ドイツの学校教育は
1年掛けて徹底的に 
 ナチス・ドイツのやった事を教え込む。

僕は戦後生まれだが、僕の中学時代から既に社会科の歴史は現代史に辿り着く事なく終わった。

 

79年目の終戦記念日
(このネーミングにも疑問があるが)

街でインタビューに答えた

2人の男性が印象的だった。


 1人は24歳

「え!日本はアメリカと戦争したの?」

 



 もう1人は87歳

「今はもう戦前と同じです」




我が錦鯉一族の中にも硫黄島で
戦死した人がいる。

遺骨さえ帰らなかった。

祖父母は在命中、絶対に靖国神社に行かなかった。


「硫黄島で玉砕した◯◯の魂は靖国にはない!この国の国民は生きても死んでからも国に利用される」


祖父は英霊と云う言葉を憎んだ。
綺麗事に事実はないと。





戦争の話は何度も聞かされた。
戦争は人間を馬鹿者にする。

世の中全体が
そんな空気になれば
個人は逆らえなくなる。



誰が戦争を始めたのか?

絶望的状況なのになぜ
戦争を継続したのか?

何のための戦争だったのか?


誰も説明しないし誰も責任を取らない。


東京、大阪、神戸、名古屋の空襲で無くなった市民は無駄死であり1円の補償もない。

「戦争受認論」で退けられる。


戦争受認論とは
国民全体で起こした戦争だから
補償はありませんと云う理屈である。



そうか、



あの戦争は
国民が起こしたのか?



真珠湾攻撃を決めたのは

そこらの
魚屋のオジサンか。。。






まず、最大の勘違いの話から。


日米戦が終わったのは、8月15日ではありません。


8月15日は降伏の実務交渉を始めるための停戦に合意した日です。


理屈上は停戦ですから、その後の交渉が成り立たなければ戦争は再開されます。



実際に停戦を承知の上で

米軍を攻撃した事実もあります。


日本が降伏文章に調印したの

9月2日です。


この日が戦争が終わった日です。



 

やはり、この時期になると思い浮かんでくるのは「特別攻撃」のことです。
普通は「特攻」という省略形がつかわれます。
 

普通には「特別攻撃」=「体当たり攻撃」という理解でしょうか。


当時の帝国海軍の航空部隊では帰投不能と判断して「自爆」で相手を道連れにしようとする習慣?がありました。


捕虜にならないように指示(理解としては命令)されていたことが理由に挙げられますが


現実には個人の判断ではなく

一種の戦術として定着していた

ことがうかがえます。
 
米軍の機動部隊(タスクフォース)への昼間の攻撃は1944年後半の時点でほとんどが自殺行為に近い状態にありました。


相手に近づく前に打ち落とされるという現状でした。
仮に攻撃に成功(命中を意味しない)してもほとんどが生還不能でした。
 
それからすると

攻撃命令自体が「死ね」と

同じであったと言えます。


ですから、

軍人の中には


同じ死ぬのであれば、

相手に一太刀浴びせるために

少しでも爆弾を命中させるために


操縦者自身が

誘導装置となることを

考え始めた者がいました。


これが特別攻撃の発想へとつながります。

でも、戦死者数という事実からすると
米軍がB29による日本空襲での機上戦死者(3041名)の数と


特別攻撃での戦死者数(航空機に限れば約4000名)は数字が近いのです。


欧州でのドイツ領(+占領地)の戦略爆撃では英米空軍の機上戦死者は約6万人とされています。


戦死者数からすれば

イメージするものと現実とに

ズレあるように思われます。

「決死(死を覚悟する)」か

「必死(必ず死ぬ)」の

違いはあるものの


決して


日本軍人だけが

憐れまれるものではないのです。




だから



これまで行為の是非は方法ではなく

「自主」か「命令」かということで議論されてきました。

ここまでは前置きです。


わたしは「特別攻撃」の本質は

これまでの話とは違ったところにある

と考えています。







 
ホラティウスは、
敵の攻撃を食い止めるため、

彼の呼びかけに応じた若者と共に、
自らの命を捧げた。

この若者達は、
2,500年の時を経て今も尚、
歴史にその名を留めている。

戦いの中で自らの犠牲を厭わず、家族、仲間や祖国を護ろうとしたのは殆どが「無名の人々」だった。

世界の各国では、こうした自己犠牲の兵士達を「英雄」として崇め、今も語り継いでいる。