首相を辞めた人が影響力を行使しすぎてはいけない。従って、私は次の総選挙に出馬しない----。


 さる6月2日、突然の首相辞任を表明した際、鳩山由紀夫前総理がそう明言したことは、国民の誰もが今も記憶に留めているだろう。総理在任中はさしたる成果も上げられず批判を受けるばっかりだったが、唯一、引け際に最も実のある仕事を成し遂げたとも言えよう。


 しかし、10月24日には、滞在先のベトナムで事実上、引退宣言を撤回。前宰相として史上稀に見る節操のなさを海外にまで知らしめたのだ。


「鳩山さんには『恥を知りなさい、恥を』と言ってやりたいですよ」と憤慨するのは、政治評論家の三宅久之氏だ。


 「宇宙人で意味不明の鳩ポッポ発想をする人だけに、自分は総理として復権できるかも、と考え直したのかもしれません。菅政権の行き詰まりを見て、小沢さんも復権できない今、自分の出番がやってくるかも、と信じられないことを考えている可能性がありますよ」

拓殖大学大学院の花岡信昭教授はこんな指摘をする。


 「辞めて以後、前総理という肩書きで頻繁に海外に行き、現職並みの待遇を受けているものだから、前総理という肩書きがこんなに楽しいものかと思い直したんでしよう」


調子に乗って、ベトナムでは菅政権の対中国弱腰外交の批判までした前総理。心変わりの真意を伺おうと自宅を訪ねたら、あつという間にパトカー数台が記者1人を取り囲んだ。そんなVIP待遇も、まだまだ手放したくないのだろう。

(週刊新潮、2010/10/11、より要約)


 その存在の軽さ、中身のなさ、無節操さ、すなわち救いようのなさ--どうにも正視に堪えません!鳩山由紀夫前総理の言動の、鳴呼何と虚しいことか。


中国の領海侵犯事件に際して彼が発した言葉の空疎さ。こんな御仁を、つい数ヶ月前まで「われら衆愚」は総理に戴いていたのかと。

 なにしろ、中国漁船の船長を釈放した「仲間」の菅内閣に対して、「私の総理時代に、温家宝首相とのホットラインを作った。それは、菅総理にも引き継がれているはず。

 私なら首相同士で腹を割って話し合っていた」と苦言を呈したのだ。一体どの口で言うのか!

 そもそも普天間問題で大迷走を繰り広げ日米関係を疎遠にし、その間隙を突く形での中国の対日攻勢を招いたのは、他ならぬ鳩山氏である。

 これぞ自らの責任を完全に棚に上げた、負け犬の遠吠え以外の何者でもない。


「もともと『宇宙人』と称されていましたが、今では『恍惚の人』扱いですよ」と解説するのは民主党担当記者。


「次の総選挙に出ないと明言していたのに言を翻したり、総理を辞めた者が政権運営に口を出すべきでないと言っていたにも拘わらず、今回、筋違いの容喙(ようかい)をした。もはや彼は『ほら吹き』常習犯としか言えません。とはいっても、前総理なので我々も発言を追っかけないわけにもいかず・・・かったるいですね」

(週刊新潮、2010/10/7、より要約)


 広中惇一郎編著『阿部英医師「薬害エイズ」事件の真実』を読むと、菅直人首相が厚生相時代に薬害エイズ問題で挙げたとされる手柄が、実はパフォーマンスにすぎなかったことが分かる。


 阿部氏は1996年8月、東京地検特捜部に業務上過失致死容疑で逮捕された。'84年当時、帝京大付属病院第一内科長だった阿部氏が非加熱血液製剤のHIV汚染を知りながら、病院内の医師に非加熱製剤投与を止めるよう指示せず、血友病患者一人をエイズで死なせたという疑いだった。ところが、5年後に東京地裁は彼に完全無罪判決を言い渡した。理由は、彼が'84年当時、非加熱製剤によるHIV感染の危険性を分かっていなかったということ。


 厚労相になった菅直人・現首相は省内に薬害エイズの調査班を設置し、報告するよう命じた。そのころエイズ訴訟原告と支援者の抗議行動が厚生省周辺で何日にもわたって行われ、菅厚相が命じた報告期限の3日前に終わる予定だった。菅厚相は集会最後の日に原告団を省内に招き入れ、「郡司ファイル」なるものを提示して、「こんなものが倉庫に隠されていました。'83年当時、厚生省内に非加熱製剤が危険だという認識がありました」と言って原告団に謝罪した。自ら命じた調査報告書の完成も待たずにである。だが、本当にファイルは隠されていたのか?

