B29による

日本空襲での

米軍の機上戦死者(3041名)の数と


特別攻撃での戦死者数

(航空機に限れば約4000名)は

数字が近いのです。



欧州でのドイツ領(+占領地)の

戦略爆撃では

英米空軍の機上戦死者は

約6万人とされています。



戦死者数からすれば

イメージするものと現実とに

ズレがあるように思われます。






「決死(死を覚悟する)」か

「必死(必ず死ぬ)」の


違いはあるものの

決して


日本軍人だけが

憐れまれるものではないのです。



これまで行為の是非は方法ではなく「自主」か「命令」かということで議論されてきました。

ここまでは前置きです。


わたしは

「特別攻撃」の本質は

これまでの話とは違ったところにあると考えています。






特別攻撃の本質は、人間が制御装置になった「対艦誘導弾」である。

つまり、
人が兵器をつかうのではなく
人がそのまま兵器(機械)の一部に
なるということです。

よく「特別攻撃」は精神主義の極致のように言われる。


精神主義を唱えることは結局
人が機械の一部になることを意味します。

※精神主義
物質に対して、人間の精神の働きを優先し、または決定的な要因とみなす考え方。精神的なものを根元的な支配原理と認める考え方。精神力の強度の緊張や集中によって、物質を支配、克服できるとする。




普通は
精神主義と科学主義とは
相容れない扱いをされるものなのに

科学主義

基本的には、いくつもある知のあり方の一つである(あるいは、一つにすぎない)「科学」が、「科学」にふさわしい領域を越えて適用されうるというやり方、しようとするやり方について、不当な拡大適用だ、として批判的に指示する表現である[1]





そこにあるのは
「科学主義」と「精神主義」という
正反対のものの奇妙な結合である。

ここで起きていることは「非人道」ではなく「超人道」といってもいいのかもしれません。

これはカール・マルクス氏の言う「疎外」そのものですね。






再度、その本質を考えていくためには

意味が広がってしまった「特攻」※という省略形ではなく、「特別攻撃」という呼び名をつかいたいものです。

※若い子たちは「特攻」を「突っ込む」という意味でつかっています。

「特攻をかけるぞ」といった具合にです。
どうしても違和感をもつので、わたしはできるだけ省略形をつかわずに「特別攻撃」と呼んでいます。



確かに
特別攻撃は、単なる思い付きではなく作戦行動でした。

それは
戦術的な必要から生まれたのですが

言ってみれば

日本社会がもっていたものから
必然的に生まれたもの

とも言えます。


特別攻撃を

  受け入れてしまった者たち


彼らのほとんどは「予備学生」と呼ばれる
当時のエリート層です。

たった1年ほどで飛行機を操縦できるようになる人材は彼らしかいません。

かつての
イラン・イラク戦争で
促成の戦車兵がすべて
マニュアルが読める大学生だったように。

彼らには
特別攻撃の論理を受け入れてしまう
弱さがありました。


その弱さとは・・・

つづく










日本兵は誰もが『死ぬための訓練』を受けていました。


武士道の掟です。


捕虜になるくらいなら、自決して死んだほうがましだ、というわけです。


当然、私たちも、

捕虜になったら殺されると思いました。


殺すか殺されるかの戦場でした。


日本では、誰もが

アメリカ人を殺すように

訓練されていました。


10代の子どもでさえ、

兵士に近づいてポケットに手榴弾を入れ、ピンを抜く。


もし

日本本土が戦場になっていたら、


日本人だけで

さらに数百万人が

死ぬことになったかもしれません。


最終的に原爆で数十万人の日本人が命を落としました。


しかし


さらに多くの人たちが死ぬよりも

良かったのではないかと


私は考えます。




戦争が終わり、講和条約が結ばれました。


アメリカと日本は良い友人になりました。


そして今、

日本は世界の中で良き同盟国の一つとなっています。