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Lake's Bass Factory

当たり障りのないことを書くつもり。

 ロンドンに行って大英博物館に行かないのは、毎日パブで名前も知らないビールを飲んだり、テムズ川の水の色にうんざりしたりしないのと同じくらいの愚行である。かく言う私は初めてこの建物に入ったとき、帝国の波動にやられてしまった。

 大英博物館を可能にしたのは無論大英帝国である。北米、南米(英領ギアナ)、カリブ海、それにアレクサンドリアからケープタウンまでのアフリカ、インド亜大陸に東南アジア、第一次大戦後の中東、中国大陸に持っていた租界、それからオーストラリアとニュージーランド……これらの「資料」に加え、大英帝国がもたらした経済力によって買い集めた品が加わり、まさしく世界史上でも英国しかなしえないユニークな博物館ができた。

 大英博物館の「読み方」というか、楽しみ方は幾通りもある。たとえば大英博物館にはアッシリアの石像だのラムセス二世の胸像だの、高校まででやる世界史の「証拠」がたくさんある。それだけでもかなり感動する。

 私が一週間に五回も大英博物館に行ったのは、ひとつには収蔵品が多すぎて一日ではとても見きれないからである。が、もうひとつ、実はいろいろと違う見方を試していた。

 たとえば、エジプトの石像やロゼッタストーン、死者の書。あるいはエルギン・マーブル、あるいはアッシュールバニパル王の図書館。こうした時代も場所もばらばらの収蔵品たちはしかし、どれも他人にストーリーを伝えるという目的で制作された。「物語るという行為」に注目していくつかの収蔵品を同じ光の下に捉え直すと、地域ごとの違い、時代ごとの違いが見えてきて面白い。よく考えてみると、大英博物館という仕組み自体もこの光の下に把握することができる。

 あるいは、自由に想像しながら楽しむこともできる。アンダーソンの猫は最も有名な展示物の一つだろうが、これが存在するからにはこれを作った人間も存在するわけである。それがどんな人間だったか、どんな人生を送ったか、よくわからない。しかし誰か作った人間がいるはずである。ほかにも、たとえば粘土板に刻まれた楔形文字を刻んだ人もいるだろう。またはそれを読むことができて、その内容に何かを思った人もいるだろう。大英博物館は想像力を刺激するもので満ち溢れている。

 私はモノに人間性というか、たましいを見出しがちなので、エジプトからイギリスに連れてこられてこの石像はいまどう思っているだろうか、などと考えたりもする。だいたい自分の性格が悪いので、とてもサーカスティックな収蔵品たちになる。

 帝国主義の産物なのは事実であり、私がそれにショックを受けたのも事実であるが、博物館そのものには反対しない。ショックを受けたとは言っても、別に英国のかつての振舞いに怒りが湧いたとか、そんなものでは到底ない。単に人間の底知れなさにショックを受けただけだ。というわけで、いい意味に取ろうと悪い意味に取ろうと、ある種の人間活動の証として、世界史の生き証人として、今の性格をもって存続し続けてほしい。収蔵品の貴重さ以上に、あらゆる地域と時代が隣接しあうなんでもありの混沌とした空間はとても貴重だ。

 

 もう一週間近くもブログが続いている。自分を褒めたい。

 イギリスは右ハンドル左側通行、要するに日本と同じである。英語を使えば、まあSteering WheelがRight Sideにあるということになる。他方、アメリカは左ハンドル右側通行である。これはじゃあSteering WheelがLeft Sideにあると言うのか。言うかもしれない。が、冗談半分でこんなことを言う人がいる。Steering WheelがWrong Sideにある、と。

 アメリカではガソリンPetrolのことをGasと呼ぶらしい。これを聞いてあるイギリス人が言うには、Petrolはどう見ても液体Liquidで、気体Gasではない。

 英語とアメリカ英語は発音にスペリング、語彙に文法と、要するにあらゆる言語の側面に違いが見られる。イギリスとアメリカでも文化はけっこう違う(最近のイギリスはよくアメリカナイズされてきていると言われるが、比較の問題であって、まだけっこう違いはあると思う)。

