「これは女房には相談していないのだけれど、竹下派に残ろうかどうしようか迷っているんだ」と悩みを打ち明けていたそうだが、こんなセリフもはいたと言う。「僕はいずれ総理になるんだ・・・・」


  マキママは店の経営に失敗。あちこちに借金を重ね、ついにはその総額が1億円とも言われるまでにふくらんだ。当然ながら音羽のセンセイのもとに駆け込んだ。後に、この際に交わされた、マキママと鳩山事務所秘書との電話のやりとりを録音したテープが流出することになる。マキママは鳩山事務所の秘書から1300万円を受け取った。要するに手切れ金だが、この程度の額では借金の返済は無理だったようで、翌年には、多額の借金を残したまま、室蘭から失踪してしまった。

 当時、鳩山由紀夫は取材に応じず、対応した鳩山事務所の筆頭秘書は、こんなふうに答えている。「その女性と鳩山が十年ほど前、お付き合いがあったことは確かです。ええ、男女関係だったと捉えていただいて結構です。その女性にお渡ししたお金は、室蘭の鳩山事務所の人間が鳩山に無断でしたことで、事務所のお金ではありません」

 親分がしでかした不始末の尻ぬぐいを、親分には内緒で子分のポケットマネーをはたいて行ったというのだ。これが本当なら、鳩山由紀夫は総理になったあかつきにはこの秘書を首相補佐官にでも取り立ててやるべきだろう。その後も、マキママの手切れ金の要求は続いたようだが、最終的に鳩山事務所が支払った総額は不明のまま。

(新潮45、2009/9より要約)



 鳩山幸(みゆき)夫人の前夫は、サンフランシスコ在住の田浦新一朗さん。
田浦さんは1960年、サンフランシスコで姉夫婦が日本料理店[蝶々]を開店する際、料理人として手伝うべく渡米。

「私に幸を紹介したのは、洋菓子店の滝原社長でした。冗談半分で私が誰か嫁を探してくださいよと言っていたら本当に連れてきた。
それが24歳の幸でした。」

 結婚直後から、幸夫人は田浦さんとともに[蝶々]で働き始める。当時は料理はだめ。店ではもっぱら客をテーブルに案内する係だった。

 そんな結婚生活が3年ほど過ぎた70年、田浦さんは鳩山由紀夫と運命的な出会いをする。

「実は、私に由紀夫くんを紹介したのも滝原さん。たまたま私が日本に帰っていた時、今度アメリカに留学する青年がいるから、アメリカでの生活とか話してやってくれと引き合わされまして。第一印象は、世間知らずのお坊ちゃんという感じ。そのときはシスコにきたら連絡してという程度で、その後、実際にシスコの我が家に来たんです。」

「我が家でご馳走することもありましたし、店にもとにかくよく食べに来てました。でも姉によると、いつもお金は払わない。鳩山家からも、これで食べさせてください、とかお金をもらったことなどありません。彼の世話はだいたい姉夫婦がやってまして、日曜ごとに彼に弁当を作って届けていたほどなんです。」

 幸夫人は店でトラブルが続き[蝶々]を辞めさせられる。それからしばらく後、ある事件が勃発する。

 「義兄の家のポストに、"弟さんの留守中、男がこっそり出入りしている"と書かれた手紙が入っていたのです。後で知りましたが、それは我が家の目の前に住んでいた邦銀勤務のご主人が書いてくれたものでした。それでも、私はまさか幸が不倫をしているとは思っていなかったし、その相手が由紀夫くんだなどととも、まったく疑っていなかった。だから、幸にも、こうゆう手紙が来たから疑われるようなことはするな、気を付けろ、と言っただけで、追求するようなことも一切しなかったのです。」

 しかし、この頃すでに当地の邦人社会では、由紀夫青年と幸夫人の怪しい仲が心配されていたという。そして実際、それから1年もしない間に、第二の事件が起きてしまう。何と、幸夫人が田浦さんの家から出奔してしまったのだ。

