念願の総理の椅子を手に入れた日、自らを支えてくれた仲間が待つ打ち上げの場に、菅直人新総理(63)は決して姿を見せようとはしなかった。
-何たる薄情の人-
この短気な切れ者「イラ菅」の実像とは。笑顔の影で早すぎる老化現象が懸念される新総理の研究。
1946年、菅氏は山口県宇部市で生まれた。
父親は地元で工場長を勤めていたが、元々、菅家の出身は岡山県御津郡。かつて菅氏の実家のあった、岡山県の集落に住む親戚の菅敏子氏(87)によれば、「菅家は直人さんのところが本家なんですが、庄屋だったそうです。岡山大学の先生たちが、本家にあった古文書を歴史研究のために持って行ったほどの由緒ある家」
集落には1400年代から続く菅家の古い墓が今も残っている。宇部市内の神原中、宇部高に通った菅氏は、「成績が良く、確か卒業式で答辞を読んだはず」政治家に不可欠な行動力や根性も、小さいときから備わっていたという。
「中学を卒業する時、一緒に金比羅宮など、四国・中国地方を旅して回りました。旅行の計画は彼が主導して決めたもの」(神原中の同級生)
高2の時に、父親が役員に昇進すると同時に東京に転勤。菅氏も都立高校に転校した。
時代の必然もあって、大学入学後に学生運動にのめり込んでいく。これを機に、菅氏ははっきりと政治に目覚めていった。「70年安保」の時代の話である。「大学の自治会に中核派が入り込んでいたんですが、彼は『イデオロギーでは何も変わらない。現実的な対応をしなければ』と、よく中核派に食って掛かっていた。
『全学改革推進会議』なるものを立ち上げて、15人くらいを率いて極左系とは違う学生運動を行っていました」(同級生)
結局、菅氏は学生運動に没入するあまり、1年間留年する事態に。また、「『父親もそうだけど、サラリーマンになったら所詮、役員になって終わるだけ。サラリーマンにならない』と、大学の時に菅は言っていた」(別の同級生)
卒業後、特許事務所で働き、弁理士の資格を取ることとなる。なお、この頃、いとこだった伸子夫人と結婚している。
菅氏は学生運動の延長で市民運動に関わり始める。そして73年、婦人運動の草分けである市川房枝氏と出会い、翌74年の参院選で彼女の選挙事務長を務める中で永田町への距離を縮めていった。
この頃から、自分の都合のためには他人の迷惑は顧みず、有名人にすり寄る、薄情の人の素地を覗かせていた。
「74年当時、私は市川さんが代表を務めていた『日本婦人有権者同盟』の紀平悌子さんの選対事務局副代表だったんですが」と振り返るのは、評論家の吉武輝子氏(78)。
「一旦、市川さんは政界を引退していた。なので紀平さんの擁立を私たちは進めていました。市川さんにも再出馬の意思がないことを確認した上で。ところが、突然、市川さんの立候補が報じられた。彼女を担いだ中心人物が菅さんでした。
自分本位に突き進む菅氏は76年、今度は自身が衆院選に立候補。落選するもののめげずに、80年、4度目の挑戦で社民連公認として衆院選に初当選を果たした。
とはいえ、所詮、弱小野党の議員に過ぎなかった彼に「一大転機」が訪れたのは、94年。与党の新党さきがけに入党したことだった。
96年、彼が59歳の時には自社さ連立政権下で厚生大臣に。薬害エイズ問題で土下座したり、O-157騒動でカイワレ大根を頬張ってみせるなどの実績で「与党」=「権力者」の一員として、一躍、政界のスターにのし上がっていったのだ。
「うちに来た当初から強烈な権力欲を見せていた」と証言するのは、さきがけ時代の同僚議員。「なぜ社民連から移ってきたのか聞いたら、『30代は小さな政党でいいから議員で居続ける。40代は少し大きな政党でそれなりのポストに就いて、40代後半から50代で大きな組織の頭になる。そして60代で総理大臣。これが自分のビジョンだ』と明言していました」
大風呂敷にしか思えなかった菅氏のビジョンだが、彼は着実に、いや強引きに実現していくことになる。「50歳を目前で民主党結成に参画し、鳩山由紀夫との共同代表に就任。『代表じやなければいやだ』と菅がねじ込んだ結果です。以降、党内野党になったことがなく、常に要職に居続けた」(知人)同時に権力者然とした振る舞いも目に付き始める。傲岸不遜で自尊心に満ち満ちた「イラ菅」の本性が、一層頭をもたげ出したのだ。「指示に対して『できません』と答えた官僚に灰皿を投げつけたり、自分が書類を無くしたのに秘書を怒鳴り散らす」(民主党関係者)
98年に民主党代表として訪米した際には、「財務省のサマーズ副長官と会ったんですが、会談後に『サマーズも大したことないな』と豪語していた。サマーズは、当時から米国経済界の大物で、そんな人物を完全に見下していたわけですから、とんでもない自信家だなと驚きました」(当時の同行者)
そんな絶頂の98年、菅氏に政治人生最大の危機が訪れる。「週刊文春」の報道でスキャンダルが発覚。元女姓キャスターとホテルで一泊した現場を押えられてしまったのだ。「仕事上の付き合い」との詭弁を弄し、代表の座を降りることもなく、難局を乗り切るが、この時の蹉跌は堪えているようで。
04年に年金未納が明るみに出て、代表辞任に追い込まれた時も、反省をアピールするお遍路姿をテレビに映させるなどのパフォーマンスで、上手に政界遊泳。そして、昨年の政権交代では副総理の座に就き、ついに今回、総理の椅子に座るところまで辿り着いたのだ。
永田町で人望がない彼の権力基盤は世論の支持だが、「菅さんの巧みなところは『画』を上手く利用してきたこと。実際、彼はカイワレ大根を食べるところや、坊主頭に装束のお遍路さん姿を写真に撮らせるといった、視覚に訴える分かりやすいパフォーマンスで人気を得てきました。しかし、総理になった今は、これまでのような単なるパフォーマンスでは軽く見られて通用しないでしょう」(日大芸術学部の佐藤綾子教授)
今後は中身が問われることになるのだ。しかし、彼に期待するのは、「無いものねだり」に等しいようだ。「副総理時代、彼は普天間問題で、『私は無関係』と逃げてきた。それに、彼はイタリアで中道左派連合が誕生するとそれに心酔し、英国で労働党のブレア氏が首相になると、彼を散々持上げる」(伊藤惇夫氏)
彼のアキレス腱はまだある。早くも老化現象が襲い掛かってきているのだ。
例えば、成長戦略策定会議では、「会議中、ずっと寝続け、三木谷氏(楽天社長)にその事実を暴露されています。今年3月には、自民党議員に、『国会審議中の居眠りがひどい』と追及されましたが、以後も一向に国会内の居眠りは止まらず」(民主党関係者)「最近彼の口癖は『あれ、こんがらがっちゃった』。喋っているうちに、自分でも何について話していたのか忘れてしまうんです。現に、財務相だったにも拘わらず、本予算と補正予算の話を混同して話し、菅自身、『あれ、今、どっちの予算を話していたんだっけ?』と混乱することも(同)
徳なし、理念なし、体力なし・・・・・。新総理の実像が、よもや『スッカラカン』でないことを願って止まない。
(週刊新潮、2010/6/17より要約)