 

 歴史的な背景はほかに譲るとして、この「ヘンリー・ジェイムズ問題」を取り扱ったWaughの作品にThe Loved Oneというのがある。これはあらすじを言うだけで笑ってしまうような作品だが、いかにもイギリス人が書いたという感じがして、お気に入りの一篇でもある。端的に言えばイギリスから渡ってきた男に乗せられたアメリカ人のヒロインが、いろいろあった挙句に絶望し、自殺を遂げるというものである。ヒロインはセレブ向けの霊園に勤めており、イギリス出身の男はそれを真似た低級なペット用霊園に勤めている。あとは言わない。大事なのはここからなのだ。

 私は普段ネタバレ歓迎の姿勢を取っている。というのは、ストーリーを追いながら細かいところに注目するというマルチタスクの作業ができないので、あらかじめストーリーをわかっていた方が細かく読めるからである。だが、このThe Loved Oneに限ってはあまりストーリーを明らかにしたくない。それだけ面白く、またショッキング(な人にはショッキング)だからである。

 ともあれ、このストーリーの中にちりばめられたイギリスとアメリカの差異、それが引き起こすコミカルな状況ととんでもない結末はまさにWaughの面目躍如というところである。アメリカの精神、たとえばInnocenceも、Waughの手にかかれば……

 ありがたいことに、The Loved Oneには邦訳が二つあり、岩波文庫と光文社古典新訳文庫から出ている。私は前者を読んだことはあるが、後者はない。Penguin Modern ClassicsはWaughの取り揃えがいいので、ペーパーバックとしても出版されている。

 

 余談。私は、たまに勘違いされるが、アメリカが嫌いなわけではない。遠い昔、たまたま周囲がアメリカ推しばかりで、それに嫌気がさしたことはある。けれども、アメリカを嫌っているわけではない。むしろ時々、アメリカ的なシンプルな思考法が恋しくなることもある。ほんとうだよ。あしたはあめりかを(かんせつてきに)あつかった30ねんだいのしょうせつ2へんについてかこうかな。

 本当は「科学が衰退するとき」の続きを書きたかったのだが、扱う作品が本ではないうえに、扱う部分がその作品の根幹だったということもあり、やむなく見送ることにした。ネタバレはよくない。

 

 それで、少し丁寧に自己紹介をしてお茶を濁そうと思う。

 

英文学

 

 そもそも英文学をやることになったきっかけはまったくの偶然であり、それも、あまり褒められたものではない。やりたいことはほかにあった。たとえば心の哲学とか、科学史とか。しかし、テキトーに生きてきた自分にそうした専攻に進む点数はなかったのである。それで英文学を選んだ。大好きなイギリスとのつながりを維持できそうだったし、なにより文学というのは何でもありのような気がして、それなら文学と言いながら科学史も心の哲学もできるんじゃないかと思っていた。今は無論それらへの関心も持っているが、腹を括って英文学をやるつもりでいる。

 Evelyn Waughに出会ったのは、英文学をやることになったときとほぼ同時のことだ。英文学はおろか文学もよくわからない(あまり本を読まない人間だった)私は、とりあえず入門書を買って、進学前に最低限恥ずかしくないだけの基本知識を手に入れておこうと思っていた。そこで手に取ったのが吉田健一の『英国の文学』『英国の近代文学』の二冊だった。

 吉田健一はちくま文庫の『英国に就て』で知っていたから(たまたまその年の6月ごろ英文化研究に興味があったので読んでいた)、大層素晴らしいことが書いてあるに違いないと思っていた。そして『英国の近代文学』において、さすがに本に疎い私でも知っているようなビッグネームの中に、聞きなれないWaughの名前があったのである。

 吉田健一の説明によって完全にWaughを20世紀英文学の金字塔の一つだと考えた私は、進学前の夏休みに読む本として、WaughのDecline and Fallを選んだ。彼の最初の小説作品だった。結構苦労した覚えがあるけれども、ユーモアと皮肉に満ちた作風は私を魅了した。その後いろいろと考えたけれども、今後はWaughでやっていこうと思っている。

