我国の国語なる科目は実に五つ六つの時分より成人の近くに到る迄学習を強いられる。正確には試験において及第することを強いられる。或は大学を受験する生徒にすれば、入学試験においても相応の点数を取ることを強いられる。故に生徒は国語なるものに対し点数以上の興味を失う。
併し国語の名に於て教育さるものは点数や試験とは兎角相性の悪い代物である。例を挙げれば漱石に芥川、源氏に今昔、孔子に白楽天、種々の論説に到るも凡て試験のために書かれた訳では無い。此等は悉皆興味の有る者に対し書かれたのである。漱石山房は予備校ではなかった。清少納言が其主人公について宮中を聞きまわったとも聞かぬ。唯科挙の伝統に於て諸家は用いられしも、其は孔子が弟子を相手に五つの可能な答えから唯一つの正答を問うたという事を意味しない。茲に於て大学受験における国語なる科目の廃止を提案するのである。
文章を創った者が皆問題と成ることを意識せず、唯自己の美意識に従うのみなれば、即ち国語なる科目を創出するのは問題をつくる者に外ならぬ。問題をつくる者が国語なる科目に責任を負うならば、即ち国語で及第を取るという事は問題をつくる者に阿諛追従する事である。併し一体何の故に文章の意味を問題をつくる者に限定されねばならぬのか。問題は言う、「傍線Aにおける意味を論述せよ」「傍線Bにおける意味を……」云々。生徒の視野を徒に限定し、文章の意味も著者の美意識も精々五つの傍線に還元して了うのは暴力と言う外無い。さる受験予備校では具体例の類を捨象して了ってよろしいと教えるそうである。併し其では具体例の妙という事は存在しないのであろうか。彼らに於ては存在しないのであろう。観念的な文章に加えられた適切な具体例程有効な物は無く、又著者の神経をすり減らした事も無いであろうに。
思に此種の暴力の犠牲者は先にも挙げた偉人達である。彼らは偉人であるが故に教科書なる手狭な空間に押し込まれ、学ぶ処ありとして国語の俎上に載る。そして無慈悲な傍線に依り切断され、丁度鮪か何かの様に商品にならぬ部分は捨てられる。併し世の生徒の何人が国語の軛を解かれて尚漱石や芥川を読むであろう。況や源氏、又孔子をや。一生に於ける貴重な機会を、生徒は浪費するばかりか、悪用するよう強いられるのである。
或人は国語を廃止し後の責迄私に負わせるかもしれぬ。敢て先回りをすれば、国語を廃止し後の大学受験に於ては生徒個個人の興味の向くままに本を選ばせ、其に就て小論文を書かせるのである。小論文を検査し後、個個人を呼び出して発表させ、その出来が大学に於ける研究に相応しいか判断する。唯文法のみ試験の科目とし、其も中学までに留める。文法を試験とするのは、文法が試験可能な上に、受験時の選択肢を増す為である。
併し我国の教育制度の破綻は英語の名に米語を教え、国語の名に漢語を教える処に明かであるから、私は復た時間と理性とをあらぬ方へ向けたと言う事になろう。失意の中にさようなら。
わかりにくい冗談になりました。
それでは。