Lake's Bass Factory -9ページ目

Lake's Bass Factory

当たり障りのないことを書くつもり。

     For unknown reason I often have an invincible impulse to write, or just use, English. My English skill is, as IELTS says, rather poor. Though I've so many things to say about this exam, I won't mention none of it. Whatever I say, it is still a solid fact that the IELTS score is important for studying abroad. For any applicant for any sort of admission to universities, systems of exams they need to take are like natural disasters. There's no way other than obeying the rule given by each uni or you'll fail.

      I don't know how to improve my English ability. I don't know what is right or wrong for me in the deep sea of learning English. So I do nothing. I do nothing based on so-called 4 skills or other plausible books. Lazy? I know.

     I'll keep silence on the recent chaos on the new English exam(s) for Japanese universities' admission (but at least I want all to consider this problem is now in chaos, it should be revised). But one thing I want to write is that I don't think learning English is equally important for all students. I needed to speak English-- for I wanted to be a British-- and now I need to read English. Learn as you like. All depends on each student. Lazy. I know.

 

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     The last matchweek was awesome-- Newcastle, the only team I love in the world, won and other games were also worth watching. I'm essencially a drunk man in a pub, watching a football game and shouting somthing against a screen.

 私は本に書き込むタイプではない。何を言われても、やはり書き込みたくない。どうしても書き込むときには、付箋をつけてそこに書くようにしている。書き込んだものの提出を求められるときには、コピーしてから書き込む。なお、普段はノートを取っている。

 理由はいろいろある。たとえば私が将来運よく老齢になって、運よく死んだときに、運よく自分の母校(大学ではない、中学と高校)が残っていれば、そこに蔵書を寄贈したい、という夢を持っている。そのためには大変な努力と実績とを要求されるのはわかっている。あるいは教育の問題かもしれない。幼い頃、本を大切にしろと言われて育ったので、本には何か神聖なものを感じてしまう。

 しかし、付箋をつけて本を読むというのは比較的最近にはじめた習慣である。それ以前はというと、何もしていなかった。読んだら読んで終わり。そのまま本棚に戻す。

 この年になってようやく、それでは本を読んだことにはならないのだと気づいた。記憶とははかないものである。数か月前に読んだ本でも、内容はほとんど忘れている。だがそれ以上に重要なのは、読んで何を思ったかを忘れてしまうことである。内容ならば読み返すたびに思い出すけれども、読んで思うことはたとえ同じ本であってもその時々によって違う。18歳で読んだ本であっても、この歳で読み返すと見え方がまったく異なる。そうした過去の読書記録を現在と比較すると、以前より知識量が増えて様々な視点を取ることができるようになっているかもしれないし、逆に素朴で自由だった過去の読み方に救われることもあるかもしれない。読書の世界を深化させるために、死ぬまで楽しめるものにするためには、どんなに短くても、読んですぐの考察や印象を書き残しておく必要がある。

 読み方の変化はほかにもあって、たとえば最近ではほとんどの洋書を再読前提で読んでいる(ので、特に考察はしない)。ストーリーを丁寧に追うことで、再読時に全体と照らしながら細部を読もうという戦術であるが、効果のほどはわからない。経験的に、初見の作品をストーリーを追いながら分析するのは(私のスペックでは)不可能なので、仕方ないともいえる。

 あ、オチはないです。

 

 

それでは。

 継続のためには無理をしないって話です。

 

 案外忘れてしまいがちなことには、世の中には自分ほどにはお話(とりあえずそう呼ぶ)に興味がない人が結構いる。自分は基本的に周りをお話好き(ラノベなりアニメなりゲームなり英文学なり映画なりなんなり)に囲まれて生きてきたので、この事実に直面すると面食らう。そして悲しくなる。日常会話ではまったく悲しくならないし、話題を変えるだけなのだが、こと話が文学に関わらざるをえない場なのにそうなっていると、本当に悲しい。どこがどう面白い、と興奮気味に語ってみても、闇が光を吸収するごとく、何かが返ってくることはない。

 別に、お話好きが良くてそうでない人が悪いと言いたいのではない。興味は人それぞれで当然だし、熱中できるものがほかにあるならそれを大切にしてほしい。しかし、100人に1人くらい、何にも(自分自身にさえも)興味がない、虚無を体現したような人に出会う。他者を理解しようとすることの難しさを感じさせられる。

 

最近暖かいですね。桜も咲いて、鳥は鳴いて。でも虫はいらないです。ウールを食べるヤツと、とにかくちっちゃいヤツ、特にお前ら。なんで大切な服は全部虫に食べられる素材でできてるんですかね。いつか虫に食べられてなくなるから大切とかいう諸行無常的発想なんでしょうか。あるいは神に対する人間の不完全さの象徴なんでしょうか。どっちでしょうか。Lake.

