🏔️❄️キラキラ











『吉野山』。。。


【上千本】⇨⇨⇨【奥千本】














【奥千本】‼️ ↑キラキラキラキラ
























『義経隠れ塔』




奥千本・
『義経隠れ塔』(『蹴抜けの塔』)

「金峯神社」社殿の東側の小道をまわると
『義経隠れ(蹴抜け)塔』
と呼ばれる修験道の修行場があります。
吉野にて つかの間の休息を得た義経主従ですが、鎌倉の報復を恐れた吉野衆徒の心変わりにより一転、狙われる身に。
追い立てられた主従はこのお堂に逃げ込みますが敵に囲まれ万事休す!
しかし義経少しもあわてず
屋根を蹴破りみごと脱出‼️。。
 ここから先は『大峯山』への入り口、
女人禁制の修験の道。
吉野をあとにした義経主従の足取りはこの後
杳として知れず、神出鬼没の逃亡劇がはじまります。







『大峯修行場』の一つ。

塔に入って扉を閉じると中は真っ暗になります。
1185年11月、源義経が弁慶らとともに隠れたと伝えられています。

ここは大峯修行場の一つです
この塔に入って扉を閉じると中は真っ暗になります

『吉野なる 深山の奥のかくれ塔 
本来空の すみかなりけり』

と唱えながら塔内をめぐります。
 

本足跡





















キラキラキラキラキラキラ






さぁ‼️…ここから先 !!


『西行庵』へ‼️。。クロネコちゃん↑キラキラキラキラ















奥へ‼️…奥へ‼️。。と進みます‼️。。キラキラキラキラ

















けっこう狭い山道も通ります‼️。。キラキラキラキラ

















ラヴねこやんキラキラキラキラキラキラシャボン玉








『西行庵』






 『新古今和歌集』の代表的歌人の一人
である西行が、武士を捨て、
法師となり3年間侘住まいをしたと伝わる小さな庵。
庵の中には西行像が安置されている。

「金峯神社」から山中を入ったところにある。
庵の近くには、
「とくとくと 落つる岩間の苔清水
汲みほすまでも なき住居かな」
と西行が詠んだ『苔清水』が
今でも湧き出ている。
『清水』は
『大和の水31選』の一つに挙げられている。
また、西行を師と仰ぎ、ここへ2度訪れたという芭蕉の句碑も立つ。
付近は桜や紅葉が素晴らしい。

本足跡














西行 ‼️ 。。。




『西行庵』。。
実は、ここにやってきたのは‼️…初めてである。。

何度か『吉野山』は訪れているが、
「金峯神社」。。『義経隠れ塔』。。
まで 足跡

ここを訪れるのは、初めてになる。

西行‼️。。。



そう‼️…

ここの。。。この“ひとつ”の繋がりが、

”ひとつ “。。から…拡がっていくことになる。。



まぁ。。『繋がり』だとか『縁』といったものは、得てして…そういうものである。笑キラキラ









キラキラキラキラキラキラ


















西行‼️。。
日本の鎌倉時代の武士、僧侶、歌人



西行(さいぎょう)
元永元年(1118年) - 
文治6年2月16日(1190年3月31日)は、
平安時代末期から鎌倉時代初期に
かけての武士・僧侶・歌人。

父は左衛門尉・佐藤康清、
母は監物・源清経女。
同母兄弟に仲清があり、
子に隆聖、
女子(単に西行の娘と呼ばれる)がある。

俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。
憲清、則清、範清とも記される。
出家して『法号』は円位、のちに西行、
大本房、大宝房、大法房とも称す。


勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。
『千載集』に18首、
『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。
家集に『山家集』(六家集の一)
『山家心中集』(自撰)『聞書集』、
その逸話や伝説を集めた説話集に
『撰集抄』『西行物語』があり、
『撰集抄』については作者と目される。





【生涯】

秀郷流武家藤原氏の出自で、
藤原秀郷の9世孫。
佐藤氏は義清の曽祖父・公清の代より称し、家系は代々衛府に仕え、また紀伊国田仲荘の預所に補任されて裕福であった。
16歳ごろから徳大寺家に仕え、
この縁で徳大寺実能や公能と親交を結ぶこととなる。
保延元年(1135年)
18歳で『左兵衛尉
(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ、
同3年(1137年)に
鳥羽院の『北面武士』としても奉仕していたことが記録に残る。
和歌と故実に通じた人物として知られていたが、
保延6年(1140年)
23歳で出家して『円位』を名のり、
後に『西行』とも称した。

出家後は心のおもむくまま諸所に草庵をいとなみ、しばしば諸国を巡る漂泊の旅に出て、
多くの和歌を残した。

出家直後は
『鞍馬山』などの京都北麓に隠棲し、
天養元年(1144年)ごろ奥羽地方へ旅行し、
久安4年(1149年)前後に
『高野山』(和歌山県高野町)に入る。

仁安3年(1168年)に中四国への旅を行った。
このとき讃岐国の「善通寺」
(香川県善通寺市)でしばらく庵を結んだらしい。
『讃岐国』では
旧主・崇徳院の『白峰陵』を訪ねて
その霊を慰めたと伝えられ、
これは後代に上田秋成によって
『雨月物語』中の一篇『白峰』に仕立てられている。
なお、この旅では
 “弘法大師の遺跡巡礼 ” も兼ねていたようである。

後に『高野山』に戻るが、
治承元年(1177年)に
伊勢国『二見浦』に移った。
文治2年(1186年)に
『東大寺再建』の勧進を奥州藤原氏に行うため2度目の奥州下りを行い、
この途次に鎌倉で源頼朝に面会し、
歌道や武道の話をしたことが『吾妻鏡』に記されている。

