美男美女の多い『平家一門』を問わず、
当時の『宮廷』にあって
『光源氏の再来』と称された
『平氏一門の嫡流』・平維盛 ‼。。


 美貌の貴公子だったそうで、
「今昔見る中に、ためしもなき」
「容顔美麗、尤も歎美するに足る」
などと評されていたらしい。

後白河法皇50歳の祝賀では、
烏帽子に桜と梅の枝を挿して
『青海波』を舞い、あまりの美しさから
『桜梅少将』と呼ばれた。

本足跡




維盛少将出でて落蹲入綾をまふ、
青色のうえのきぬ、
すほうのうへの袴にはへたる顔の色、
おももち、けしき、
あたり匂いみち、みる人ただならず、
心にくくなつかしきさまは、
かざしの桜にぞことならぬ。 

筆
























『平家物語』…【平維盛の入水】
 
 さて、『熊野三山』を詣でた平維盛
(たいらのこれもり:1158年~1184年)の一行……

 『熊野三山』の参詣を無事にお遂げになったので、
『浜の宮』と申す『王子』の御前から一葉の舟に棹さして、万里の蒼海にお浮かびになる。
遥か沖に山成(やまなり)の嶋という所がある。
それに舟を漕ぎ寄せなさって、岸に上がり
大きな松の木を削って、中将の名札を書き付けられた。
「祖父太政大臣平朝臣清盛公、法名浄海(じょうかい)、
親父内大臣左大将重盛公、法名浄蓮(じょうれん)、
三位の中将維盛、法名浄円(じょうえん)、
生年27歳、寿永3年3月28日、那智の沖にて入水す」
と書き付けて、また沖へ漕ぎ出しなさる。

 決心していたことではあるが、今際のときになったので、気が滅入るようで悲しくないということはない。
頃は3月28日のことなので、海路は遥かに霞わたり、
あわれをもよおす類いの景色である。
ただ大概の春でさえも、暮れ行く空は物憂いものだが、ましてや今日を限りのことなので、気が滅入ったことであろう。
沖の釣り舟が波に消え入るように思われるが、
さすがに沈みはしないのをご覧になって、
自分の身の上はと思われたのであろうか。

 雁が北国を目指して飛んでいくのを見ても、
故郷の妻子への便りをことづけたく、また蘇武が雁に手紙を託した悲しみに至るまで、思いやらないことはなかった。
「これは何事か。今なお妄執が尽きないとは」
と思い返しになって、西に向かって手を合わせ、
念仏なさる心のうちでも、
「すでにただ今が自分の最期のときであるとは、
都ではどのようにかして知っているだろうし、風の便りの言づても、今か今かと待っていることだろう。
自分が死んだことは最期には知れることだろうから、この世にないものと聞いて、どんなにか嘆くであろう」
などと思い続けられなさったので、
念仏を止めて、合掌の手を崩して、『聖』
(※滝口入道。
もと、平重盛に仕えていた武士、斉藤時頼。
恋人・横笛への思いを振り切るために出家し、
女人禁制の高野山で修業を積み、大円院第8代住職となった。※)に向かっておっしゃった。

 「嗚呼、人の身に妻子というものは持ってはならないものであるのだな。この世でものを思わせられるだけでなく、後世菩提のさまたげとなる口惜しさよ。
ただ今も思い出しているぞ。このようなことを心中に残せば、罪が深いと聞いているので、懺悔するのだ」

 『聖』も哀れに思われたけれども、自分まで気が弱くなってはできなくなるだろうと思い、涙をこらえ、
そのような様子は見せずに相手して申し上げた。

 「まことにそのようには思われましょう。
身分の高い者も低い者も、恩愛の情というものは人の力でどうこうできないものなのです。
なかでも夫婦は、一夜の枕を並べるのも
五百生の宿縁(※ごひゃくしょうのしゅくえん
:500度生まれ変わる前から結ばれている縁※)
と申しますので、先世の契りが深いのです。
生者必滅、会者定離は浮き世の習いでございます。

 末の露(もとのしずく)のためしもあるので、
たとえ遅い早いの違いはあっても、遅れ先立つ御別れを最後までしなくて済むというようなことがございましょうか。
かの離山宮での玄宗と楊貴妃の秋の夕べの約束も、
ついには心を悲しませるきっかけとなり、
漢の武帝が甘泉殿に妻の生前の姿を描かせたというが、その恩愛の情も終わりがないということではない。


