🏔️❄️キラキラ












『天野の里』

 高野山のふもと、『天野の里』は
四季折々の景趣に富む。
 かつて、ここを訪れた白州正子さんは
「天の一廓に開けた夢の園」と感嘆した。

 平成元年(1989)、環境庁の
「ふるさといきものの里」に認定され、
初夏(6月初旬)の夜空に
ゲンジボタルの幻想的な光の舞が美しい。

また、世界遺産登録の
「丹生都比売神社」・『高野山町石道』をはじめ『西行庵』・『横笛の恋塚』・
俊寛の弟子“有王丸”など
『平家物語』の里でもある。


本足跡










「丹生都比売神社」。。

そう、ここは初めてではなく。。
前にも来てるのだけど、

ここに行く途中に‼️…

「ぁ‼️…『西行堂』!!?」…ジジ!!キラキラ


『西行堂』。。西行‼️。。


前のときは、全然気づかなかったけど…

この神社の近くにあったんだ⁉️…




神社に行ってから。。。

帰りに、寄ろうと。。キラキラキラキラ






『西行庵』


西行 ‼️。。。

縁 。。。




前にやって来たときには、
気づかなかった場所。。






















なく虫の 草にやつれて いく秋か

あまのに残る 露のやどりぞ

筆


























































『西行』







 「西行が出家してまもなく
(西行の出家は23歳頃)、
妻も尼となり1142年
“ここ”に庵を結び読経三昧の生活を送っていました。
娘も出家の志があって、京都より15歳ばかりにて “高野山の麓の『天野』” 
と聞いただけの一人旅。
やっと『天野』にたどり着き、
母娘二人で仏門に入り、生涯を終えたのでした。
娘の亡くなったのは
1199年秋彼岸と言われています」。

西行の俗名は「佐藤教清(のりきよ)」、
御所の『北面の武士』だった。
23歳頃思うところがあり妻子を捨てて出家した。
2、3年間京・嵯峨野辺りに庵を結んだ後旅立ち、
30代は『高野山』で仏道修行をした。
40代になり全国を旅するようになった。

妻と娘が『天野の里』に庵を結んだのは、
西行が高野山で修業中のこと。
高野山は『女人禁制』だったので精々近づけても『天野の里』までだった。
西行は、妻子が『天野の里』に暮らしていることを知っていたらしい。
妻子の庵を訪れたという説もある。

確かなことは、西行の実家・『佐藤氏』は
紀ノ川沿いに荘園を持つ有力な豪族であった。
西行の放浪・修行生活は実家の経済的支援があればこそ成り立ったであろうし、
妻子も庵を維持できたのはそこが佐藤氏の地盤に近い『天野の里』だったことがあろう。 






『西行堂』。。西行‼️。。。

それを目にし…やって来たわけだが‼️…





でも。。
今回の『目的』…
これの本当の『ミッション』は


むしろ、、こちらのほうだったみたいだ。。




『西行妻娘の墓』

西行の妻娘が暮らした『西行堂』のすぐ下には、二人の墓があります。
西行は23歳の時に出家しました。
保延6年(1140年)であったと考えられています。
その2年後にまず妻が出家して尼となり、
天野に庵を結びました。
さらに娘も15歳になると出家して、
天野の母の元に身を寄せ、二人で住んだと
『発心集』に記録されています。
二人はここで生涯を終えたようです。

村人は墓を守り、庵が朽ちた後には、
墓の横にお堂を建てて西行並びに妻娘の供養を始めたのが、『西行堂』の始まりと伝えられています。







『西行堂』

西行法師は、本の名を
佐藤義清(さとうのりきよ)という武士でした。
出家して後、妻も尼となり天野に住んだのが、
康治元年(1142年)の頃です。
この地に庵を立て読経(どきょう)の生活をおくりましたが、
娘も京都より15歳ばかりにて
高野の麓の天野と聞いただけのひとり旅 
やっと天野に辿り着き、母娘ともに
天野の里で尼となり、この地で
母娘ともに生涯を終えました。 
『西行堂』の下3m程の所に、
里人が花を供え守り続けてきた
『妻娘(さいし)の塚』があります。
『西行堂』は、西行・妻娘をしのんで建てられ古くから高野山の僧や一般のお参りが多かったとされます。
天野の里人は堂の再建を繰り返し、
平安時代末期より守り続けてきました。
お堂は、昭和六十一年に場所を移して再建されました。

本足跡










高野山は女人禁制だった。
それでも真言の教えにあずかりたいという女人はいるもので、そういう女人は
高野山の麓の『天野』というところに
庵を結んで修行していた。
西行が出家のために捨てた妻子も
『天野』で庵を結び、そこで往生した。

西行の妻と娘が『天野』に行った経緯については、『西行物語』が伝えている。
それによると、西行の妻は、夫が出家してすぐに剃髪し、一・二年は娘と一緒に暮らしていたが、娘が九条民部卿の姫で冷泉殿と呼ばれた方の養女としてもらわれた後、
高野山の麓の『天野』というところに
庵を結んで仏道修行をした。

一方娘のほうは、冷泉殿のもとで成長したが、その話を聞きつけた西行が、娘と再会して、こんなところで人に仕えて老いるよりは、
尼になって、母と一緒に暮らし、
来世には極楽浄土に生まれ変わりなさいと進めた。
娘は父親の進めにしたがって、自ら剃髪し、
『天野』の母を訪ね宛てて、一緒に住んだとある。

異説では、娘は西行の弟に預けられたともいうが、いずれにしても、成長後は母親とともに『天野』で暮らし、そこで寿命を終えたようである。
なお、西行の妻は西行の死後まで生き、
娘はさらに母の死後十年ほどは生きていたらしい。