 

 音楽

 

 プログレッシブ・ロックとやらに出会ったのも全くの偶然でしかない。高校1年生だった当時、携帯電話にはデコメールというのがあって、その定型文に「ジャケ買い」という単語があった。ジャケ買い、つまりジャケットだけで買うことだが、これをあるときふと実行に移そうと思って、近所のCD屋に行った。失敗すると嫌なので1000円のセールコーナーから選ぶことにした。手に取ったのは紺の背景にポップな地球が浮かぶジャケットのCD、要するにYesのFragileだった。

 5歳か6歳でピアノをやらされ、大嫌いで12のときに辞めた身としては、リック・ウェイクマンのキーボードが強烈だった。FragileしかなかったCDは瞬く間に増え、さらにELPにも手を出し、ELPつながりでKing Crimson(グレッグ・レイクがかつて在籍)、King CrimsonからU.K.やASIA、YesからBuggles、さらにはDavid Bowie(初期のアルバムでリック・ウェイクマンがピアノなどを担当)と音楽の世界は広がり続け、ついにキース・エマーソンが弾いているという理由で再びクラシックピアノの世界、特にバッハに戻るということまで起きた。おかげで今ではほとんど何でも聞くが、中でも70年代、King Crimsonに始まり(69年だが)Englandで終わるあの10年間の曲を(中でもいわゆるプログレを)よく聞く。

 ベースをはじめたのにはいろいろ事情があり、当初はウェイクマンやエマーソンに憧れていたのでハモンドオルガン(ただし電子)やモーグ・シンセサイザーをよく弾いていたが、まったく関係ない事情で右手指を骨折して以降、どうにか右手を酷使せずに弾ける楽器はないか考えたところ、ベースに行き当たったのである。中学でギターが必修だったので、馴染みもなくはなかった。当然(?)ベースヒーローは第一にクリス・スクワイア、第二にグレッグ・レイク、第三にジョン・ウェットンだが、立て続けに故人になってしまって悲しい。

 

将来の夢

 

 バーチャルユーチューバーかなろう小説家になりたい。それか声優。

 あながち冗談ではないのだが、実現する可能性は割と低めなので置いておくとして、やはり生涯をかけて取り組みたいのは好きな作家の布教である。Waughのほかにもう一人、Kingsley Amisという作家(同じく作家のMartinの父)が好きなのだが、両方とも満足に邦訳が出ている状況とは言い難い。私の究極の夢は、私が論文を残し、邦訳を出すことによって、未来の大学生が卒論にWaughやAmisを扱いたいとなったときに途方に暮れないようにすることである。私が今途方に暮れているというわけではない。そうではなく、吉田健一や小池滋、今ではおそらくK先生が繋いでいる糸があるから、私は途方に暮れることなく研究できるのである。そしてより多くの人がWaughやAmisを知って、笑ったり微妙な気持ちになったり、とにかく好きになる人が出てきてくれれば、これ以上ない幸せだと思う。

 とはいえ私は他人の書いたものを読むだけではなく、自分の書いたものが読まれることも望んでいる。研究者と作家と、どちらかになれると言われたら迷いなく後者を選ぶ。しかし、両者とも途方もない研鑽を積んだのちになれるものなので、今はとにかく修行を続けるしかない。

 

 ブログを始めて4日が経った。これで文字通りの三日坊主だけは回避した。一つ一つ積み上げて、自信にしていくしかない。

 漠然としたタイトルにコロンを打って、それから具体的なことを書く手法が割と使われてるよ、という話を思い出した。一昨年の記憶。

 

 WellsはThe Time Machineの中で、実に様々な未来世界を描き出した。中でも比重が大きいのは、EloyとMorlockなる二種族が、地上と地下に分かれetc...という世界である。主人公(タイム・トラベラー)が過ごす世界は地上の、つまりEloyの世界であるが、彼らは働かないパストラルというか、アルカディアというか、そういう世界に過ごしている。この怠惰について、タイム・トラベラーはユニークな推測をする(余談だが、The Time Machineの中で未来世界に対する明確な理由付けはなされておらず、推測に留まっているのはけっこう大事なところだと思う)。その推測とは、「科学が発展し、この世の問題がすべて片付いたので、もはや頭を使う必要がなくなり、緩やかに衰退した(要約)」というものである。「必要があるからこそ人間は進歩するんだなあ(要約)」というトラベラーの意見はある種の真理を含んでいる。