 実は'90年に厚生省の新庁舎ができたとき、職員たちは「できるだけ机の上に物を置くな。日常、使わないものは新設の倉庫に入れろ」と指示されていた。その倉庫から見つかったファイルの中身は雑多なメモや新聞記事だった。メモは、生物製剤課内のスタッフが議論のために書いたのを直ちに捨てるのも気が引けるので、郡司課長がファイルしておいたものだった。つまり「郡司ファイル」は隠されていたのではなく、単なる「ごみファイル」だったのである。


 その中に「非加熱製剤を使用しないよう業者に対する行政指導をする」などと、新任の技官補佐が「思いついた個人的意見」を記したメモもあったが、それが課内で議論されたことは一度もなかった。まだHIVの正体が分からなかったからだ。

 「郡司ファイル公表」から1週間後の2月16日、菅厚相は患者らに国の責任を認めて謝罪した。2ヶ月後の4月、阿部氏は衆参両院に参考人招致され、7月に衆院で証人喚問を受け、8月に東京地検に逮捕された。


 人気取りの政治家と、ことの本質を理解しようとしないマスコミによりエイズ問題の本質は、悲劇から事件へとねじ曲げられたのだ。それが裁判で明らかになった。にもかかわらず菅首相はいまだに薬害エイズ問題での功績を誇らしげに語っている。

(週刊現代、魚住昭、2010/9/25より要約)

オバマ訪日が1ヵ月後に迫った十月、外務省は機能不全に陥っていた。混乱に拍車をかけたのは、鳩山の「非公式ルート」の乱用だ。「ハトヤマには四人の外交ブレーンがいるそうだな?」外務省が危機感を募らせていた十月、米国務次官補キャンベルは日本にやって来て政府高官にそう語りかけ、指を折って順に名前をあげた。

駐米大使にも取りざたされた朝日新聞主筆の舟橋洋一、日本総合研究所会長の寺島実郎、主席秘書官に就任した佐野、そして民主党政調会部長から内閣官房専門委員に転じ鳩山の外交演説づくりを手がける須川清司の四人だ。この中に外交・安全保障のプロは一人もいない。


 夫人同士の交流が縁で秘書官になった佐野は

「普天間よりもアフガンが米国の最大関心事です」と進言し、鳩山の意を強くさせた。  

 寺島は「対等な日米関係」が持論で、ワシントンの知日派サークルで危険人物視されている。

 キャンベルは「鳩山政権は社会主義政権なのか」「大統領訪日まで普天間をひきずるのはまずい」と旧知の外務省北米局長、梅本和義らに不安を隠さなかった。

(文春春秋、浦上隆、2010/6より要約)


念願の総理の椅子を手に入れた日、自らを支えてくれた仲間が待つ打ち上げの場に、菅直人新総理(63)は決して姿を見せようとはしなかった。


-何たる薄情の人-


 この短気な切れ者「イラ菅」の実像とは。笑顔の影で早すぎる老化現象が懸念される新総理の研究。


1946年、菅氏は山口県宇部市で生まれた。

 父親は地元で工場長を勤めていたが、元々、菅家の出身は岡山県御津郡。かつて菅氏の実家のあった、岡山県の集落に住む親戚の菅敏子氏(87)によれば、「菅家は直人さんのところが本家なんですが、庄屋だったそうです。岡山大学の先生たちが、本家にあった古文書を歴史研究のために持って行ったほどの由緒ある家」


 集落には1400年代から続く菅家の古い墓が今も残っている。宇部市内の神原中、宇部高に通った菅氏は、「成績が良く、確か卒業式で答辞を読んだはず」政治家に不可欠な行動力や根性も、小さいときから備わっていたという。


 「中学を卒業する時、一緒に金比羅宮など、四国・中国地方を旅して回りました。旅行の計画は彼が主導して決めたもの」(神原中の同級生)
高2の時に、父親が役員に昇進すると同時に東京に転勤。菅氏も都立高校に転校した。

時代の必然もあって、大学入学後に学生運動にのめり込んでいく。これを機に、菅氏ははっきりと政治に目覚めていった。「70年安保」の時代の話である。「大学の自治会に中核派が入り込んでいたんですが、彼は『イデオロギーでは何も変わらない。現実的な対応をしなければ』と、よく中核派に食って掛かっていた。


『全学改革推進会議』なるものを立ち上げて、15人くらいを率いて極左系とは違う学生運動を行っていました」(同級生)


 結局、菅氏は学生運動に没入するあまり、1年間留年する事態に。また、「『父親もそうだけど、サラリーマンになったら所詮、役員になって終わるだけ。サラリーマンにならない』と、大学の時に菅は言っていた」(別の同級生)


卒業後、特許事務所で働き、弁理士の資格を取ることとなる。なお、この頃、いとこだった伸子夫人と結婚している。


 菅氏は学生運動の延長で市民運動に関わり始める。そして73年、婦人運動の草分けである市川房枝氏と出会い、翌74年の参院選で彼女の選挙事務長を務める中で永田町への距離を縮めていった。


