『安濃津』。。。


『伊勢平氏発祥の地』
三重県のほぼ中央に位置し、
伊勢湾に面する津市の西、
『産品(うぶしな)』には、
平忠盛誕生にまつわる
『胞衣塚(えなづか)』、
『産湯池(うぶゆいけ)』
などの伝承史跡があり、
『平氏発祥伝説地』と刻まれた石碑が建っています。

『津』の地名は、安濃郡地方の港の意
『安濃津(あのうつ)』に始まり、
古くは商船が集まり栄えた港でした。
本足跡




三重県『津市 産品』。。


『産品』。。という地名











『忠盛塚』



『忠盛公誕生塚』

石碑には『平刑部卿忠盛公誕生塚』
と刻まれています。
仁平元年(1151)
忠盛は、
刑部省長官である『刑部卿』に任じられ、
このままいけば『公卿』となるのは確実でしたが、その2年後体調を崩して
『刑部卿』を辞任、それから2日後に
58歳の生涯を終えました。

本足跡





史蹟 『平氏發祥傳說地』


『平氏発祥伝説地』として、
昭和14年(1939)には県史跡に指定されています。
一般に『忠盛塚』と呼ばれるこの地は、
正式には『平氏発祥伝説地』といいます。
この塚は、平忠盛が産まれたときの胞衣(えな)を埋めた『胞衣塚』ともいわれ、
忠盛が産湯を使ったとされる
『産湯池』も残っています。

桓武天皇の曾孫(そうそん)
高望王(たかもちおう)を祖とする
『平氏』は、
初め東国に土着し勢力を張っていました。
しかし、『平将門(まさかど)の乱』や
『平忠常(ただつね)の乱』以後、
東国は『源氏』の地盤となり、
貞盛の子維衡(これひら)の時に
『伊勢』・『伊賀』を本拠地とするようになり、寛弘3年(1006)
維衡は『伊勢守』に任じられています。

『平家物語』には、
眇(すが)め田舎武士の昇進をねたんだ公卿が
「伊勢瓶子(へいし)は
素甕(すがめ)なり」と
はやし、あざけったとあります。
維衡の曾孫正盛は『正四位下但馬守』に進み、
武士として最初の『昇殿』を許され、
平氏繁栄の基礎をつくりました。
ところで、『伊勢平氏』とは維衡系のことで、
『尊卑文脈』には
維衡の孫貞衡とその子貞清は安濃津三郎、
貞清の子清綱は桑名冨津二郎と傍注され、
北勢から中勢にかけての勢力伸張がうかがわれます。
貞衡の弟正衡の流れの正盛・忠盛は、
『伊勢平氏』の中では傍系にあたりますが、
忠盛の昇殿、清盛の活躍により、
『伊勢平氏』=忠盛と
理解されるようになったと考えられます。
そして、貞衡系の『伊勢平氏』は、
いつしか忠盛・清盛の郎従となり、
歴史の表舞台から姿を消してしまいました。   

『津市教育委員会』。。本足跡













桜の木











『伊賀街道』




『梛と伊勢平氏』







『産湯池』



忠盛の産湯 。。



















忠盛 ‼ 。。。
(あの‼…有名な “ 平 清盛 ” の父である。)








『忠盛塚』の北西、長谷山(316㍍)の東麓に鎮座する「置染(おきそめ)神社」境内には、
平忠盛の父、『正盛の墓』といわれる
宝篋印塔があります。

「旭晶寺(きゅうしょうじ) 」には、
昭和34年まで『正盛の墓』が安置されていた。
長谷山麓の集落奥には
「置染神社」の森があります。

「 『伊勢平氏一門の墓』
桓武天皇の後裔平維衡は『伊勢守』に任じられその後数代にわたって『伊勢の地』に居住して勢力をのばした。
貞衡とその嗣は安津三郎と称し、
正衡の嗣 正盛は武勲に輝き
その嗣 忠盛は昇殿を許され、
『伊勢平氏』の名は天下に轟き、
忠盛の嗣 清盛は『太政大臣』に任じられ
平氏の全盛時代を築いた。
産品の里は 貞衡 正衡等の平氏一門の故地と伝え『忠盛生誕の地』という。
式内置染神社は
【伊勢平氏一門の産土の社】といい、
この墓塔群は、その後裔一門ゆかりのものと伝える。