松子・梅生(※しょうし・ばいせい
:ともに漢の仙人※)にも死の悲しみはある。
等覚・十地(※とうがく・じゅうじ
:等覚は菩薩の中の最上位、
十地は等覚に次ぐ菩薩の位※)
でもやはり生死の掟には従う。
たとえ長生きの楽しみをお誇りになるとしても、
このお嘆きはお逃れになることができない。
たとえまた百年の齢をお保ちになるとも、
このお恨みはただ同じことと思われましょう。

 『第六天の魔王』という外道は、欲界の六天を我が領土とし、なかでも欲界に住んでいる衆生が生死を離れて悟りを得ようとすることを惜しみ、あるいは妻となって、
あるいは夫となって、これを妨げようとします。

 三世の諸仏は一切衆生を我が子のように思われて、
再び他の世界に戻ることのない極楽浄土に進め入れようとなさるが、妻子というものは限りもない遠い昔からずっと生死の世界に流転する絆となるがゆえに、
仏はきつく戒めになるのです。

 妻子が恋しいからといって気弱にお思いになってはなりません。
源氏の先祖の『伊予の入道』、頼義
(らいぎ、よりよし)は、
勅命によって奥州の安倍貞任(あべのさだとう)
・宗任(むねとう)を攻めようとして、
12年の間に人の首を斬ること1万6千人、山野の獣や川の魚が他の命を絶つことは幾千万か数はわからない。
そうでありながら終焉のとき、一念の菩提心を発したことによって、往生の願いを遂げたと受けたまわっています。

 なかでも出家の功徳は莫大であるので、先世の罪障はみな滅びるでしょう。
たとえ人が高さ三十三天まで届くまでの七宝の塔を建てようとも、1日の出家の功徳には及びません。
たとえまた百年千年の間、百人の『羅漢』
(※阿羅漢(あらかん)に同じ。最高位の修行者※)
を供養したとしても、その功徳は1日の出家の功徳には及ばないと説かれています。
罪の深かった頼義は心強く道を求めたので往生を遂げました。
さほどの罪業がおありでないのに、
あなたはなぜ浄土へお参りにならないのですか。

 そのうえ、当山の権現は本地阿弥陀如来でございます。
阿弥陀如来はその四十八願の第一願「無三悪趣」の願から第四十八願の「得三宝忍」の願まで、一々誓願していらっしゃるので、衆生化度の願が叶わないということはない。
なかでも第十八願では
「もし自分が仏になったときに、十方の衆生が真心をもって自分を信じ極楽に生まれようとして念仏を10遍唱えてなお極楽に生まれることができない者があれば、
自分は正しい悟りを開いたといえない」
と説かれたので、1度ないし10度の念仏で極楽往生できる望みはあります。

 ただ深く信じて、ゆめゆめお疑いにならないように。
2つ都内真心をこめて、あるいは10遍、あるいは1遍でもお唱えになるならば、
弥陀如来は六十万億那由他恒河沙の無限大に大きな体を縮めて1丈6尺のお姿で現われ、
観音勢至の2菩薩以下の無数の菩薩が百重千重に弥陀を取り巻き、音楽詠歌を奏して、ただ今極楽の東門を出て来迎しなさるので、御身は蒼海の底に沈むとお思いになるとも、紫雲の上にお上りになるのです。

 成仏得脱して悟りをお開きになれば、娑婆の故郷に立ちかえって妻子をお導きになることもできます。
少しも疑ってはなりません」
と言って、鐘を打ち鳴らして進め申し上げた。

 中将は今が極楽往生の絶好の機会だとお思いになり、たちまちに妄念をひるがえして、
声高に念仏を100遍ほど唱えつつ、
「南無」と唱える声とともに、海へお入りになった。
兵衛入道も石童丸も、
同じく御名を唱えつつ、続いて海へ入った。

与三兵衛重景(よそうひょうえしげかげ
:平維盛の乳母子)と石童丸(いしどうまる)は、
『屋島』の陣中から逃亡したときから連れていた従者。
『高野山』で維盛とともに出家しています。
 維盛は享年27。兵衛重景は享年26~27。
   石童丸は享年18。
若き命が『熊野の海』に沈みました。

