伯耆國會見郡大原五郎大夫安綱 ‼️。。 ⚔️キラキラ


















『名物  童子切安綱』









『太刀 銘 安綱』(『名物 童子切安綱』)

現存しており、現在は『東京国立博物館』
に所蔵されております。

『大包平』と共に『日本刀の東西の両横綱』と言われ最も優れた名刀と称される刀です。 

本足跡
















伯耆安綱(ほうきやすつな)‼️。。
伯耆安綱は、三条宗近、備前友成
と共に平安末期の三名工として知られている。 

『日本最古の三匠』
と称せられる名匠の一人である 










安綱 ‼️。。。

























































『伯耆國』。。。























 平安時代後期、名工・伯耆国安綱の時代に完成されたという日本刀独自の姿。
峰よりに鎬をつけた鎬造(しのぎづくり)と緩やかな反りを持ちます。




 鳥取県伯耆町大山(だいせん)麓の
大原地区の村はずれに『大原安綱の碑』がひっそりとあります。

安綱は
平安時代中期の日本を代表する名刀鍛治で、『伯州刀工の始祖』と云われており、
日本刀独特の『反り』を広めた人物としても伝えられています。

 ここ八郷の大原地区には『大原安綱』
という平安時代の有名な刀鍛治で、
『伯州刀工の始祖』と云われる人の碑があります。

安綱の作で最も有名なのが、
源氏代々の宝剣・国宝
『童子切(どうじぎり)』。
『天下五剣』の一つに数えられる銘刀です。

また『平治物語』に登場する
平家代々の守り刀、
銘刀『抜丸(ぬけまる)』は
安綱の子である真守の作と伝えられています。










『大原古鍛治発祥の地』

鳥取県西伯郡伯耆町大原
(伯耆国会見郡大原)

一、
安綱(大同)(806年)→
真守(慶祥)(848年)→
守綱(寛平)(889年)→
真綱(承平)(931年)・有綱・安家、
 真綱→安守(応和)(961年)→
友安(長徳)(995年)

二、
安綱は『伯耆古鍛治の始祖』で反りのある
『日本刀の創始者』である。
現在『天下五剣』中の絶品と称されている
国宝『童子切安綱』
(『東京国立博物館蔵』)の作者である。

『太平記』(1317年)に
「この太刀は伯耆国会見郡に
大原五郎太夫安綱という鍛治あり一心清浄の誠を至しきたえ出したる剣なり」とある。

三、
真守(さねもり)・大原真守刻名の太刀が数振り現存しているが代表作は『抜丸』と称されている名刀である。
『平治物語』記述によれば
「この太刀は嵯峨天皇の勅命により
伯耆国大原に住する真守の作であり、
初めは『木枯』と呼ばれていたが、ひとりでに抜け出して平忠盛の危急を救ってより
『抜丸』と改名されて平家累代の守り刀として重宝されたとある。

四、
当地方は良質の真砂砂鉄の産地であり、
「大山寺」とのかかわりにより平安時代(古刀期)にこの地で現在に伝わる多くの国宝・
重要文化財・重要美術品級の名刀が
『大原鍛治一門』により鍛え出されている。























酒呑童子を成敗した天下五剣の名刀
≪ 童子切安綱の伝説 ≫

丹波の『大江山』という所に
酒呑童子(しゅてんどうじ)という、
角が5本、目が15個もある大鬼が住んでいて、貴族の娘達を次々とさらっては食べていた。

帝の命により
時の豪傑として知られていた源頼光率いる
四天王たちは討伐隊を結成し鬼退治に出かけることとなる。
まず神々に必勝祈願をしたのち、
山伏に変装して大江山へと向かった。

途中、3人の老人と出会い
(石清水八幡、住吉明神、熊野権現の化身たち)様々な力を授かり、
いよいよ酒呑童子との戦いに挑む。

酒呑童子を油断させて酒
(神々の化身から授かった毒酒)を呑ませ
酩酊している隙に鉄の鎖で縛り、
大原安綱作の太刀を一振りし首を刎ねた。
首のない酒呑童子はなおも襲い掛かってきたが、星甲(これも化身から授かった甲冑)
が身を守ったという。
こうして大原安綱作の太刀と、神々の力に守られながら、頼光たち四天王は酒呑童子を成敗したという。
それ以来、大原安綱作のこの名刀は
『童子切』『童子切安綱』
あるいは『鬼切』と呼ばれるようになった
・・・らしい。

『童子切』はその後も、足利将軍家から、
豊臣秀吉、徳川家康ら時の武将らへと渡り続け、松平家の家宝として継承され、
現在は【国宝】として『東京国立博物館』に所蔵されている。







『平治物語』に登場する平家代々の名刀
≪抜丸の伝説≫

『抜丸』(ぬけまる)は、大原安綱の子である真守(さぬもり)の作と伝えられる
平家伝来の名刀で、『源平盛衰記』にも登場する。
元々は伊勢に住む貧しい男が伊勢大明神のお告げにより授かった不思議な力を持つ刀で、
猟に出れば獲物を逃すことは無く、
大木に掛ければ大木が一夜にして枯れることから『木枯』と呼ばれていた。
この噂が広まり、時の『伊勢守』であった
平忠盛の手とする所となる。

ある日、平忠盛が『六波羅池殿』で昼寝をしていると池から大蛇が現れ襲い掛かろうとした。
その時、枕元においてあった刀(木枯)が自らサヤから抜け出し、大蛇を追い払ったという。
以来この刀を『抜丸』と呼ぶようになった。

その後、忠盛の子である頼盛に渡され、
『平治の合戦』では頼盛があわや兜を敵の熊手に押えられたところを、柄ごと『抜丸』で切り落とし難を逃れたという。


本足跡















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