昭和五十二年十月 津市史跡名勝保存会」
(『説明板』より)
本足跡





「置染神社」

三重県津市大字産品484


祭神は
天照大神・饒速日命・火産霊命・大山祇命・
仁徳天皇

「置染神社」はもと二社に分かれていました。
一社は天照大神を祀る『神明宮』です。
もう一社は、『長谷連』がその祖、
饒速日命を祀り『産土神』としていましたが、
文政の頃(1820)、二社は合祀されました。
本足跡







「宝篋印塔(ほうきょういんとう)
『平正盛の墓』

お経を埋たる供養塔である。
旭晶寺堂ヶ谷(西方三〇〇米)に於て
信長の兵火に焼かれる(一五七五年)
この墓も境内に在り(二十数基)
法塔忠盛塚に移される。
その後旭晶寺再建(一七八五年)境内に移される。
正盛は源氏とならび平氏台頭の基礎をつくる。
忠盛それを嗣ぎ益々勢力をありつ、
『京都六波羅』に移るも忠盛、清盛ら
『伊勢の国』に往来あり
忠盛宮中昇殿の栄達も父の遺徳なりと
命日四月二日に供養した
宝篋印塔(ほうきょういんとう)であると云われる。
氏神「置染神社」に於て四月二日は
祖先代々から年中行事として行われる。
(『宮殿祭』)
忠盛の墓は多気町河田に在り
関東から維衡(これひら)―正度(まさのり)
―正衡(まさひら)と嗣ぎ正盛の孫
清盛は天下に栄へその孫維盛の時、
平氏は『壇の浦』で亡ぶ
(一一八五年一月二十四日)

昭和三十四年八月十五日大豪雨あり
「旭晶寺」全倒し墓荒廃せしをこの墓苑を創り安置す。
東の墓地(東方一〇〇米)
十基余 鎌倉時代か?
西の墓地(西方三〇〇米)
十基余 平安鎌倉時代か?
三ヶ所四十数基は先祖、平氏
にまつわる宝塔であると信じてこそ
心を移し供花をなす。 産品歴史保存会」
(『説明板』より)
本足跡




平正盛 ‼ 。。。





平氏 。。。『産土』。。。




『桓武平氏』の諸流のうち最も栄えたのは、
平維衡(これひら) を祖とする『伊勢平氏』で、
維衡が『伊勢守』に任命されて以来、
現在の津市付近を本拠地として、
伊賀や尾張にまで勢力を拡大していきました。
勢力圏が拡大し、支流や分家が増えると
一族同士の対立や争いが生じました。
源氏は一族内の紛争で殺し合いをしていますが、
平氏は内部に亀裂を含みながらも、
一族の結束を強める事で繁栄しました。
しかし、平氏も初期には
主導権争いがかなりありました。
長徳4年(998)に維衡は、
『伊勢』の所領をめぐって同族の
平致頼(むねより)と争い、朝廷に召喚されました。
この時は致頼に非があるとされ、隠岐へ遠流、
維衡は一時、淡路島に身柄を移されています。
この争いは、次の世代にももちこされ、
正度(維衡の子)は致頼の子、
致経(むねつね)と伊勢北部の所領をめぐる激しい戦いを展開しました。
父子二代にわたる合戦は、
最終的に維衡流の勝利となり、
致経の子孫たちは、その後『伊勢』から姿を消しています。
ちなみに致経は典型的な荒武者でしたが
歌に優れ、
『詞歌和歌集』に一首みえます。
(巻9雑上335)
伊勢の拠点を失った致経の良茂流は地方武士に転落し、新たに本拠としたのが、
尾張の『野間内海荘』(知多半島)です。
この流れをくむ
長田忠致(おさだただむね)は、
『平治の乱』に敗れ彼を頼って落ちてきた
源義朝と忠致の娘婿鎌田正清を謀殺しています。
『河内源氏』との主従関係が、いつ確立されたのかは不明ですが、
当時、忠致は尾張を勢力下においていた
源氏の家人で、正清は義朝の乳母子です。

