「負けるって
こういうことなんだ。」

もうそろそろ50歳になる私も

そう思った。

負けるというのは、

大切なものを守れない

ということ。



私の母は、戦後生まれの引き揚げ者である。

祖母は、子どもだった私にときどき
その頃の話をした。



引き揚げの様子を祖母から聴きながら、子どもだった頃の私はその場面を想像していた。


その想像によれば、

乳児(私の実母)をリュックに入れて歩く祖父母は、大変立派なしっかり者の大人の夫婦だったのだが


その頃の祖父の年齢は25歳で

祖母は21歳である。


ちょうど、今現在の私の息子たちと

そう変わらない。





日中戦争がはじまる前の1935年の男性の年齢別人口と戦争が終結した1945年の人口とを比較してみる。同年齢推移比較のため、1940年時点での年齢ベースのコーホート推移としている。







1935年時点では、

年齢別になだらかな線を

描いていた分布が、


1945年には20歳(つまり1945年時点では25歳)がボトムとなったいびつな形になっている。


戦争によって人口が減ったのは、

明らかに


1945年時点で20~35歳だった

若い男たちである。


もちろん、これは日本国内の人口であって、減った数がそのまま戦死者ということではない。


日中戦争がはじまった1937年、太平洋戦争がはじまった1941年以降、徴兵された若者は中国や東南アジア、太平洋の最前線に送り込まれた。


戦後、1947年頃には、多くの復員兵が帰国した。そのため、


多少若者の人口は戻っているが、

それでも  


おびただしい戦死者は

若い男性たちに集中している。


出征したまま還ってこなかった

年齢層でもっとも多いのは、


終戦時20-24歳の

男子である。

当時でも、20-24歳は91%が未婚である。


要するに、

ほとんどの若者は、

未婚のまま戦死していったのだ。






恋愛ひとつ経験したことのない子も大勢いたことだろう。


一方で、結婚したばかりなのに戦争によって引き裂かれてしまった二人もいる。

利夫さんと智恵子さんのカップルもそのうちの一組である。

戦争に引き裂かれた

 若い二人の物語


二人が出会ったのは、

昭和16年の夏

利夫さんが大学生の頃図書館にて。


昭和20年3月に、利夫さんは、東京の智恵子さんの両親を訪ね、結婚の許しをもらう。


二人にとってその夜は、結婚が決まったとてもうれしい夜だったことだったろう。

3月9日のことである。

利夫さんは、9日の夜は自分の親戚のいる目黒に泊まった。

しかし、日付がかわった3月10日、あの東京大空襲が起きる。米軍の焼夷弾によって東京が焼き尽くされ、11万人以上の死者を出したあの日である。

智恵子さんの無事を心配する利夫さんは、まだ夜が明けないうちに目黒の親戚の家を飛び出し、智恵子さんの実家へと徒歩で向かう。


同じ時、利夫さんの身を案じる智恵子さんも、夜明けとともに目黒に向けて歩き出していた。携帯電話もない時代、二人が出会える確率なんてほぼゼロに等しい。

しかし、二人は、途中の大鳥神社のあたりで、偶然にもバッタリと出会えた。


なんという

奇跡だろうか。

互いの無事を確認して喜び合った二人だが、利夫さんはすぐにも東京を離れないとならない。


利夫さんは昭和18年、

戦時特例法によって大学を繰り上げ卒業し、陸軍特別操縦見習士官として入隊していた。


そして、昭和20年には

特攻隊に配属となる。



利夫さんは出撃前の特別休暇をもらい、智恵子さんとの婚約を果たしに来たのだ。


部隊に戻らないといけない。

二人は、避難する人であふれかえる池袋駅で永遠の別れをする。


その一か月後の4月に利夫さんは

出撃した。



下記の写真は、あまりにも有名な特攻出撃の写真である。知覧の女子高生が桜の枝を振って出撃を見送るが、この機体に搭乗して出撃しているのが利夫さん(穴澤少尉)である。






当時まだ23歳だった。





智恵子、会いたい,話したい,無性に。

今後は明るく朗らかに。

自分も負けずに,

朗らかに笑って征く。


昭20・4・12 利夫

智恵子様

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23歳の一人の若者・穴澤利夫さんの辞世の句がこちらである。



    

「ひとりとぶも 

ひとりにあらず 


ふところに きみをいだきて 

そらゆくわれは」



利夫さんは、智恵子さんの

女物の赤いマフラーを巻いて 

飛び立った。


無念だったろう。


会った事もない

どこかの爺さんの為政者が

勝手に決めた戦争で

最前線で戦わされ、


犠牲となるのはいつも若者であり、


彼らのささやかな幸せを奪い、

未来を永遠に奪う。


しかし、


未来を奪われた利夫さんが

飛び立っていったのは、

「愛する人の未来のために」

であったことは確かなのだろう。 


と言っていいのだろうか?