 維盛が『熊野の海』に『入水』したことは都にも伝わり、親交のあった建礼門院右京大夫はその死を悼み、
歌を詠んでいます。


春の花 色によそへし 面影の
むなしき波 のしたにくちぬる


悲しくも かゝるうきめを み熊野の
浦わの波に 身を沈めける


📕 筆








那智の沖。。『山成島』


『那智』…「補陀洛山寺」の裏山には、
「維盛」と
『壇ノ浦』で安徳天皇を抱いて入水した
「平時子(二位の尼)」の
『供養塔』が建てられている。 

本足跡

















平家きってのイケメン
・桜梅の少将 平維盛 ‼

「平 維盛」 (たいら の これもり)

はじめに
平維盛は1159年に、
平重盛の嫡子として生まれます。

父の重盛は、あの平清盛の嫡子です。

維盛は立ち居振る舞いの優美なイケメンで、
『桜梅の少将』というあだ名もありました。

どれほどのイケメンだったかというと、
なんと『光源氏の再来』とまで言われたほどです。

【誰もが認めた美男】
1176年の3月、18歳の維盛は
後白河法皇の50歳を祝う宴で、
『青海波の舞』を披露します。

維盛の舞う姿を見た人たちが絶賛していたことが、『建礼門院右大夫集』に書かれています。

「(維盛の美しさには)
花ですら圧倒されてしまいそうだ」

この文章から、維盛が誰もが認めるイケメンだったということがよく伝わってきます。




【武人としての維盛】
美男として名をはせた維盛ですが、
彼は源平最初の全面衝突となった
『富士川の戦い』において大将を務めています。

『平家物語』や『吾妻鏡』では、
源頼朝が率いる軍勢が維盛率いる軍勢を退けた戦いとして描かれていますが、
頼朝は戦場に間に合わなかったので、
実際は『甲斐源氏』と維盛率いる軍勢の戦いです。

 

『富士川の戦い』が始まる前。

陣を構えた時点で、維盛軍からはすでに数百名が投降していました。
現地の平氏勢力は『甲斐源氏』に二度敗北し、
維盛軍の士気は低くなっていたのです。

そのうえ維盛軍は『駆武者』を多く抱えていました。
『駆武者』とは
仕える家への奉公のために戦う武士と違い、
あちこちから集められた戦闘要員のこと。

そのため、意欲が欠けている者が多かったのです。

駆武者たちが次々と離脱するなか。
『甲斐源氏』の軍勢が行動を起こし、
驚いた水鳥が一斉に飛び立ちました。

すると、その音を聞いた維盛の軍勢は、
大軍の襲来だと思って大混乱に陥ります。

その結果、戦わずに退却することとなり、
『富士川の戦い』はあっけなく終わりました。

そして、後の『倶利伽羅峠の戦い』でも、
維盛は敗北しました。

 



『富士川の戦い』⚔️






『倶利伽羅峠の戦い』⚔️








1183年。
平家は『都落ち』し、維盛は妻と子と別れます。
維盛の妻は、藤原成親の娘で、いわば仇敵でした。
なので別れたのは、一門からの風当たりを考慮してのことでしょう。

この際、有力郎等も離反してしまい、
その結果、維盛は平家内での居場所をなくしてしまうことになります。

 



【那智の海に散る】
翌年、九州まで落ち延びた平氏一門ですが、
維盛は妻と子への恋しさで『屋島』を抜け出し、『熊野』へ向かいます。

そして『熊野参詣』の後、
『那智の海』で命を絶ってしまいます。

『光源氏の再来』と言われた維盛ですが、
武人として名を挙げることは叶いませんでした。

しかし、『建礼門院右大夫集』に、
「平家の公達はどの人も素晴らしいけれど、やはり維盛様は格別に思う」とあります。

『桜梅の少将』と呼ばれた維盛が、権勢を誇った平氏栄華の時を華々しく彩ったのは、
間違いないことでしょう。

本足跡








清盛 。。。 重盛 。。。 維盛 。。。






序盤の‼…大事な【二大決戦】!!✨⚔️

そこで大将を務めるも‼…続けざまの大敗!!