維衡の子正度(まさのり)には、
維盛(これもり)・貞季(さだすえ)・
季衡(すえひら)・貞衡・正衡の五人の息子があり、それぞれ『伊勢』に本拠地を築いていましたが、この中でのちに
本流となったのが正衡の流れです。

本足跡







 『伊勢』。。。



















『芸濃河内』。。








『平家塚』




『岩間山 成覚寺』

  三重県津市芸濃町河内1094 

【平家の落人伝説】
 『源平の合戦』という戦いで、
源氏に負けた平氏の生きのびた人々が、日本各地に隠れ住みました。
これを『平家の落人伝説』といい、日本各地の山奥などの山村に伝えられています。

芸濃町の河内には、
『熊野』より逃れてきた平維盛という人が移り住んでいたそうです。
ここに伝わっている資料によると維盛は
入水自殺をした・・と見せかけ
(『熊野での入水』)
この地に逃げ延び31人の家来と隠れ住んでいたそうです。。
本足跡



『平維盛の墓』




平維盛 ‼ 。。。


維盛の家来達が『落人の村』と呼ばれる
河内地区を形成してここの住人は皆
『落合姓』を名乗り
家紋を『五本骨の扇』にしていたのだそうです。
ちなみに♪。。
ご住職様の家紋は『揚羽蝶』なんだそう。

本足跡




『平維盛 ‼』








松阪市 。。

『嬉野日川』。。。

『日川の里』。。。





『平家六代の墓』
なめり湖の奥、
山道を登りきった『日川の里』は、
『源平合戦』の後、平維盛の子「六代」と
その郎党が人里を離れて隠れ棲んだとされる地。
「日川寺」には、
『六代の墓』とされる宝筐印塔が
いまも静かにたたずんでいる。

六代とは、【平家の嫡流】で 
平清盛⇒重盛⇒維盛⇒六代 と続き、
世が世であれば、
『平家の統領』となるべき人物です。

『案内板』より。。本足跡




『平家 六代の墓』





















【平六代の熊野詣】
『平家物語』巻第十二、
「六代被斬(ろくだいきられ)」より、

平六代(たいらのろくだい、
1173年~1199年)は、
平維盛の嫡男。平清盛のひ孫。
 平家興隆の基礎を築いた
平正盛(たいら の まさもり)
から数えて直系の六代目に当たることにちなんで「六代」と名づけられました。

さて。
そうこうしているうちに、
六代御前 ようやく14,5歳にもおなりになったので、見目形はいよいよ美しく、
辺りも照り輝くばかりである。
六代御前の母上はこれをご覧になって、
「ああ、私たちの世の中であったなら、
今頃は『近衛司』
(※このえのつかさ:近衛府の官人※)になっているだろうに」とおっしゃったのは
あまりのことで不穏当な言葉であった。

平六代は『平家の都落ち』には従わず、
母(藤原成親の女)や妹とともに
京に隠れ住んでいました。

『壇ノ浦』での平家滅亡後、
六代は捕らえられ(このとき六代は12歳)、
本来なら『鎌倉』に送られて処刑されるところであったが、六代の乳母に助命嘆願を頼まれた『高雄』の文覚上人が『鎌倉』まで頼朝を説得しに行き、六代の身柄は文覚に預けられることとなりました。
文覚は六代とその母や妹を引き取り、
『高雄』に住まいを用意し、そこに住まわせます。
六代の母は六代に出家を勧めますが、
文覚は惜しんで出家をさせませんでした。