 「ある日、私が帰宅すると、置手紙だけが残されていまして。その時初めて、ああ、2人はそうだったのかと知りました。義兄はポストの手紙事件後、探偵を使って2人を尾行し、不貞の事実を確認したそうです。結局、幸からはそれっきり、今に至るまで一度も連絡はない。」

 結果、田浦さん夫婦は正式に離婚する。幸夫人の母親が突然、田浦さんのもとに現れ、一言、協議離婚したい、と言ったのみ。慰謝料はもちろんのこと、謝罪の言葉すらなかったという。

「私としては、何だかもういいやという気持ちですね。姉夫婦はかなり頭にきてました。そりゃあ、あれだけ由紀夫くんの面倒を見ていたわけですから、裏切られた思いが余計に強かったのでしょう。」

 出奔後、幸夫人は由紀夫青年のもとに走り、そのまま同棲。そして2年後、結婚する。

 田浦さんの実姉、坂田哲子さんも、憤懣やるかたない思いを吐露する。

「主人が生きていたら、由紀夫が総理、幸がファーストレディと聞いてどれほど憤ったことか。彼は私たちが世話したことを当たり前のように思っている。幸の方は、いつも自分が一番でないと気がすまない性格。2人とも常識がなさすぎます。こんな人たちが庶民の気持ちなど分かるわけがないし、リーダーになるなんて信じられません。」

 田浦さんは、政治家の妻となった幸夫人の、ある行状、を当地総領事館の友人から伝え聞き、醜く哀しい思いをしたことがある。


「時期は忘れましたが、幸は一度、1人でシスコに遊びにきたことがあるそうです。その際、シスコの領事館の人に大きな顔をしていたらしい。私は鳩山由紀夫のワイフよ、車でも用意してちようだい、て調子でね。ショックだったね。何でそういう常識に外れたことをするのか。」

(週刊新潮、2009/9/24より要約)





【日本社会党】

1945年、旧無産政党系の政治勢力を結集して結成されて以降約50年間活動を続けたが、1996年に後継団体たる社会民主党の結成に伴い解散した。


【社会民主連合】

1978年 - 日本社会党を離党した国会議員を中心とした政党である社会市民連合と社会クラブが合流
     して結成。
1994年 - 日本新党、新党さきがけへの合流に伴い解散。

【民社党】

1960年 - 日本社会党の西尾末広、片山哲ら右派の国会議員が活動方針を巡る党内抗争の結果、離党
     して結成。結成時の党名は民主社会。 
1969年 - 民社党へ改称。 
1994年 - 新進党の結成に伴い解散。


【民主改革連合】

1989年 - 日本労働組合総連合会(連合)を支持母体に「連合の会」結成。 

※日本労働組合総連合会:全民労協・全民労連(旧・連合)時代から、連合系労組幹部は、
            日本社会党と民社党の合同を念頭に、「社民勢力の結集」を唱え、
            その「接着剤」となることを標榜していた団体。

1993年 - 民主改革連合に改称。 
1998年 - 民主党結成に伴い解散。


【社会民主党】

1996年に日本社会党が改称して発足。議会勢力としては、社会党左派を継承する。


【日本新党】

1992年 - 元熊本県知事の細川護煕が『文藝春秋』誌上で提唱した「自由社会連合」を母体に結成。 
1994年 - 新進党の結成に伴い解散。

細川護煕氏は、政権交代の可能性がほとんどなくなっていた保守政党(自民党)と革新政党(社会党)の二大政党制(1.5大政党制)を捨て、政権交代可能な保守の二大政党制を打ち立てるべきだと訴えた。


【新生党】

1993年 - 羽田派の国会議員が自民党を離党し新生党を結成。党首は羽田孜。 
1994年 - 新進党結成に伴い解散。

宮沢喜一内閣不信任決議案を可決させた改革フォーラム21(羽田派)所属の国会議員である羽田孜、小沢一郎らに自民党離党の意思は無く、党内の主導権確保と他派閥が自由民主党から離党することによる二大政党制を目標にしていた。しかし、党内抗争の結果、羽田、小沢らが離党して結成。