ゆえに …。。。
『無能なイケメン』などと、揶揄されることに
。。。














『源平合戦』が激化するにつれて、
都に悲報が次々に届きました。
維盛が『熊野で入水』したと聞き、
建礼門院徳子の女房右京大夫は
言いようもなく悲しく思い、
彼の見事な舞姿を回想し
『建礼門院右京大夫集』に記し留めています。
この家集の215と216番の長文の詞書によれば、
安元 2 年(1176)3月4日から6日にかけて、
後白河院の五十歳を祝う(長寿の祝)宴
が法住寺殿で催されました。
賀宴の最終日、18歳の維盛が
『青海波』(せいがいは)を舞う姿に
『源氏物語』の【紅葉賀】(もみじのが)
を思い浮かべた人々は、
その姿を称賛しあまりの美しさに
『光源氏の再来』ともいいました。








その頃の平家は栄華を誇り、
居並ぶ平家の公達の華やかで
優雅なさまや大がかりな『垣代』(かいしろ)が維盛の舞をさらに盛りあげました。
『垣代』とは、
『青海波の舞』の時、舞人と同じ装束で笛を吹き拍子をとりながら、
垣のように舞人を囲んで庭上に立ち並ぶ
40人の楽人のことで、
院政期にはとくに選ばれた公卿の子弟が
担当しました。

維盛の晴れ姿は当時の語り草であったようで、
『平家物語・巻10・熊野参詣』に
那智籠りの僧の述懐が記されています。
「『屋島の陣』をひそかに抜け出し3人の従者とともに高野山に赴き出家した維盛は、
かつて『小松家』に仕えていた滝口入道
(斎藤時頼)に導かれ、父重盛が崇拝していた『熊野』に参詣しました。
那智籠りの僧の中に維盛を見知っている者がいて、後白河院の『五十の賀』で
桜の花を頭に挿し『青海波』を舞われた時は、
露に濡れてあでやかさを添える花のようなお姿、風にひるがえる舞の袖、
地を照らし、天も輝くばかりで、内裏の女房達に深山木の中の桜梅(やまもも=楊梅)のようなお方などといわれたお方でした。
と仲間の僧に語り、
そのやつれ果てた姿に袖を濡らしました。」
維盛は『青海波』を舞って以来、
『桜梅の少将』とよばれたという。

維盛が右少将成宗(藤原成親の次男)と
『青海波』を舞い、
人々に称賛されたことは
藤原隆房の『安元御賀記』にも見え、
九条兼実はその日記『玉葉』に
「相替り出で舞ふ ともにもって優美なり
なかんずく維盛は容顔美麗、
尤も歎美するに足る」と
維盛の舞に深く感動したことを記しています。 

平安時代中期に紫式部によって著された
『源氏物語』は、
その後の日本文学に絶大な影響を与え、
この物語に影響を受けた文学作品が次々と生み出されました。
鎌倉時代末期に成立した『平家物語』も
その影響を受けた作品です。

『源氏物語』紅葉賀の巻に
光源氏が『青海波』(舞楽の曲名)を舞って
人々が感激の涙を流し、絶賛したという記述があります。
藤壷が光源氏との不義の結果妊娠したことを知らぬ桐壺帝は、
藤壷の懐妊を大層喜び、藤壺が
朱雀院の50歳の式典に参加できないのを残念がり、試楽(リハーサル)を催し、
光源氏は頭(とうの)中将とともに
『青海波』を舞いました。

本足跡




























『平維盛の木像』

平安時代末期の武将。
平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男。
平氏一門の嫡流であり、美貌の貴公子として宮廷にある時には『光源氏の再来』と称された。
『治承・寿永の乱』において大将軍として出陣するが、『富士川の戦い』
・『倶利伽羅峠の戦い』の二大決戦で
壊滅的な敗北を喫する。

父の早世もあって一門の中では孤立気味となり、平氏一門が都を落ちたのちに戦線を離脱、
『那智の沖』で入水自殺したとされているが、
芸濃町河内には維盛がこの地に移り住んだという伝説がある。
維盛は53歳まで生き、「成覚寺」には
『維盛の墓』と『木像』が伝わる。


本足跡