この話は、『天野』が女人にとっての
『真言修行の拠点』であったということを物語っているのだろう。
後世に作られた説教の語り物『刈萱』では、
高野山にこもっている男を訪ねて妻と息子がやってくるが、妻は女人禁制の掟に従って麓に待機し、息子が単身高野山に上って父親を探しまわることになっている。
この場合、妻が麓で待機した場所というのも、説教のテクストは明示していないが、
おそらく『天野』だったと思われる。
『天野』は、「尼野」が転化したしたものだろう。







寄ってくる可愛い娘を蹴落とす。。


『出家』の決意。。。別れ、旅立ち















西行 ‼️の。。。妻と娘。。。








『鬼王の墓』

鬼⁉️…

行ってみよう‼️。。↑キラキラキラキラ











『西行妻娘宝篋印塔』
(さいぎょうさいしほうきょういんとう)

二基の『宝篋印塔』は、
西行の妻と娘を供養した碑で
和歌山県の文化財に指定されています。
向かって右より二基は
応安五年(1372年)建立され、
左二基は文安六年(1449年)に建立されました。

『西行妻娘宝篋印塔』の裏側
にある数多くの五輪塔は、
曽我兄弟の郎党、鬼王・団三郎を
供養した碑です。
二人の郎党は、主人の遺骨を高野山に納めたのち天野のこの地で生涯を終えたと伝えられています。

本足跡







『鬼王』・団三郎‼️。。
『曽我兄弟』の郎党‼️…

そういうことかぁ~。。。ジジ





と。。。そのすぐ近くに‼️…

なんだか気になるものが ⁉️…。。。





?!!!!




モモタロウ



これは~???。。。

深イイ…意味のやつですか❓…黒猫もう…























『高野山麓』
『かつらぎ名物』











『伏兎』(ふと)
































花のうた
 あまたよみ侍りける時

仏には
 さくらの花をたてまつれ

わがのちの世を
人とぶらはば

 花 筆











『西行法師』の俗名は“佐藤義清 ”という。
史料によっては憲清・則清・範清と表記されており、名前の読み方は「のりきよ」であったと思われる。

 彼の家柄は、『承平・天慶の乱』で
武功を立てたことで知られる藤原秀郷の嫡流である。
代々『左衛門尉』・『内舎人』などに任ぜられ、『佐藤(左藤)』と呼ばれた。
祖父の季清は極めて有能な官人だったようだ。
また紀伊国(和歌山県)に所領を持ち、
裕福な家柄でもあったと思われる。

 義清(後の西行)は
“佐藤康清 ”を父として、
今様や蹴鞠などに優れた監物 “源清経 ”の娘
を母として、
元永元年(西暦1118年)に生まれた。
奇しくも平清盛と同年である。
幼くして父を失ったらしい。


保延元年(西暦1135年)18歳で
『兵衛尉』に任じられ、やがて鳥羽院の下で『北面』に補せられ(※『北面の武士』として、院の警護に当たる役職)、
また徳大寺家藤原実能の家人として仕えた。
彼が “崇徳院 ”に心を寄せたのは院が
徳大寺家の血筋であるからであろう。
彼は和歌・流鏑馬・蹴鞠などにその才能をあらわし、鳥羽院にも愛された。
 だが、そんな前途洋々たる生活の中で、
彼は保延六年(1140年)
23歳にして出家した。
これは藤原頼長の『台記』、
『百練抄』(十月十五日とある)によるもので、
『西行物語』、『撰集抄』、『吾妻鏡』
などによる異説がある。
法名を『円位』、房名は『大宝房』、
号して『西行』という。

出家遁世の原因については古来様々な説が云々されている。
『西行物語』(鎌倉時代)には
切迫した無常観によるものとあり、
『源平盛衰記』には、
ある上臈女房に対する失恋によるものとある。
また室町時代末頃の
『御伽草子』『西行』には
鳥羽院の女院を恋して出家したとある。
また一族で友人であった左衛門尉憲康が急死し、世の無常を感じたとも、
政争相次ぐ現世に厭離の念を起こしたともいう。
実際の所は不明と言うほか無いが、
おそらく、先行する能因法師などの遁世歌人の例に倣ったのであろう。

 彼には出家時に
妻(“呉葉の前 ”とも)と娘があったという、
これは鴨長明『発心集』に記されており、
ほぼ間違いないだろうとされている。
この他に『尊卑分脈』によると、
後に高僧となった“隆聖 ”という息子がいたともいう。
また『十訓抄』によると夭折した娘があったという。
父親を慕ってすがりつく、日頃心からかわいがっていた娘を、縁から蹴落として執着を絶ったという逸話は『西行物語』に見られるものだが有名だろう。
妻と娘のその後については、早く亡くなったとか、尼になったとか、貴族の家へ上がって幸福になったとか、説話によって様々だ。

 『台記』(永治二年三月十五日の条)には
次のように記されている(原文は漢文)。
「重代の勇士を以て法皇に仕え、
俗時より心を仏道に入る。
家富み年若くして心無欲、
遂に遁世、人之を嘆美す」

出家後しばらくは
『京嵯峨』や『東山』に草庵を結び、
歌会へ出たり『鞍馬寺』で仏道の修行を行ったりしたと伝えられる。
その後能因法師の足跡を辿って『奥州』を旅している。
『白河関』、『信夫の里』、『衣河』など
歌枕を訪ねつつ
『平泉』より『出羽』にまで至った。
その後は『高野山』に庵を結んだ。
そこでは、毎年『吉野山』で花見を行い、
また修行を兼ねて天王寺、熊野、厳島等の寺社に参詣し、『大峯』で修行したとも伝えられる。
結局諸国行脚は五十年にわたり、
生涯の三分の二を旅に送ったことになる。


本足跡