 今のところ、科学の発展は技術に落とし込まれることによって、社会との新たな問題を引き起こし続けている(例えばもろもろの倫理的な問題)。科学についての倫理の問題を科学で解決することができるかは疑問である。

 HuxleyのBrave New Worldにおいては、倫理の問題に科学的な解決が与えられていると言ってもいいかもしれない。すなわちConditioningによって、問題そのものを問題にしないのである。しかしBrave New Worldの世界において、科学(というか技術)は発展を続けている。ボカノフスキー法による一つの胚から生まれる子供の数は増え続け、また競争も続いている。ところが進歩の仕方は、多種の理論による競争やパラダイムに基づく通常科学ではなく、常に社会との関係によって方向性があらかじめ定められている。実際Mond(ざっくり言えば小説世界で一番地位が高く、ある意味小説世界の外部にいる人、Conditioningの例外でもある)は我々の知るような科学を希求しながらも、立場上ある論文を検閲によって発禁にしている。

 Brave New Worldの世界では個人が倫理的な問題に頭を悩まさなくなった分、Mondにその負担が集中している。彼の「幸福について考える必要がなければどれだけ良いことか(要約)」のようなぼやきは彼の人間味がよく出ていると思う。(ところで、全体主義的なディストピア小説の登場人物における「人間味」とは何だろう?余談。)

 

 いつの間にか科学の停滞の話から倫理の話に移ってしまっていてタイトル詐欺感がある。まあ書いているうちに話が逸れていくのもブログの醍醐味の一つとしてもらって、今日のところは終えたい。明日は個人的に想像が膨らむまったく別なタイプの「科学の停滞」を扱う。

 進歩

 トーマス・クーンは『科学革命の構造』のなかで、科学は進歩するものであるという前提に立って、パラダイム論を展開した。科学は進歩するが、その進歩の仕方は累積的ではなく、むしろ通常科学が危機に陥り、多数の並立するパラダイム候補の中から一つが(多くのテストを経て)選択されて既存のパラダイムに代わることでまた新たな通常科学の時代が始まるという、階段状(と言ってよいか?)になっているというのである。

 クーンはこうした科学史観(科学史+観)を科学以外の分野の発展に負っているというが、同時に科学とそれら他分野の違いについて、絶えず進歩を続けることを挙げている。科学はまさに上述のようにして進歩するのであるが、たとえば芸術だと、一つのパラダイム的なもの(たとえば写実主義)が他のパラダイム的なものに取って代わられることはない。たとえ抽象画が全盛の時代になったとしても、その中で写実的な絵を描いている人間は相変わらず芸術家である。他方地動説パラダイムを受け入れられず、一貫して天動説にこだわるような人間は、もはや科学者とは言えないだろう、というのである。

 科学は進歩する。ということは、必ずある時点よりも時間的に先(未来)のもう一つの時点における科学のほうが、解決できる問題は多いということである。クーンは技術にも進歩という特徴を認めているから、同じことが言えるだろう。

 

 よいとわるい

 次に、まったく異なった話をする。ある時点よりも時間的に先のもう一つの時点における世界のほうが、よい世界であるという考えを容易に想像できるだろう。あるいは逆に、わるい世界であるということも考えられるだろう。更に話を進めれば、世界は時間とともによく/わるくなっていくという単純化した議論も存在しうるだろう。

 17世紀以降、ニュートン力学や原子論など多くの新たなパラダイムが中世的な既存のパラダイムを置き換えていった。さらに、少し離れた(しかしとても近い)ところでは蒸気機関が生まれ、西欧世界は技術による経済的な恩恵を被ることになった。昨日より今日、今日より明日のほうがよくなっているという考えは、こうした高度成長時代にはつきものである。

