平和祈念展示資料館


戦争体験

「語り部」



同館学芸員の高倉大輔さんは

「今の若い世代の祖父母は戦後生まれのことが多く、戦争体験を聞くこともできない」「語り部の実体験には重みがある」と話す。


以下、新聞に掲載されていた90歳の女性の語りである。




3歳の時、父が満州に赴任することとなり家族で移り住んだ。


ソ連軍が侵攻したのは、12歳になった私が女学校に通うために家族と離れて暮らしていた頃である。



1945年8月未明、寄宿舎で就寝中に爆撃音で飛び起きた。


ソ連軍の攻撃だとわかったのは翌日だったが、その日を境に生活が一変した。



防空壕を掘り空襲に備えていたら、2日後には「ソ連軍が迫っている。すぐに逃げるように」と言われ、学友達とともに汽車に飛び乗った。


その汽車はソ連軍から遠ざかるようにスピードをあげた。


家族が待つ駅を通り過ぎようとしたとき、先輩が「飛び降りよう」と言い、スピードが少し緩んだときに思い切って飛び降りた。


ホームに転がり落ちながらも、なんとか家族と合流することができたが、まもなくソ連軍が家の前を行進するようになった。



近くの寺に一次避難する際には、道端の住民たちが私達に手を伸ばして、


身につけている金目の物をはぎとろうとしていた。


「戦争に負けるってこういうことなんだ。」ということを痛感した。




その後、街中の日本人が集められ、監視下での集団生活がはじまった。



日本人女性への乱暴事件もあったため、私は母によって丸坊主にされた。



冬を越し、引き揚げがはじまった中で残留を命じられた父は


4姉妹のうち長女の私とすぐ下の7歳の妹に


「学校に行ったほうがいいから、札幌市の祖父母の家に行きなさい」と告げた。


妹と2人だけで先に帰国することにショックを受けた。



知らない土地の住所が記された紙切れ一枚を頼りにして


約2500人の引き揚げ団に妹を連れて加わった。




途中、鉄条網で囲まれた馬小屋にとどめられた。



外から、中国語で呼ばれ手招きをされた。肉まんのようなものを手に、子どもを誘っている様子だった。妹がそちらに行かないように必死で手をひいた。




当時は

日本人の子どもが

安い額で売買されていたという。




祖父母の家にたどり着いたのは、40日後。


残った家族全員と再開できたのは、翌年だった。


12歳にして7歳の妹を連れての

40日間の引き揚げ




つらい経験だったが

「妹とふたりで不安だった」

とは、決して口にできなかった。






50歳を過ぎた頃私は


私達2人だけを先に帰国させた理由について、



父から


「残留日本人だけでは

年頃の女の子の安全を

守ることができなかったから」


と聞かされた。




「負けるって

こういうことなんだ。」


もうそろそろ50歳になる私もこの記事を読みながら、そう思った。


負けるというのは、大切なものを守れないということなのだ。




私の母は、戦後生まれの引き揚げ者である。


祖母は、子どもだった私にときどき

その頃の話をした。


母を出産して間もなくの部屋に、ロシア兵が入ってきた。


「あかちゃんをとられるんだ」


隣にいる母を眺めながら

そう思っていたら


そのロシア兵は

長銃で押し入れの中を掻き回したあと

祖母と母の布団に近づき覗き込み


「※♢★▲〇〇」と数回、少しずつペースをさげながら繰り返し


意味を理解しようと目を合わせた祖母の前で、産まれたばかりの母を指し示してもう一度「※♢★▲〇〇」と言って去っていった。


「※♢★▲〇〇」は、祖母はロシア語で私に話したのだけれど、忘れてしまった。


「あかちゃん、かわいいね」

だったのだそうだ。


優しいロシア兵だったんだ。

よかった。


子どもの頃は呑気にそう思ったけれど 

今は





突然、知らない男性が

女性と子どもしかいない部屋に 

入り込んできて


危害を加えられなければ

ホッとする。


「負けるって

こういうことなんだ。」


と思う。



「かわいいね」

ロシア兵にそう言われたあかちゃんが、大人になって結婚し産まれた娘が私である。



ロシア兵とあかちゃんの話から50年ほどが過ぎて、就職した私は新天地の山中で


知らない男性に車に乗り込まれ、馬乗りになられて押さえつけられるという襲われ方をしている。


大事には至らなかったが

ショックは大きかった。


怖くて悔しかったのだろうが、復讐に燃えていたというほうが当時の感情には近い。


警察に届け出たら 


拍子抜けするほどにあっさり「被疑者確保」の連絡があって面通しに呼ばれ、小さな穴からその姿を確認した。



私とさほど年齢は変わらず

大柄で迫力ある刑事さんたちに囲まれてうなだれている彼が、とても小さく弱々しく見えて


「私は、なにもされていないんじゃないか」「なぜ、彼はここでオトナに囲まれて泣いているのだろう」

そう錯覚した。


彼が拘留されてから

刑事さんたちと話をした。


留置する意味と裁判までのながれについて説明を受けながら、私はいくつかの質問をした。


「食事はどうなるのか」

「お風呂は入れるのか」


すると刑事さんが


「あなたは、警察官という仕事をなんだと思っているんだい?」と私に問いかけ


「我々警察官は、犯人を懲らしめるために存在しているんじゃないんだよ。結果的に懲らしめることになるときもあるけどね。」と言い


「被疑者だの犯罪者とはいってもね、人権は守られるようにできているんだよ。日本の法律は」と説明し

「めし、ふろ、ねる。そんなことは、あなたが心配するようなことじゃない。」と述べた。


少し安心した私は、

「おやつは?」と真面目に聞いた。


すると

「おやつの心配とかしてる場合じゃないんだよ!」と今思えば、半ギレになりながらも


「家族からの差し入れがあれば食べられる」と言い


それに続けて


彼が連行されたことを聞いた彼と交際中の女性が、着替えとおやつを持ってさきほどやってきたということを話し


「そんなに心配だったら

証拠見るかい?!」と言ったが


別の刑事さんが止めた。





おんなってやつは…


今思えば、刑事さん達は

そう思っていたのかもしれない。




そのあとに


「強姦未遂にしようと思ったんだけど、ほら、あなたってボタン一つとれてないし、糸一本ほつれていないでしょ?」

「それは、もちろん良かったんだけどね。そういうケースはね、強姦未遂で立件するのは難しいんだよ。」


と話しながら


おやつの話とは比べ物にならないくらい真剣に、今後連絡が来るであろう弁護士さんとの協議に関する説明をはじめた。


「告訴の取り下げ依頼」「慰謝料の提示」がある可能性が高いが、


「そういうことはしないほうがいいよ」という内容で


「なぜならあなたみたいな人はねぇ…」

という忠告的意見とでもいうのか。



そこには


少年課もマル暴も経験してきたという、当時42〜43歳男性、高校生の娘さんと中学生の息子さんがいた刑事さんからの強い説得の理由があった。