 『鎌倉殿』(※源頼朝※)はいつも六代のことを不安に思われて、『高雄の聖』(※文覚※)のもとへついでがある度に、
「ところで維盛卿の子息はどのような者ですか。昔、頼朝を人相占いして、そうだと判定したように、怨敵をも滅ぼし、昔の恥辱をそそぐ者でしょうか」と尋ね申されたので、
聖は返事に
「これは底もない臆病者でございますぞ。
ご安心ください」と申されたけれども、
鎌倉殿はそれでもご納得できない様子で、
「誰かが謀反を起こせばすぐにその味方をする聖の御坊である。
ただし頼朝が生きている間は誰が謀反を起こすことができようか。
しかしながら、私の子孫の代になったら
御坊は何をするかわからない」
とおっしゃったのはおそろしいことである。

六代御前の母上はこれをお聞きになって、
「出家しなければとてもだめだ。
一刻も早くご出家なさい」
とおっしゃったので、
六代御前 16歳と申した文治5年の春の頃に、
美しい髪を下ろし、かきの衣
袴に笈などを用意し、聖にいとまごいをして修行に出られた。
斎藤五、斎藤六も同じ姿で出立し、
お供申し上げた。

まず『高野』へ参り、父の仏門の師である
滝口入道(※もと、平重盛に仕えていた武士、斉藤時頼。
恋人・横笛への思いを振り切るために出家し、女人禁制の高野山で修業を積み、
大円院第8代住職となった。※)
を訪ねて会い、父のご出家の次第、
臨終のありさまを詳しくお聞きになって、
「修行地である一方で父の遺跡であるのにも心がひかれる」といって、
『熊野』にお参りになった。

 『浜の宮』の御前で父がお渡りになった
山成の嶋を見渡して、渡りたく思われたけれども波風が逆でできなかったので、
力及ばずお眺めになっていると、
「我が父はどこにお沈みになったのか」と、
沖より寄せる波にも問いたく思われた。
渚の砂も父のお骨であろうかとなつかしく思われたので、涙に袖は濡れ、塩を組む海人の衣ではないけれども、乾く間がないとお見えになる。

 渚に一夜逗留して、念仏を申し経を読んで、指の先で砂に仏の形を書きあらわして、
夜が明けてから尊い僧侶を請うて、
父の御ためと供養して、作善の功徳をすっかり父の霊魂にめぐらし向けて、亡き父にいとまを申し上げながら、泣く泣く京へ上られた。

頼朝没後、文覚は、
土御門通親(つちみかど みちちか
:後鳥羽院の院政を支えた公家政治家)
を襲撃する計画に関与したとして佐渡国に流され、のち対馬に流されました。

 そして、文覚が庇護者となって一命を救われていた六代も、文覚に連座して処刑されてしまいました。
享年 27
(没年に関しては異説もありますが)。

これにより
【平清盛の嫡流】は完全に断絶しました。







六代 ‼ 。。。

 平 高清(たいら の たかきよ
/平 六代 (たいら の ろくだい)、
承安3年(1173年?)-没年不詳)は、
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての
平家一門、僧侶。
父は平維盛。平清盛の曾孫にあたる。
母は藤原成親の娘・新大納言局。

文治5年(1189年)に
六代は剃髪して『妙覚』と号す。





















 『平氏』と呼ばれる一族には【4系統】
(桓武、文徳、仁明、光孝)ありますが、
その中で活躍したのが『桓武平氏』です。

桓武天皇の子、葛原親王が『平』姓を賜り、
葛原親王の孫である高望王が上総介に就任すると、東国の豪族と結びつきを強めます。
東国の土着豪族は天皇の血をひく平氏と婚姻関係を持つことで、中央政権とのつながりを保とうとしたのです。
これらの土着豪族が
千葉氏、三浦氏、土肥氏、秩父氏、大庭氏、
北条氏であり、彼らは『坂東平氏』と呼ばれるようになりました。
『坂東平氏』の系統である平将門、平忠常が反乱を起こし鎮圧されると次第に
『坂東平氏』は衰退し、
代わりに同じ高望王の系統(桓武平氏)で
『伊勢』で勢力をもつ
『伊勢平氏』が台頭してきます。
この『伊勢平氏』の中から
平清盛がでてくるのです。
本足跡