進歩
トーマス・クーンは『科学革命の構造』のなかで、科学は進歩するものであるという前提に立って、パラダイム論を展開した。科学は進歩するが、その進歩の仕方は累積的ではなく、むしろ通常科学が危機に陥り、多数の並立するパラダイム候補の中から一つが(多くのテストを経て)選択されて既存のパラダイムに代わることでまた新たな通常科学の時代が始まるという、階段状(と言ってよいか?)になっているというのである。
クーンはこうした科学史観(科学史+観)を科学以外の分野の発展に負っているというが、同時に科学とそれら他分野の違いについて、絶えず進歩を続けることを挙げている。科学はまさに上述のようにして進歩するのであるが、たとえば芸術だと、一つのパラダイム的なもの(たとえば写実主義)が他のパラダイム的なものに取って代わられることはない。たとえ抽象画が全盛の時代になったとしても、その中で写実的な絵を描いている人間は相変わらず芸術家である。他方地動説パラダイムを受け入れられず、一貫して天動説にこだわるような人間は、もはや科学者とは言えないだろう、というのである。
科学は進歩する。ということは、必ずある時点よりも時間的に先(未来)のもう一つの時点における科学のほうが、解決できる問題は多いということである。クーンは技術にも進歩という特徴を認めているから、同じことが言えるだろう。
よいとわるい
次に、まったく異なった話をする。ある時点よりも時間的に先のもう一つの時点における世界のほうが、よい世界であるという考えを容易に想像できるだろう。あるいは逆に、わるい世界であるということも考えられるだろう。更に話を進めれば、世界は時間とともによく/わるくなっていくという単純化した議論も存在しうるだろう。
17世紀以降、ニュートン力学や原子論など多くの新たなパラダイムが中世的な既存のパラダイムを置き換えていった。さらに、少し離れた(しかしとても近い)ところでは蒸気機関が生まれ、西欧世界は技術による経済的な恩恵を被ることになった。昨日より今日、今日より明日のほうがよくなっているという考えは、こうした高度成長時代にはつきものである。
それが、19世紀もしばらくすると、そうした考えに疑問も生じるようになった。煤煙で街は黒くなり、児童労働も横行し、貧富の差も拡大した。それでロバート・オーウェンやウィリアム・モリスのような人間も出てくるのである。
しかしそれは技術の話、科学はその間も発展をつづけた。ファラデーの電気誘導、ダーウィンによる進化論の発表、マクスウェルの電磁気学……という具合である。科学の理論によいもわるいもない(論文の出来の話ではない)。だが、それを技術に落とし込むことができるようになって、互いが互いの進歩を助け合うようになると、どうも未来は科学技術によってよりよいものになるのではないかと想像できるようになる。
今から100年前は医療技術が未発達で乳児死亡率は高く、遺伝子工学や品種改良も発展していないので農産物の収穫量は少なく、PCや携帯のような便利な道具もない。さらに100年前はさらに不便で、さらに100年前は……とこう考えることは無理もないように思う(ただし、こうした想像には「2018年を生きる自分の視点では」という但し書きがついている)。この想像を過去の方ではなく、未来の方に適用してみる(2018年を過去として考える)と、100年後はいまよりよい世の中だろう、200年後はさらによい世の中だろう、ということになる。そして、今現在の「よさ」は多分に科学技術のおかげなので、未来も科学技術のおかげでよくなっているだろう、となる。こうした考えはいつの時代にもあっただろう(またテキトーなことを言っている)。
21世紀に生きる上で、さすがにこうした単純な考えに諸手をあげて賛成する人はいないだろうと思う。19世紀最後にして最大級の発見、すなわちX線の発見以降、相対性理論や量子力学が登場し、17世紀以来のパラダイム転換が起きたあとで、20世紀の中ごろには核兵器が登場した。その威力が世界を揺るがしたかと思うと、三年後には米ソ間での核開発競争と冷戦が始まった。核関係の技術はその破壊的なリスク(ときに部分的に現実化した)ゆえに、技術の進歩と世界の改良に関して再び疑問を投げかけることになった。
未来はよい社会=ユートピア
未来はよい社会だとすると、現在から十分離れた時点ではユートピアが実現されているはずである。そしてその実現に技術の進歩が不可分なものとしてかかわっているのであれば、当然SFとの相性はいい。この手の考え方は有名どころではWellsのThe Time Machineに(変形ではあるが)見られる。またブルガーコフの『至福』や昨日のTimeの世界も同じ原則にのっとっている。HuxleyのBrave New Worldやザミャーチンの『われら』もまた設定は数百年先の未来である。その他挙げきれないほどのユートピア作品が未来を舞台にしている。
これらのどれとして、モアやモリスのようにユートピアを賛美する結果では終わらない。The Time Machineは「ポスト・ユートピア」の世界を描き、ブルガーコフの『至福』はソ連社会を風刺・嘲笑し、Timeにもきらびやかな社会の「裏」がにおわされている。Brave New Worldはもっと直接的に科学技術を扱い、科学技術の進展によってモノ化した人間たちの社会を描いていると読むこともできよう。『われら』も物理学や数学が大きな比重を占め、いわゆる「科学的」に、モノ的に人間を扱う社会になっている(むろんソ連への風刺でもある)。
いわばこれらの作品は、安直な進歩への期待を逆手に取っているのであるが、核兵器が生まれ、核戦争の危機が増大すると、もっと直接的に核による世界滅亡というポスト・アポカリプス的な作品が増えた。『渚にて』や『ターミネーター』、『マッドマックス』……と個人的な都合で映画しか出てこないが、まあ各自当てはまる例の一つや二つは持ってるだろう。なお、核兵器以前の大量破壊兵器として毒ガスによる世界滅亡後を描いたのがブルガーコフの『アダムとイヴ』である。
あんまり長いのでこの辺にしておきたい。相変わらずテキトーなことを書いているので検証もなければ引用もないのだが、まあブログだから構わないだろう。論文にするつもりもない。