【新党さきがけ】

1993年 - 衆議院議員の武村正義、田中秀征らユートピア政治研究会を結成していた自民党の若手議
     員が離党して結成。 
2002年 - みどりの会議に改称。みどりの会議はさきがけより改称する形で発足したが、さきがけ党
     員の大半は民主党へ移籍したため、両者の組織的つながりはほとんどない。

保守政党ではあるが、行財政改革の推進や環境重視の姿勢を全面に打ち出して、皇室や憲法第9条を尊重する「尊憲」を掲げ、リベラルな色彩を有していた。


【新進党】

1994年 - 細川護煕・羽田孜連立政権に参加したが村山富市政権の発足で下野した非自民・非共産勢
     力が合流し結成。 
1997年 - 公明党出身勢力が離脱する方針を固めたことに伴い、両院議員総会で分党を決定。
        (事実上の解散) 
     自由党、改革クラブ、新党平和、新党友愛、黎明クラブ、国民の声の6党に分裂した。


民主党(1996-1998)※旧民主党】

1996年 9月11日 - 「民主党設立委員会」結成の呼びかけ。 
    9月17日 - 民主党設立委員会結成。 
    9月29日 - 民主党結成
1998年 1月8日  - 国民の声、新党友愛、太陽党、フロムファイブ、民主改革連合と院内会派
         「民主友愛太陽国民連合」(民友連)結成。 
    4月27日 - 新・民主党結成。手続上は他政党が解散し、民主党に合流。

新進党の結成以降、自民・新進の争いの中で埋没し、次期総選挙に向けて危機感を強めた鳩山由紀夫(さきがけ代表幹事)は、社会民主党との「社さ新党」を模索していた。当初は船田元(新進)との「鳩船新党」を検討していたが、船田は保守政党に固執したため断念した。
その後鳩山は、薬害エイズ問題の対応で世論の支持を集めた厚生大臣の菅直人(さきがけ)や北海道知事の横路孝弘と接触を重ね、新党結成で合意。鳩山と実弟である鳩山邦夫(新進)、菅直人、岡崎トミ子(横路の代理、社民)の4名が「民主党設立委員会」結成の呼びかけ人となった。
社民・さきがけ全体の新党移行を想定していたが、鳩山邦夫は自社さ政権の中心人物である元首相の村山富市、さきがけ代表の武村正義の参加拒否を主張、鳩山由紀夫も同調した。このときの対応は「排除の論理」と言われ物議を呼んだ。その結果、社さ両党は新党に移行せず存続することとなったが、1996年衆院選で惨敗を喫した。
新党に参加したのは社民党・さきがけ・新進党(鳩山邦夫)の一部議員。山花貞夫、海江田万里が所属した市民リーグは解散して参加した。


【自由党】

1998年 - 前年の新進党分党に伴い小沢一郎を中心とした議員が結成。スローガンは「日本一新」。 
2003年 - 民主党と合併に伴い解散。


【新党友愛】
1997年 - 新進党の解散(分党)に伴い旧民社党系の国会議員を中心に結成。 
1998年 - 民主党結成に伴い解散。


【フロム・ファイブ】

1997年 - 新進党を離党した細川護煕によって結成。 
1998年 - 民政党結成に伴い解散。 

政党名は、「5人(細川護熙、樽床伸二、上田清司、円より子、江本孟紀)でメッセージを発信していく」を意味する。


【太陽党】

1996年 - 新進党党首である小沢一郎との第41回衆議院議員総選挙後の党運営における確執から、
     新進党を離党した羽田孜を中心に結成された日本の保守政党。
1998年 - 民政党の結成により解散。


【国民の声】

1998年1月 - 新進党の解散により結成。 
   同月 - 民政党の結成により解散。

新進党の解党により分裂した6つの政党のうちのひとつで、新進党に参加した自由民主党と日本新党系議員のうち、反小沢派の保守系議員(衆議院15人、参議院3人)を中心に結成された。


【民政党】

1998年1月 - 太陽党、国民の声、フロムファイブの3党が合併、結成。 
1998年4月 - 民主党結成に伴い解散。