 この頃から、自分の都合のためには他人の迷惑は顧みず、有名人にすり寄る、薄情の人の素地を覗かせていた。

「74年当時、私は市川さんが代表を務めていた『日本婦人有権者同盟』の紀平悌子さんの選対事務局副代表だったんですが」と振り返るのは、評論家の吉武輝子氏(78)。

「一旦、市川さんは政界を引退していた。なので紀平さんの擁立を私たちは進めていました。市川さんにも再出馬の意思がないことを確認した上で。ところが、突然、市川さんの立候補が報じられた。彼女を担いだ中心人物が菅さんでした。


自分本位に突き進む菅氏は76年、今度は自身が衆院選に立候補。落選するもののめげずに、80年、4度目の挑戦で社民連公認として衆院選に初当選を果たした。


 とはいえ、所詮、弱小野党の議員に過ぎなかった彼に「一大転機」が訪れたのは、94年。与党の新党さきがけに入党したことだった。


 96年、彼が59歳の時には自社さ連立政権下で厚生大臣に。薬害エイズ問題で土下座したり、O-157騒動でカイワレ大根を頬張ってみせるなどの実績で「与党」=「権力者」の一員として、一躍、政界のスターにのし上がっていったのだ。


「うちに来た当初から強烈な権力欲を見せていた」と証言するのは、さきがけ時代の同僚議員。「なぜ社民連から移ってきたのか聞いたら、『30代は小さな政党でいいから議員で居続ける。40代は少し大きな政党でそれなりのポストに就いて、40代後半から50代で大きな組織の頭になる。そして60代で総理大臣。これが自分のビジョンだ』と明言していました」


大風呂敷にしか思えなかった菅氏のビジョンだが、彼は着実に、いや強引きに実現していくことになる。「50歳を目前で民主党結成に参画し、鳩山由紀夫との共同代表に就任。『代表じやなければいやだ』と菅がねじ込んだ結果です。以降、党内野党になったことがなく、常に要職に居続けた」(知人)同時に権力者然とした振る舞いも目に付き始める。傲岸不遜で自尊心に満ち満ちた「イラ菅」の本性が、一層頭をもたげ出したのだ。「指示に対して『できません』と答えた官僚に灰皿を投げつけたり、自分が書類を無くしたのに秘書を怒鳴り散らす」(民主党関係者)


98年に民主党代表として訪米した際には、「財務省のサマーズ副長官と会ったんですが、会談後に『サマーズも大したことないな』と豪語していた。サマーズは、当時から米国経済界の大物で、そんな人物を完全に見下していたわけですから、とんでもない自信家だなと驚きました」(当時の同行者)

 そんな絶頂の98年、菅氏に政治人生最大の危機が訪れる。「週刊文春」の報道でスキャンダルが発覚。元女姓キャスターとホテルで一泊した現場を押えられてしまったのだ。「仕事上の付き合い」との詭弁を弄し、代表の座を降りることもなく、難局を乗り切るが、この時の蹉跌は堪えているようで。


04年に年金未納が明るみに出て、代表辞任に追い込まれた時も、反省をアピールするお遍路姿をテレビに映させるなどのパフォーマンスで、上手に政界遊泳。そして、昨年の政権交代では副総理の座に就き、ついに今回、総理の椅子に座るところまで辿り着いたのだ。

永田町で人望がない彼の権力基盤は世論の支持だが、「菅さんの巧みなところは『画』を上手く利用してきたこと。実際、彼はカイワレ大根を食べるところや、坊主頭に装束のお遍路さん姿を写真に撮らせるといった、視覚に訴える分かりやすいパフォーマンスで人気を得てきました。しかし、総理になった今は、これまでのような単なるパフォーマンスでは軽く見られて通用しないでしょう」(日大芸術学部の佐藤綾子教授)

今後は中身が問われることになるのだ。しかし、彼に期待するのは、「無いものねだり」に等しいようだ。「副総理時代、彼は普天間問題で、『私は無関係』と逃げてきた。それに、彼はイタリアで中道左派連合が誕生するとそれに心酔し、英国で労働党のブレア氏が首相になると、彼を散々持上げる」(伊藤惇夫氏)


彼のアキレス腱はまだある。早くも老化現象が襲い掛かってきているのだ。

 例えば、成長戦略策定会議では、「会議中、ずっと寝続け、三木谷氏(楽天社長)にその事実を暴露されています。今年3月には、自民党議員に、『国会審議中の居眠りがひどい』と追及されましたが、以後も一向に国会内の居眠りは止まらず」(民主党関係者)「最近彼の口癖は『あれ、こんがらがっちゃった』。喋っているうちに、自分でも何について話していたのか忘れてしまうんです。現に、財務相だったにも拘わらず、本予算と補正予算の話を混同して話し、菅自身、『あれ、今、どっちの予算を話していたんだっけ?』と混乱することも(同)



徳なし、理念なし、体力なし・・・・・。新総理の実像が、よもや『スッカラカン』でないことを願って止まない。

(週刊新潮、2010/6/17より要約)