 それが、19世紀もしばらくすると、そうした考えに疑問も生じるようになった。煤煙で街は黒くなり、児童労働も横行し、貧富の差も拡大した。それでロバート・オーウェンやウィリアム・モリスのような人間も出てくるのである。

 しかしそれは技術の話、科学はその間も発展をつづけた。ファラデーの電気誘導、ダーウィンによる進化論の発表、マクスウェルの電磁気学……という具合である。科学の理論によいもわるいもない(論文の出来の話ではない)。だが、それを技術に落とし込むことができるようになって、互いが互いの進歩を助け合うようになると、どうも未来は科学技術によってよりよいものになるのではないかと想像できるようになる。

 今から100年前は医療技術が未発達で乳児死亡率は高く、遺伝子工学や品種改良も発展していないので農産物の収穫量は少なく、PCや携帯のような便利な道具もない。さらに100年前はさらに不便で、さらに100年前は……とこう考えることは無理もないように思う(ただし、こうした想像には「2018年を生きる自分の視点では」という但し書きがついている)。この想像を過去の方ではなく、未来の方に適用してみる(2018年を過去として考える)と、100年後はいまよりよい世の中だろう、200年後はさらによい世の中だろう、ということになる。そして、今現在の「よさ」は多分に科学技術のおかげなので、未来も科学技術のおかげでよくなっているだろう、となる。こうした考えはいつの時代にもあっただろう(またテキトーなことを言っている)。

 21世紀に生きる上で、さすがにこうした単純な考えに諸手をあげて賛成する人はいないだろうと思う。19世紀最後にして最大級の発見、すなわちX線の発見以降、相対性理論や量子力学が登場し、17世紀以来のパラダイム転換が起きたあとで、20世紀の中ごろには核兵器が登場した。その威力が世界を揺るがしたかと思うと、三年後には米ソ間での核開発競争と冷戦が始まった。核関係の技術はその破壊的なリスク(ときに部分的に現実化した)ゆえに、技術の進歩と世界の改良に関して再び疑問を投げかけることになった。

 

 未来はよい社会=ユートピア

 未来はよい社会だとすると、現在から十分離れた時点ではユートピアが実現されているはずである。そしてその実現に技術の進歩が不可分なものとしてかかわっているのであれば、当然SFとの相性はいい。この手の考え方は有名どころではWellsのThe Time Machineに(変形ではあるが)見られる。またブルガーコフの『至福』や昨日のTimeの世界も同じ原則にのっとっている。HuxleyのBrave New Worldやザミャーチンの『われら』もまた設定は数百年先の未来である。その他挙げきれないほどのユートピア作品が未来を舞台にしている。

 これらのどれとして、モアやモリスのようにユートピアを賛美する結果では終わらない。The Time Machineは「ポスト・ユートピア」の世界を描き、ブルガーコフの『至福』はソ連社会を風刺・嘲笑し、Timeにもきらびやかな社会の「裏」がにおわされている。Brave New Worldはもっと直接的に科学技術を扱い、科学技術の進展によってモノ化した人間たちの社会を描いていると読むこともできよう。『われら』も物理学や数学が大きな比重を占め、いわゆる「科学的」に、モノ的に人間を扱う社会になっている(むろんソ連への風刺でもある)。

 いわばこれらの作品は、安直な進歩への期待を逆手に取っているのであるが、核兵器が生まれ、核戦争の危機が増大すると、もっと直接的に核による世界滅亡というポスト・アポカリプス的な作品が増えた。『渚にて』や『ターミネーター』、『マッドマックス』……と個人的な都合で映画しか出てこないが、まあ各自当てはまる例の一つや二つは持ってるだろう。なお、核兵器以前の大量破壊兵器として毒ガスによる世界滅亡後を描いたのがブルガーコフの『アダムとイヴ』である。

 

 あんまり長いのでこの辺にしておきたい。相変わらずテキトーなことを書いているので検証もなければ引用もないのだが、まあブログだから構わないだろう。論文にするつもりもない。