  




「男の子だから」

そんなことを意識せずとも


気がつけば

男子という生物として

彼らは生きていた。


男女平等徴兵令
男女問わずで年令問わず

そういう条件だったなら
私は迷わず 自分を選ぶ。

母に
「そういうときは、私が行くから。」
「『おばあちゃんをよろしく』」って、おにぃちゃんとりくに言っておくからね。」


と言ったら

「そんなこと言わないで。
私がいたら、逃げられないでしょ」と答えた。

母の父親、私の祖父は
「戦争から帰ってきたら、結婚してほしい」と祖母に言った。


それは、プロポーズというものだったのだと思う。

その結果として生まれた母は

「私は 
奇跡的に生を受けて、

それから80年近くも生きたということ。
だから、一人で大丈夫」と言った。

そんなことにはならないことが
もちろん一番いいけれど

そんな事態に
優先するのは

私にとっては
息子の未来と命である。



「母親だから」

そんなことを意識せずとも


気がつけば


母親という生物として

私は生きていた。


人を救う

その仕事には、はじめから
性別なんて関係ないのだ。

それでも、彼らが 

人助けをして
立派に死んだら

そのときは
「よく頑張ったね」と言えるだろう。


彼らには彼らの
生き方があって死に方がある。






人間は,桜と薔薇が違っていることは理解していたものの,では何が違うのか,

その根本にまで考えを巡らすことまではしていなかった。 

それを人類史上はじめておこなったのがリンネだったのである。

彼は科学的にこう考えた。

「その植物にとって一番重要な役目=植物の本質は何だろうか。それは子孫を残すということに違いない」

「では子孫を残すために植物の中で一番重要な器官は何か。それは雄蕊と雌蕊に違いない」

こうした科学的な論理を用いて雄蕊と雌蕊を起点にして植物を分類していったのである。

現在,私たちは花粉症の季節に「杉科がダメ」「稲科がダメ」というような会話をするが,この会話の元になっている「界−綱−目−属−種」という階層分類体系をつくったのである。

300年前の科学の最先端は,現在でも有効に機能しているのだ。 

リンネの登場後,科学的にモノを分類することがヨーロッパで流行する。

たとえば,リンネの誕生から50年後にドイツで誕生した医学者ヨハン・ブルーメンバッハ(Johann Blumenbach 1752-1840)は科学的に

人間を分類した。

彼が用いた科学的な立脚点は,皮膚の色だった。

すなわち人間を「白−黒−黄−茶(マレーと表現)−赤」の5つに分類したのである。

白は主にヨーロッパに生きる人たち,
黒は主にアフリカに生きる人たち,
黄は主にアジアで生きる人たち,
茶は主にマレー半島などアジアの赤道近くで生きる人たち,
赤はアメリカ大陸の先住民たちを意味していた。


これが人種概念の誕生の瞬間だった。

現在の科学の最先端はDNAだ。DNA解析では,特定のDNAが特定の人間集団を作り出しているという仮説が

否定されている。

換言すれば,白人だけが持つ特定の遺伝子,あるいは黒人だけが持つ特定の遺伝子,というようなものは

存在しない。

すなわち現代科学では,
人種概念は完全に否定されているのだ。

だが,
社会的・政治的には人種概念は
いまだに残存している,

というよりも,ますます強化されてきているようにも見える。

ブルーメンバッハのさらに50年後,イギリスで誕生した生物学者チャールズ・ダーウィン(Charles Darwin 1809-1882)が進化論を提唱する。

ダーウィンの才能は図抜けているが,進化論は彼の頭の中である日突然閃いた,というわけではない。

その前段階として100年間にわたって科学的にモノを分類するというヨーロッパの文化が強く影響を及ぼしていた要因が

絡み合った結果としての
戦争だったのだ。

たとえば,
マルクスの『資本論』によって資本主義と共産主義の思想的対立が起こった。

また,世界システム論的に言えば,
中心となる欧米諸国と,周辺国との間に広がりつつあった格差問題(と南側社会の貧困問題)があった。

植民地主義がもたらした植民地内における社会の歪みも増大していった。

そうした様々な要因の中でも
優生思想は,

ナチスドイツでおこなわれたホロコーストを生じさせたという点だけをみてみても

非常に危険な考え方を内包していた。

「優生学」とは「人類の遺伝的素質を改善することを目的として,悪質の遺伝的形質を淘汰し,優良なものを保存することを研究する学問」だとされている。

この言葉を善意に解釈すれば,

たとえば,何らかの疾病を引き起こす遺伝子が特定されたとして,それを,

どうすれば親から子に遺伝しないようにできるかを研究したりすることであり,

そこにはどのような「悪」の匂いもしない。

「病気になって地獄のような苦しみを味わいながら死んでいきたい」
「自分が持っている疾病の遺伝子は,なんとしても子どもたちに引き継いでいってもらいたい」などと考えている人などいないからだ。

だが
こうした「純真無垢」な思想は
たやすく暴走する。