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『兵庫津の道』
『古代 大輪田泊の石椋』
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20200324/13/1994199820022006/69/83/j/o1080097614733080478.jpg?caw=800)
『古代大輪田泊の石椋』
(こだいおおわだのとまりのいわくら)
兵庫県神戸市兵庫区船大工町あたり、
『新川運河』の築島水門近くに
『古代大輪田泊の石椋』があります。
『日宋貿易』の拠点とするため平清盛は
奈良時代に『大輪田泊』を修築しました。
これにより、『日宋貿易』が盛んになり、
日本からは好物や材木、『宋』からは
宋銭や書物、香料などが交易されました。
1952年(昭和27年)に『新川運河』の
拡張工事の際に『松丸太の棒杭』とともに
出土した二十数個の巨石が
この『古代大和田泊の石椋』であったと推定されています。
『石椋』とは、
石を積み上げた防波堤や突堤など、
港湾施設の基礎のことをいいます。
『古代大輪田泊の石椋』案内板
「この花崗岩の巨石は、
昭和27年の新川橋西方の新川運河浚渫工事の際に、重量4トンの巨石20数個と一定間隔で打込まれた松杭とともに発見された一石です。
当時は平清盛が築いた『経ヶ島』の遺材ではないかと考えられていました。
その後、この石材が発見された場所から
北西約250mの芦原通1丁目で、平成15年確認調査が行われ、古代の港湾施設と考えられる奈良時代から平安時代の中頃の大溝と建物の一部が発見されました。
このことより石材が発見された場所は、
当時海中であったと考えられ、出土した石材は、『古代大輪田の泊の石椋』の石材であったと推定されます。
『石椋』とは、石を積み上げた防波堤
(波消し)や突堤の基礎などの港湾施設であったと考えられます。
その構造は出土状況から、港の入口にこのような巨石を3~4段程度積上げ、松杭で補強し、
堤を構築していたものと推定されます。
『大輪田の泊』は、
平安時代のはじめに律令国家の菅理のもとに
造営された『泊』(港)です。
当時、物資輸送や外交航路として重要視されていた瀬戸内海の航路と『泊』の整備が進められていました。
当時の史料には泊の運営管理を行う官舎や
石椋等の港湾設備が整備され、
中央政府から派遣された
『造大輪田船瀬』(ぞうおおわだふなせ)(泊)使が『泊』の造営や修築にあたり、
修築後は国司(こくし)が運営管理を行っていた様子が記されています。
また、承和3年(831)には、当時の中国や東アジアの最新の文化や情報を取り入れるための『遣唐使船』が暴風雨を避けるために寄港していることから、このころには大型外洋船の寄港地としても整備されていたことが窺えます。
平成17年3月 神戸市教育委員会 兵庫区役所
![本](https://emoji.ameba.jp/img/user/ma/maki82/10151.gif)
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『兵庫津』。。。🌊⚓
『津』。。🌊🌊🌊
『伊勢平氏』‼
『津市産品』
都『福原京』‼ 。。。
『大輪田の泊』。。
『和田岬』。。
『湊川』。。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20200324/13/1994199820022006/17/f0/j/o0607108014733073908.jpg?caw=800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20200324/13/1994199820022006/a5/ae/j/o1080067714733073909.jpg?caw=800)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20200324/13/1994199820022006/7b/8d/j/o0632108014733073913.jpg?caw=800)
『清盛塚石造十三重塔』
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20200324/13/1994199820022006/c8/33/j/o0648108014733073916.jpg?caw=800)
『清盛塚石造十三重塔』
【所在地】
神戸市兵庫区切戸町1
【建立期】
鎌倉時代後期
【指定日】
昭和35年5月12日指定
『概要』
この石塔は、古くから『清盛塚』と呼ばれ、
北条貞時の建立とも伝えられています。
かつては現在の位置より西南11メートルにあり、【清盛の墳墓】とも云われていましたが、大正12年に市電敷設の際、移転が計画され、
調査の結果、墳墓でないことを確認され、
現在の地に移転されたました。
相輪を除く総高が8.5メートル、
初層は145cm四方、最上層88cm四方の大きさがあり、南面の基礎部の両脇の、
右「弘安九」、左「二月日」の銘から、
弘安九年(1286年)造立と確認されています。
なお、隣にある『琵琶塚の碑』は、
もと『清盛塚』と道を挟んで向かい合っていたものを、『清盛塚』の移転と同時に
現在地に移したものです。
そこはもと『前方後円墳』があって、
その形から『琵琶塚』とよんでいたのを、
『平家物語』にみえる琵琶の達人平経正に結び付けて『琵琶塚』、つまり【経正の塚】といわれるようになったことは、江戸時代の文献にすでに記されています。
現在の碑は明治35年に建てられたものです。
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『福原』‼ 。。。
清盛入道 ‼
平 清盛 ‼ 。。。
白河法皇 ‼ 。。と 祇園女御 。。。