富士川







富士川の戦い‼

治承・寿永の乱

年月日

場所駿河国富士川(現・富士市


結果
目立った交戦のないまま平氏の撤退

源氏
源頼朝武田信義
戦力40,000騎(玉葉)

平家
平維盛
戦力2,000騎(玉葉)

富士川の戦い(ふじかわのたたかい)は、
平安時代後期の
治承4年10月20日1180年11月9日)に
駿河国富士川源頼朝武田信義
平維盛が戦った合戦である。
治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の
1つである。












“富士川の戦い”から遡る………こと、





石橋山の戦いで敗れた源頼朝は
安房国で再挙し、進軍しながら東国武士がこれに参集して大軍に膨れ上がり、
鎌倉に入る。

一方、甲斐国で挙兵した武田信義らは駿河国目代を討ち取った。
その両者が駿河国で合流し、

都から派遣された平維盛率いる追討軍と
戦い勝利し、

頼朝は南坂東で、

武田信義ら甲斐源氏は甲斐駿河遠江での割拠を確立させた。






そして!!


平維盛軍5万が源頼朝追討のため、
京から鎌倉へ進撃し、

頼朝これに応じて20万騎を従え西進。

治承4年(1180)10月18日、
黄瀬川(静岡)で甲斐の武田軍と合流。
富士川(静岡)を挟んで対陣した。

10月19日の夜、甲斐源氏の武田信義がひそかに対岸の陣の平氏へ奇襲をかけようと富士川を渡ろうとした時、
水鳥がいっせいに飛び立ち、その羽音に驚いた平氏の軍は一戦も交えないで京都へ退散してしまった。。
…『平家物語』より







頼朝率いる源氏軍と平維盛を総大将とする平家軍は1180年、富士川に着陣した。
富士市新橋町の和田川沿いに、富士川の合戦にちなんだ「平家越」の碑がたつ。
決戦前夜、富士川を飛び立つ水鳥の羽音に驚いた平家の軍勢は、源氏来襲と勘違いし、われ先に逃げ惑った。




源氏軍‼。。まともに戦わずに圧勝‼



頼朝はその勢いで京に攻め上ろうとしたが、関東の地固めが先決と言う
千葉常胤上総介広常三浦義澄らの進言に従って兵を鎌倉に帰した。

その途中、10月21日黄瀬川で奥州から頼朝の挙兵を知り、
駆けつけた義経と対面した。                      

頼朝と義経の対面。。





























ちなみに♪。。足跡musiclove



平維盛(たいらの-これもり)




1157‐84?(保元2‐元暦1?)
没年:元暦1.3.28?(1184.5.10)
生年:保元2?(1157)


平安末期の武将。平重盛の長男。

清盛の嫡孫。小松中将と称す。
右中将・蔵人頭を歴任。

平氏の嫡流として幼少より重んじられる。
舞の優美さで世人の称賛を得る。

治承4(1180)年,源頼朝追討の総大将として臨んだ富士川合戦で,水鳥の羽音に驚き敗走。
寿永2(1183)年礪波山の戦では源義仲に敗れ,平家都落ちの因を作る。

文治1(1185)年屋島の陣を脱し,高野山で
出家。
滝口入道立ち会いのもとに那智で入水と
『平家物語』は伝えるが,
源平盛衰記』は,頼朝を頼り東下,相模で没したと記す。
平氏一族における立場は終始微妙で,晩年の行動は謎が多い。




“富士川の合戦”・“倶利伽羅峠の合戦”
という二大合戦に続けて大敗‼

無能なイケメン。。ともいわれる維盛;













通称“桜梅少将”とも、いわれた維盛桜


 美貌の貴公子、平維盛

平維盛は、平清盛の嫡孫で平重盛の庶長子として生まれた。
それはそれは美貌の貴公子だったそうで、「今昔見る中に、ためしもなき」
「容顔美麗、尤も歎美するに足る」
などと評されていたらしい。

後白河法皇50歳の祝賀では、
烏帽子に桜と梅の枝を挿して『青海波』を舞い、あまりの美しさから“桜梅少将”と呼ばれたそうな。





維盛少将出でて落蹲入綾をまふ、
青色のうえのきぬ、
すほうのうへの袴にはへたる顔の色、
おももち、けしき、あたり匂いみち、
みる人ただならず、
心にくくなつかしきさまは、
かざしの桜にぞことならぬ。。。筆