伊勢国に数年住まったあと、
河内国の「弘川寺」
(大阪府南河内郡河南町)に庵居し、
建久元年(1190年)にこの地で入寂した。
享年73。
かつて
「願はくは花の下にて春死なん 
そのきさらぎの望月のころ」
と詠んだ願いに違わなかったとして、
その生きざまが藤原定家や慈円の感動と共感を呼び、当時名声を博した。






【出家】

出家の際に衣の裾に取りついて泣く子(4歳)を縁側から蹴落として家を捨てたという逸話が残る。
この『出家』に際して以下の句を詠んだ。

「惜しむとて 惜しまれぬべき此の世かな 
   身を捨ててこそ 身をも助けめ」






【崇徳院】

あるとき(1141年以降)西行にゆかりの人物(藤原俊成説がある)が
崇徳院の勅勘を蒙った際、
院に許しを請うと
崇徳院は次の歌を詠んだ(『山家集』)。

「最上川 つなでひくとも いな舟の 
しばしがほどは いかりおろさむ」

意:最上川では上流へ遡行させるべく
稲舟をおしなべて引っ張っていることだが、その稲舟の「いな」のように、しばらくはこのままでお前の願いも拒否しょう。
舟が碇を下ろし動かないように。

対して西行は次の返歌を詠んだ。

「つよくひく 綱手と見せよ 
もがみ川 その稲舟の いかりをさめて」

意:最上川の稲舟の碇を上げるごとく、
「否」と仰せの院のお怒りをおおさめ下さいまして、稲舟を強く引く綱手をご覧下さい
(私の切なるお願いをおきき届け下さい)。





【旅路において】

『西行戻し』。。
各地に『西行戻し』と呼ばれる逸話が伝えられている。
共通して、現地の童子にやりこめられ恥ずかしくなって来た道を戻っていく、というものである。

松島「西行戻しの松」
秩父「西行戻り橋」
日光「西行戻り石」
甲駿街道「西行峠」




【伊勢神宮で詠んだとされる歌】

『伊勢神宮』を参拝した時に詠んだとされる

「何事の おわしますをば知らねども 
   かたじけなさに 涙こぼるる」
という歌があり、
日本人の宗教観を表す一例に挙げられる。





【源頼朝との出会い】

頼朝に『弓馬の道』のことを尋ねられて、
一切忘れはてたととぼけたといわれている。

頼朝から拝領した『純銀の猫』を、
通りすがりの子供に与えたとされている。






【晩年の歌】

以下の歌を生前に詠み、その歌のとおり、
陰暦2月16日、『釈尊涅槃の日』に入寂したといわれている。

ねかはくは 花のしたにて 春しなん 
そのきさらきの もちつきのころ 
(『山家集』)

ねかはくは はなのもとにて 春しなん 
そのきさらきの 望月の比 
(『続古今和歌集』)


本足跡


西行と櫻。。。





よし野山 さくらが枝に雲散りて
花おそげなる 年にもあるかな 



吉野山 去年(こぞ)のしをりの道かへて
    まだ見ぬかたの 花を尋ねむ 



ながむとて 花にもいたく馴れぬれば
  散る別れこそ 悲しかりけれ 



願わくば 花の下にて春死なむ
その如月の 望月の頃


筆













西行は、奥吉野の「金峯神社」の近くに庵を結んで、三年間桜の園の中に埋もれるように暮らした。
現在でも、西行が棲んだ跡が『西行庵』として遺っているが、桜は吉野山の麓の辺りから、徐々に標高の高い方に向かって、花を咲かせてゆく。

きっと西行は、桜の頃になると、
そわそわとまるで恋人が、庵に尋ねて来るような心地で、花の開花を待ったことだろう。
『西行庵』が、在ったこの辺りは、
桜の名所の吉野でも一番最後に、桜が開花する場所でもある。





花

日本人にとって古来、『桜』
と言えば『山桜』を指した。
今は何か、『ソメイヨシノ』なる新品種が、全国を早く成長するというので、持て囃されてしまっているが、まったく風情というも のがない。

『山桜』は、
吉野山の厳しい環境のなかで、豪雪と寒風に耐えながらやっと大人の木となって花を結ぶ。
だからこそ吉野の桜は美しいのである。

吉野の「金峯神社」は、役行者(小角)が開いた古社である。
『修験道の祖』と言われる役の行者は、
金峯山の山上で桜木で『金剛蔵王権現』を彫り、一心不乱に祈りを続けると、霊験があった。
そして桜は神木となり、
この地方の人々は、桜の木と言えば、
たとえ枯れ木一 本、信仰の対象とし、
薪などにはしなかったのである。

もしかすると、西行は、
吉野山の桜というよりも、ここに宿っている目に見えぬ祈りの華ににこそ美を見いだしたのかもしれないと思う。
やはり『吉野の桜』を何処に咲いている桜よりも西行が心に掛け、多くの吉野の山と桜に関する歌を詠んでいる理由は、
吉野に住む人々 たちが、この山を山岳信仰の対象として、おらが山の桜を、
「神の花だから大切にしなさい」と、
親から子へと連綿と語り伝えて、丹精を込めて育んできたからに他ならないのである。

そもそも『桜』とは、勝手に山に群生し、
勝手に増えて行く類の花ではない。
吉野という山に対する深い信仰があり、
この祈りが、吉野山をして、
桜の名所としてきたことは明らかだ。 
  

本足跡