 

近況です。

 

なぜか喉がスペランカーになっていて、ちょっと喋るとすぐ痛みます。今年は花粉症じゃない人も苦しんでいるようですが、私もその一人みたいです。

 

 

それでは。

 むかしサマセット・モームという人がCakes And Aleという本の中で、「小説家はどんな出来事でも小説のネタになると思ってしまうので一喜一憂しない」というようなことを書いていた(のか、登場人物に言わせていたのか、不正確な引用。こういう趣旨のことがメモに残っていた)。そういえばアキール・シャルマも『ファミリー・ライフ』のなかで、書くことによって世界が変わった主人公を描いている。同じようなことはブログ程度でも起こるのだろうか。イライラしたり、悲しいことがあっても、まあブログのネタになるからいいかと思って溜飲を下げるような。アノ人やコノ人は溜飲を下げるためにブログをやっているんじゃないか?と思うこともある。比べても仕方ないか。

 

 アキール・シャルマの話が出たのでついでに言えば、彼は書くことで記憶を永遠のものにしたかったのだという。書くことによって何かが永遠のものになる。それはきっと本当のことだ。だから文字の発明はとても重要なのだ。かつては石板や粘土版で、今では印刷技術によって、書かれたものは永遠に残る。あるいはインターネットにおいてもそうである。よくよく考えれば、デジタルタトゥーだとかなんだとか言うが、インターネット世界に参入するにはものを書くか写真を上げるか、要するに何らかの記録でもってそうするしかない。記録は元来何かを永遠にするためになされるものだとすれば、ネット上にいろいろ残ってしまうのは、ネットの特性というより書くことや写真を撮ることの特性だろう。もちろん、それが簡単に世界中で閲覧されるというのはインターネットの特徴であるが。

 

 以前、ものが小さくなるということについて考えていたことがある。デバイスはどんどん小さくなり、その小ささによってあらゆる人間の側面に浸透するだろう、という未来予想である。究極的には生体ICチップを超え、細胞レベルまで行くかもしれない。まあ未来のことはわからないのだが。しかし、この小型化と浸透によって、もはや個=Individualは意味を変えるだろう。Individualはそれ自身の分割不可能性ではなくて、何か他のものとの分離不可能性を表すことによって、かつての個人概念にとって代わる(あるいはもう代わっている)だろう。

 

 こういうことを書くとかっこいいよね。こういうことを想像するのもSFっぽくて好きです。

 先日は卒業式があった。来週には新入生が入ってくる。こうもインターバルが短いと、なんとも新学期、新年度という感じがしない。

 大学1年生の4月は一番何事にもやる気がある瞬間である。せっかく大学に苦労して入ったのだから、すごい大学生になるぞ、と意気込む。

 

 そして、5月に後悔する。

 

 やりたいことが決まっていると、効率はいい。あっちこっちにフラフラしている私のような人間は、器用貧乏というか、すべてがアマチュアレベルで終わる。これはおそらく本当のことだ。私はその前に忍耐力がない(だからフラフラする)ので、それはそれで別な問題のような気がする。それ以上に単位を追いかけていつの間にか卒業しているような人もいるだろうが、そういう人は就職とか何か違う目的で大学に入った人なので、今は話題にしない(就職のために大学に入った人でも、就職という将来を考えて行動しているので、ここではそれにも当てはまらないかもしれない)。

 私はこのことに関して自分を擁護するつもりはない。視野が広いのとフラフラしているのは違う。一つのことに集中しながら周りを見ることができるのと、単に一つのことに集中できないのとは月と10円玉くらいの違いがある。

 某大学の前期教養課程にはそういう危うさがある(ここで人のせいにしてみる)。一生前期課程でいたいと思ったことがある。永遠に専門が決まらず、永遠にどの分野についても専門家にならない。でも、今になってそれは学問ではないのだと思うようになった。前期課程は学問をやるところではない。あくまでその歴史が示す通り、旧制の高等学校であって大学ではない。

 選択するということは選ばなかったほかのすべてを犠牲にすることである。私は科学史を犠牲にした。しかし、自分が選択したからには、それが何であれ、それに向けて一生懸命やるしかない。正しい選択はない。正しい答えがないのと同じだ。何かを犠牲にするのは悲しい。学科の授業が被って科学史関連の授業に出られないのは悲しい。でも、悲しいことと専門の授業を全うすることとは関係がない。どうせ何を選んでも後悔して悲しくなるのだ。

 

 悲しい気持ちになったところで今日はお別れです。